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   責任者はなぜ犠牲者か       550  Jun-00 中央公論

2        「あるべき姿」を述べよ      473  Jul-00 Voice

3         日本語から来る日本人の性格    492  Jul-00 論争 東洋経済

4         自主的な判断できない学生     519  Aug-00 論座

5         日本人の基本的な物事の捉え方   688  Oct-00 週刊金曜日

6         英語と日本語                            2444         Jun-00公明党・政治に私も一言

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責任者は、なぜ犠牲者か

 

我々日本人は、伝統的にこの世界を義理と人情の世界とみなしてきた。今日にいたっても、我々日本人の判断の大きな拠り所となっているものは、義理と人情である。義理は現実の否定しがたい事実であり、人情も感情に基づいた、これまた否定できない事実である。かようなわけで、義理と人情を口にしていれば、いわゆる現実肯定主義の人となる。

こうした否定できない事実ばかりに囲まれて生活していれば、いわゆる「させられ体験」ばかりが高じてくる。「、、せざるを得ない立場に立たされた」とか「、、する苦しい立場に追い込まれた」といった解説になる。

現実ばかりの世界は、未来形で語る"will" (意思)の世界と対立して、なじまぬものである。"will" (意思)の入った文章内容でなければ、個人にその責任を負わせることはできない。人間は、"will" (意思)の力でリスポンス (責任ある行動を) するからである。かくして、日本人の社会には、名前はともかく、実質的に責任者(responsible person) となれる個人を見出すことは難しい。一旦、国が逆さまになるような事態があれば、やれ「責任者を出すな」「犠牲者をだすな」と国民あげての隠蔽工作に力がはいる。この世界において、もっとも確かなことは、責任者は、すなわち犠牲者であるということである。だから、世はまさに無責任時代の観を呈しているのである。580 文字

 

「あるべき姿」を述べよ

 

日本人は、対話の重要性を口にするが、自分の考える「あるべき姿」を表現しようとはしない。だが大事なことは未来形の内容である。「あるべき姿」を語らない社会は、夢 (未来) のない社会である。現実 (現在) のことと過去のことは、未来の筋書きに照らし合わせて批判されるべきものである。現実形ばかりの構文では、批判はできない。

現実的な人たちはみな「それは現実的でない」とか「それは現実とは違っている」とかいって茶々をいれるばかりで、自分の理想を真面目に話そうとする人はいない。

「あるべき姿」を述べることが自分の意見というもので、これがなければ他人を感心させることも、自分が代表に選ばれることもない。せっかく国際社会に出て指導者に選ばれても、あたりをきょろきょろ見回すばかりで他人に従おうとするのでは、指導者にはなれない。

大學の管理者も、事あるごとに「騒ぎを起こすな。我を張るな」という。いったい、何が大學として解決しなければならない問題であるかを、考えたことがあるであろうか。

自分自身の考えたあるべき姿を持ち合わせることは、とくに指導者としては大切なことに思える。

474 文字

 

日本語からくる日本人の性格

 

本誌5月号「ことばのご馳走」の中で、金平敬之助氏は「私の性格も、日本語を話すときと英語を話す時とでは変わってしまう」というバイリンガルのヒロコ・グレースさんの発言を鋭く捉えている。まさにそのとおりで、日本語を使う日本人の性格は、英語を使う英米人とは違ったものになっている。

英語と日本語の話を少々すれば、日本語の構文には現在・過去・未来の区別がないが、これは時制がないといったほうが良いのであろう。即ち、基本時制と完了時制だけを使って、現実だけを表す言葉である。

日本語を使ってそれ以外のことを言い表したら、それは嘘になる。つまり、一通りの陳述しか成り立たない言語である。かくして日本人の口からは切って揃えられたように天下の真理、すなわち現実、「今ある姿」しか出てこないことになる。

英米人の意見は「今ある姿」ではなくて、「あるべき姿」である。これを自分でも表し、他人にも尋ねる。意見は個人により異なるからである。

「あるべき姿」の内容は未来形で表される。だから現実 (現在形) とは独立した陳述になり、個人による考えの違いが明らかになる。個人主義も成り立つ。こうした態度は日本人の性格にはない。

492文字

 

自主的な判断できない学生

 

私も、長らく大学で講義を担当しているが、日本の学生には、自主的な判断というものがない。授業中に、あたりの様子を見計らって行動を起こす。カン、ビン、紙類等持ち物をやたらに床に落とす。講義中に小用に立つ。「トイレット・ペーパーを便所から持ち出してくるな」「小用は授業の前に済ませておけ」等々、一挙手一投足を指示しなければならなくなる。この種の忠告は効果を表わさない。この方法はきりがないので、私は、注意はほどほどにしている。こうした牛馬の調教に慣らされていると、死の行軍をものともしない人間が出来上がるのであろう。

レポート提出の締め切り時間に間に合わなかった自分の違反を棚に上げて、監督者が大目に見ないと難癖をつける。ヤクザの言いがかりにそっくりである。なぜ、監督者が弱腰になるかというと、こうした理不尽な行為を公然と取り上げても、混ぜ返す同僚が多すぎるからである。この人たちは、理を立てることよりも、学生に「いい顔したい」のである。

規律ある大学の教員によるリーダーシップなどは、想像もできない。だから、大学においても、人間教育が成り立たない。この有様を見て、自浄作用がないと嘆く者もいるが、自業自得と考えざるを得ない面も多々あるようである。

519 文字

 

日本人の基本的な物事の捉え方

 

日本人は、理性の代わりに感性を働かせて生きている。自分の意見として、理性によるところの理想を言う代わりに、感性に基づくところの感想を述べる。相手に対しても、英語で質問するときも"What do you think?" と質問する代わりに "How do you feel?" と尋ねる。

日本語は、乱れているか、との質問があるが、私は決して乱れているとは思わない。乱れて見えるのは、日本語本来の姿に基づいて、ナウな形に変形する為である。時の流れに従って、その都度その都度、言葉は仮の姿をとるのであって、その本質は決して乱れているとは思えない。日本人は、絶えず良好な雰囲気を探求して、それに相応しい言葉を用意している。化粧品などに外来語を多く使うのも、その雰囲気造りに力を入れた結果にちがいない。私は、国産車に乗っているが、その名前もやはり外国語である。IT (情報技術) 関連の言葉など、日本語の概念では対応できない場合もあるが、日本人が雰囲気づくりのために積極的に外来語を取り入れている事実を見逃がすわけにはいかない。通常当人が理解できなくても、別に問題はなくわからぬまま使っていることもあるのではないだろうか。日本人が物事の理解に、無関心な証拠でもある。

敬語の問題にしても、それらは所詮、趣味の問題であって、真理を論じているわけではない。なぜ、世俗のこまごまとした事柄に関して、そうも序列観念に付きまとわれるのかが、英米人の疑問である。それは、文法に起因するものであるが、彼らは日本語文法に精通していないので、その答えは容易に出ない。社会習慣は変えられるが、基本的な物事の捉え方は、そのまま残る。

688 文字

 

英語と日本語

 

政治家は、しばしば「現状打開」という言葉を使うが、どのような現状が当面の問題であり、それがどのようにして引き起こされたかを突き止めていなければ、その打開策にも大きな効果が期待できない。

英米人との比較において、我が国民の考え方は一種独特であり、知的な考察に深刻な支障を及ぼしかねないような事態であることが、明らかにされつつある。

まず、このことにつき、以下、検討してみよう。

英語になぞらえて、「考える」を基本時制、「考えた」を完了時制とすれば、日本語には、現在・過去・未来に対応する時制のないことがわかる。時制は、言語の効果により心理的な時間感覚を作り出す。「話にうつつ (現・現実) を抜かす」の原義は、現実離れのしたことを言うことで、転じて「夢中になる」となったのだそうである。現実離れのしたことについて話せば、何処までも話が進むにちがいない。「話にうつつを抜かしてはいけない」ということで、日本人は精神を現在・現実に集中させている。いうなれば、日本語は、現実形一本槍の言語である。過去・未来のための構文が用意されて

ないならば、それにまつわる人の想いを表わす言葉は、その支持を失ってばらばらになる。だから、日本人の言葉は、体系だった哲学にはならない。それで、過去 (まぼろし) と未来 (ゆめ) の領域は、想像・連想の世界になる。短冊にしたためられた言葉のように、あたりに散って舞う。言の葉が舞うのは、木の葉が舞うのと同じく自然現象の一部なのであろうか。つまり、過去と未来に関する陳述は、聞く人見る人の勝手な解釈の成り立つ領域と見なされている。つい「それを言ったら相手にどう思われるか」を考えて発言を躊躇してしまう。発言者の言葉を正確に理解する努力よりも、聞き手自身の勝手な解釈の方が高く評価されるからである。「平和憲法」も「原爆」も、短冊にしたためられた言葉と同様な流儀で解釈されているのではあるまいか。意味ある言葉も、この国では、絵画や音楽など他の芸術分野と同じく、それを受け取る側の基準で取り扱われているように見える。

団結するにしても、未来にはっきりした目標をおいて、各々が創意工夫によりそれに近づく努力をする。そして、その成果を各々が発表するのであれば、英米人にも理解できる。ところが、未来の行き着く先は明らかにせず、ただ現在の状態に縛りをかけようとするのが旧来の行き方である。これでは、個人の自由など存在しない。戦時中の苦労話のようなもので、今はやりのインフォームド・コンセントにもなっていない。未来の構想を載せる構文がないということは、こういう結果に陥りやすいものである。

現実を忠実に写す鏡のような言葉を使っている関係上、「それは、現実とは違う」という混ぜ返しには太刀打ちできない。要するに「あるべき姿」を載せる構文はなく、構想を心の中に保持する術が無い。だから、日本人の人間平等の意味は、英米人の平等とは違う。神の下における個人の平等でもなく、法の下での個人の平等でもない。日本人には、この世に強者と弱者のあること自体が不平等であると考えるようである。背の高い低いがあるように、自然に強いのも弱いのもあるものだが、これら個人の特性を無視してロボットの世界のような無個性の世界を是認しようとする。特に、我が国においては、個人の上下と強弱が半ば本能的に結びつけられていて、個人本来の個性的能力を伸ばし、思う存分に力を発揮する余地がない。強いモノと弱いモノを題材にした屁理屈が作り上げられて伝統的なヤクザ風な雰囲気の社会悪をかもし出している。個人的に「あるべき姿」を語るような、まじめな話は出来ない。話の筋が掴めない。だから、真面目な話も受け入れることができない。冗談も通じない。何処までが真面目な話で、何処から話者が話を脱線させているかを掴むことができないからである。また、自分から冗談を言い出すことも出来ない。「冗談ではない」と言う。むりに滑稽を演出しようとすれば下卑たモノになる。だから、知的な面白みもない。話されていることは、人間の知的度合いと密接な関係のある事柄である。単なる仮定ではない、真面目な話しである。以上の事態は、我が国の議会制民主主義にも極めて深刻な問題を与えずにはおかない。

現在・過去・未来の時制がない言葉では、その考えが無時間的であって、時間の関数であるべき計画性は極めて悪いモノになる。見通しが立たない表現力により、日本人の感受性はモヤモヤしたものになる。あたりの景色もモヤが懸かって見える。英語に切り替えるしか透明度を高める術はないのではないか。将来への茫漠とした不安が募る。討論の内容は未来のことであり、感情は現在の事実である。感情露出には、真実の表現としての力が篭る。論点は、自分自身で個人的に作るモノである。双方に論点はなく、したがって、討論がなくて、すぐに感情論になってしまう。双方は、連想ゲームと連歌の流儀により応酬する。正に、芸術・文化の国と言ってよかろう。発言は、言語明瞭意味不明になる。自分の意見も満足に発表できない人が、英語を公用語化したことにより発表できるようになるものではない、との外人の意見を見かけたこともあるが、これは日本語と英語の違いを無視した故に成り立つ議論ではあるまいか。

未来形の構文が無いためであろうか、未来 (来世) における形而上のことも、将来の形而下のことも、共に発達が悪い。時間に幅を持たせた感覚が考えになく、瞬間がつねに永遠となる。未来・過去の構文が無いので自己のうちに把握し難いものを感じている。定見は無く、どんな立場にも立たない。このことは、我が国民の倫理・道徳にも影響を及ぼさずにはいられない。現状においては、現実オンリーの日和見主義的日本人が、奇妙な文化国家を作っているとしか言い様がない。今回の国難を契機にして、英語を我が国の第二公用語とすれば、来る21世紀に対するそれなりの永久対策を講じたことになるであろう。

2444 文字

 

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