寸感二題 英文の信頼性、老人と写真

 

私は、和文よりも英文の内容の方を信頼している。それというのも、英文の内容は、英米人が目を通す可能性があるからである。おかしな内容は、それ相当に彼らから批判されることになる。

日本文は、批判精神のない日本人だけが読むことになる。日本人特有の精神構造は恐ろしい。私たちは、先の大戦中、すんでのところで一億総玉砕させられるところであった。

アメリカに留学中から始まって、日本語の日刊紙の定期購読にオサラバしてこのかた、かれこれ40年になる。その代わりにアメリカの週刊誌を定期購読している。こちらの方は、精読するわけではないが、ぱらぱらとベージをめくると適切なグラフなどが出ていて内容もわかりやすく、有用である。

我々は、もっと英文を活用すべきだ。そうすれば、英米人と心が通じ合える。これが、世界平和に通じることになるのは、言うまでもない。

私の趣味は、写真撮影である。別に、芸術写真を作ろうとしているわけではない。それをしようとしても、自分に才能がないから駄目なことは最初から十分承知している。だがしかし、それよりも写真にはもっと大切なことがある。人間には経験を保持することが大切であるということだ。

体験した感動を呼び起こすためには、録画を見たり、録音を聴いたりすることが非常に効果的である。

 

東日本の大震災を見ていても、被害者が探し求めているものは鍋・釜の類ではなくて、家族などの写真アルバムである。鍋・釜は、他人でも用意可能であるが、アルバムは用意してくれない。

年寄りになると、新しいことは、あまり考えられない。昔の経験を持たない若者からは相手にされないる未来に向けた発展正を欠いた内容は敬遠される。それで、相手をしてくれる同類項の老人を見つけることに力が入る。

小学校、中学校、高等学校、大学と同窓会を盛んに開く。同窓会を旅館に泊まりがけでしたり、外国に出かけてやる。昔の楽しいことが各人の頭の中に思い出されて、ご満悦になり帰ってゆく。みじめな写真は、あまりこの役には立たない。

 

写真などは、世の中に山ほどある。写真そのものが大切なのではない。その写真により引き起こされる自己の体験の思いだしが貴重なのである。誰にもそれぞれの過去がある。写真の重要性は個人の歴史と深いかかわりを持っている。「あの思い出をもう一度」という個人的な目的のために、特定の写真は必要なのである。だから、私の写真には、あまり芸術的なのは必要ない。

 

文芸 かけがわ