言語と考え方    大淵    寺嶋眞一


[時制]

「日本語には時制がない」といえば、大体の人はこの見解に反対する。そして、日本文の例を挙げる。「私は今散歩する(している)・・・・現在」「私は昨日散歩した・・・・・過去」「私は明日散歩するだろう・・・・未来」のようにである。だがしかし、大体の人は基本時制を例としてあげるばかりで、進行形、完了時制、完了進行時制などの例をセットにして挙げることができない。このような考え方自体が、日本語脳の考えに馴染まないのであろう。

「私は今散歩する(している)・・・・現在」は、現在完了時制に相当するものでしょう。目の前にある満月を「出た出た月が・・・・」と歌うようなもので、過去の内容ではない。もちろん過去の内容のこともあるが、時制が過去というのではない。時制は、「今」とか「昨日」とか「明日」とかの言葉を使って時系列で表わすものではない。考えの上での隔絶した次元の異なる内容を、構文を使って異なる表現様式で表わすものであると考えます。

「私は明日散歩するだろう・・・・未来」は、自分自身を現在の世界において、未来のことを推定しているのである。話者は、決して未来に身をおいて断定はしていない。時制のない日本語脳では未来の内容を断定することは難しい。未来時制を使えば、'I will take a walk.' と推定でなく断定できる。「・・・・だろう」は推定で、推定の上に推定を重ねる「だろう」の連続で考えていては、確実な未来計画は立案できないでしょう。その内容は、眉唾物になるでしょうね。

英語の学習の中の英文和訳では、時制の有無の違いを区別できない。そこで、ごまかす。勝手な解釈をする。すると、いかにも日本人らしい考え方となる。これを名訳というのであろうか。英米から輸入された翻訳文化の内容には、我々日本人にとって、どこか理解の行き届かないところが残っている。理解が行き届かない原因には、言語の違いによるところが多いのであろう。

[政治家は弱い]

ニューズウィーク (Newsweek) の東京支局長・クリスチャン・カリル (Christian Caryl) は、’どうして日本の政治家はそれほど弱いのか’について書いている(2009.3.11; March 9, 2009)。真の問題は自民党であるという。「日本では長い間、自民党以外に、政権の選択肢はないも同然だった。」と書いている。目先・手先のことのみを述べる自民党と空理空論を述べる社会党や共産党では政権の選択肢はないということであろう。

英文和訳は、学問には向かない。時制のある英語の内容を時制のない日本語に訳せば、当然のことながら、意味のないものになる。現実と考え (非現実) を区別することなく断定すれば、空理空論となり、未来時制の内容はこの世の嘘・偽りとなる。

未来時制の内容は、個人個人で違う。だから、その個人的な違いを基にして議論ができる。現実構文 (現在時制) の内容ばかりでは、誰もが一致するはずである。一致しなければ、事実関係調べとなる。丸暗記と受け売りは子供の勉強である。大人の勉強は、過去時制と未来時制で考えられる空白の世界を自分自身の内容で満たしてゆくことである。これは、哲学である。自分自身で考えることである。

だが、日本語脳には、事実 (現実) と考え (非現実: 遠い未来) の内容を分けて保持する能力がない。だから、日本語で話す英米流高等教育はなりたたない。せっかく教育制度を作っても、無哲学・能天気の人たちには、高等教育機関で教える内容がない。このような現実は、英米の大学が哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) の牙城をなしているのと好対照をなしている。

日本の大学人は空理空論を語るしかないので、学歴があって教養がない。曲学阿世の輩を増やす結果になっている。このような議論は、ああいえばこういうといった不毛の議論となって、誰もが望まないものとなる。曲学阿世の特殊能力が得られるのも、我が国の高等教育のおかげであると得意になっている人もいるかもしれない。「議論をすれば、喧嘩になります」という。我が国に活用されているのは、実社会の中の実学 (技術) 教育ばかりである。だから、英米流の高等教育が機能しないにもかかわらず、我が国の職人は世界一優秀である。

日本人には、世界観 (world view) がない。世の中の良し悪しを見極める基準となる内容を持っていない。世界観の一致に興味を持たない。だから、日本人個人は議論も出来なければ、団結もできない。無論、信頼も得られない。

日本人は現実を批判できない。ただ、恨み節がある。耐え難きを耐え忍び難きを忍んで努力している。気真面目でおとなしい日本人が、にたにた笑っている英米人にいかにして付き合ってゆくか。このことが国際社会における我が国の課題である。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。このような事情により、我が国は精神年齢12歳の大人の住む国となっている。大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。無哲学・能天気の大学生に対して、「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しい。英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。英語を実用の言語とすることが大切です。たとえば、公務員採用試験では英語の能力にすぐれた人物を優遇するなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。彼等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。日本人は、英語を使って考えることがきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。その上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

[この道]

昔は軍部、今は官僚。彼等に政治責任はない。我が国の政治責任は、政治指導者の手の中にある。政治家は、国民の代理人。我が国は、主権在民の国である。

軍部・官僚は、効率よく政治を行うために雇われた要員にすぎない。軍部の暴走・官僚の横暴を抑えられない政治家は、その存在が許されるはずもない。自分の飼犬を調教できない飼い主を選ぶのは、有権者の無責任であろう。

現実肯定主義にとらわれて、現実の矛盾を指摘できない。矛盾解消に向けて総決起できない。意思のないところに解決策はない。意思 (will) は、未来時制の内容である。時制は日本語にない。そこには、閉塞感と諦観が待っている。

自分に意見がなければ、相手の言いなりになるしかない。「よきにはからえ」か。下のものは、見計らい・見繕いで事を処理する。無哲学・能天気は天下泰平の気分である。我々の政府は、軍部の言いなりになるか、官僚の言いなりになるか、それともアメリカの言いなりになるのか。この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ、民族の歴史は繰り返す。

[知識人の価値]

曲学阿世とは、真理をまげて世間の気に入るような説を唱え、時勢に投じようとすることである。真理は考えの中にある。だが、日本人には考えの内容がない。日本語脳の中では、現実と考え (非現実) の区別が付かないからである。

「あるべき姿」を未来時制で表わし、「今ある姿」を現在時制で表わせば、現実と考え (非現実) の区別がつく。だが、日本語には時制がない。現実と非現実の内容を区別することなく語れば、それは空理空論となる。だから、日本の知識人は価値がない。

「あるべき姿」を自己の基準に立てて「今ある姿」を評価すれば、現実批判ができる。根拠 (論拠) ある自己判断が可能になる。「あるべき姿」を示すことなく「今ある姿」だけを述べていれば歌詠みになる。これは、「世の中は、、、、」といった浪花節的な発言形式でもある。「それで、どうした」の問いには、答えが出せない。思慮がないということである。

子供の勉強は、丸暗記と受け売りである。それ以上のものは期待できない。無哲学・能天気の大学人にも、これ以上のものは出て来ない。それで、学生は12歳の大人にとどまる。英文和訳を通した英米文化の輸入は、拙い日本人の考えの改善には役立たない。英語で書かれた「あるべき姿」の内容は、日本語では全てこの世の嘘・偽りとなる。これは、我が国におけるキリスト教のようなものか。

子供の勉強には、限界がある。それでも、社会の序列作りには役に立つ。教師は、教科における個人格差の検出に追い立てられている。かくして、序列人間の社会ができあがる。序列があれば、派閥が作りやすい。派閥の中で、談合と恣意の容認が行われる。そこには、利己主義はあっても、個人主義はない。その構成員が無哲学・能天気であることは、問題にされていない。

「上と見るか、下と見るか」の判断ができなければ、日本語を話す人間として口の利き方も、挨拶の仕方も定まらない。礼儀正しい日本人になることも難しい。上と見るか、下と見るかの論法は孔子 (552 B.C.-479 B.C.) が得意とした。

日本語には、階称 (言葉遣い) がある。だから、彼の考えは日本人に容易に受け入れられた。中国語には階称がない。我が国には、孔子の序列観を否定する毛沢東のような人は現われない。

日本人には、英米人には体験できない次元の[信じられること]と、[信じられないこと]がある。

信じられることは、言霊である。

言霊とは、言葉が発せられると、その内容が実現すると信じることである。私は戦前の生まれである。国民学校二年の時にこの国は負けた。戦時中に、私は周りの人々から「日本は負ける」といってはいけないと強く忠告を受けていた。私が「日本は負ける」といえば、本当にこの国は戦争に負けるからだと言う。それで私は黙っていたが、それでもこの国は戦争に負けた。我が国は、精神力ではアメリカに勝っていたのだが、物質で負けたと敗戦の原因について大人から説明を受けた。日本の精神主義とは執念・根性を強調することなのか。少なくとも、理性ある精神活動のことではない。「日本は馬鹿な戦争をしたものだ」一方が言えば、他方は「お前のような非協力者がいたから、日本は負けたのだ」と罵りあった。日本人には協力が唯一の切り札のように見える。これでは、一億一心が必要になる。

空にはアメリカの爆撃機が多数来襲し都会を焼け野原にしていた。日本の飛行機はとみると、何も飛んでいない。戦争とは、こういうものかと、私は子供ながらに大人の判断力の矛盾を感じていた。

大人たちは、日本は勝つと信じていたのかも知れない。信じれば、その内容が実現するいう言霊を考えていたのかもしれない。日本語には時制がない。だから、考え (非現実) と現実の内容を区別することが難しい。それで、日本人は現実直視が難しいのであろう。必勝を強く念ずれば、負け戦も勝ち戦に見えてくる。これが、わが民族の考え方の拙いところである。幸運にも私達は、一億総玉砕から免れた。

孔子は、この世のことしか語らなかった。「子、怪・力・乱・神を語らず」である。つまり、孔子は、奇怪なこと、勇力のこと、乱倫のこと、神秘なことを口に乗せて主張することがなかったということである。ジーザスが行なった水をブドウ酒に変える奇跡のような事柄は、孔子は語らなかったのである。時制があれば、現実と非現実が区別できる。だが、無ければ考えの内容は現実の内容と見分けがつかず頭の中が混乱する。だから、非現実の話は避ける。すると、子供でもわかるような話の内容になる。日本人の「世の中は、、、」は、現実の内容である。英米人の世界観は、考え (非現実) の内容である。未来社会の内容が描かれている。

信じられないことは、現実離れした話である。

非現実の内容は、「世の中は、、、、、」の内容にはなっていないので信じられない。非現実の内容は、現実離れがしていて実感が湧いて来ないからである。絶対神や理想の内容は現実離れがしているので、これまた信じられない。このような事情により、我が国は無神論者の多い国であり、夢と希望のない国になっている。

[言いたいことも言えない]

自民党から民主党に政権が移れば、外交関係も変わってくる。日本国民とアメリカ国民の間の大きな合意は、日本国民だけの合意よりも優先度が高い。アメリカの政治家から意思の表明と議論を要求される場合には、日本人の政治家は「言いたいことも言えない」情況に追い込まれるのが常である。日本の政治家は、アメリカ政府に対して意思の表明ではなくて、恣意 (私意・我儘・身勝手) の容認を望んでいるようである。日本の政治家は、アメリカ政府に対して議論することではなくて、談合することを望んでいるようである。この実体は、アメリカ人の想像を絶する現実である。このような日本人の欲望は、彼らに受け入れられることはない。’Shame on you! (恥を知れ) である。理性 (リーズン) を失った人間の恥である。’Independent (自主・独立) は彼らの褒め言葉である。これが体得できていないのは戦後教育の失敗の表われである。未来社会の構想もないので、日本人の発言には前向きな建設的なことは何一つない。内容はただの我儘の羅列である。

我が国では、新政権樹立に際して、政治家は、官僚と手を結ぶか、官僚と手を切るかが問題となっている。官僚は行政の専門家である。政治家は自己の意思を示す人である。各々に固有の職分がある。ところが、日本人には意思がない。英米流の意思疎通 (理解) もない。だから、真の政治家は成り立たない。官僚は政治家と協力しなくては職分が果たせないが、その政治家が意思の代わりに意向として恣意を官僚に示ことにでもなれば、この国の政治そのものが成り立たない。有権者も候補者個人の意思を理解して投票するわけではない。外国の政治家も我が国の政治責任者個人の意思を求めてやってくる。ところが、我が国には個人主義がなく、「意見なら誰にでもある」と答える状態であるから、この国の責任ある回答は得られない。個人主義に関する無理解が、我が国民の政治音痴の原因となっているようだ。

意思は、未来時制の内容である。日本語には時制がなく、日本人には意思がない。それで、意志薄弱に見える。皆が皆がら受身の姿勢でいるので、積極性が見られない。こうした社会では、立候補者の態度も英米とは違ったものになる。「自分の意思で打開して見せる」ではなくて、「苦しい立場に立たされた」である。何か事故・不都合があれば、被害者・犠牲者が続々と出てくる。

登山家は、山を征服する意思を示す。シェルパは、彼に従う意思を示す。意思の内容によって、登山に対する喜びも違ったものになる。母親は、自分の命に代えても子供の命を救いたいと懸命になる。自分に医療の専門知識がなければ、医療関係者の協力を得てでもわが子供の命を守る。母親は、子供に対する責任 (responsibility: 応答可能性) を示す。我が子を守る意欲はアニマルにもある。これは、意思ではなくて恣意 (self-will) である。恣意には文章はいらない。意思があれば、専門知識は必ずしも自分で用意する必要がない。専門家との協力により得られる。天国に住む意思を示せば、天国に住める可能性がある。

意思がないところには、方法がない。日本の政治家は無為無策でいる。問題は先送りと積み残しで対処する。閉塞感と伝統的な諦観がある。これは、律儀な日本人のだらしなさである。意思がなければ、意思決定もない。国の政治に責任は不在である。責任とは、自己の意思により問題を処理することである。我が国では、国がひっくり返っても責任者は出なかった。個人の意思は見当たらなかったからである。「自由・自由」と聞かせられるが、意思がないので自由意思もまともには考えられない。

「お前らに、おれの腹の底が読めてたまるか」といったのが日本人の基本的態度である。「真意は何か」と相手は懸命に憶測する。当人が相手に解読の内容を告げるように要求する場合もある。英米人の考えでは、全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。日本語の機能不足を補って、以心伝心や空気の研究やらを総動員しても、考えの確かな内容は得られない。

残念な事に、意思のない我が国においては、自由は恣意と結びつけられている。恣意は、赤子・アニマル並みの欲望である。言っていることの辻褄が合わない。自由恣意は、自由のはき違いである。こうした誤解の上に立っていては、我々は自由の旗手となって活躍することも難しい。恣意 (私意・我儘・身勝手) に対しては、日本人は昔からの滅私奉公で対処していた。今では、それもままならない。

[当事者・部外者・指導力]

「とかく、この世は無責任」という台詞があるが、意思のない日本人の責任は持って行き所のないものとなっている。大昔の人は、神の心を和らげるための犠牲として生きた人を水底または地中に埋めたといわれている。現代の責任者は、人心を和らげる情治政治のための人柱なのであろうか。

自己の意見として意思を表わせば当事者・関係者となる。自己の意見として意思を表わさなければ傍観者・部外者となる。日本人には、意思がない。だから国際社会においても傍観者・部外者でいる。世界にあって、世界に属さずであろう。日本人は蚊帳の外。

未来社会の建設に関して適切な意思を表わせば、指導者になれる。責任者の働きは建設中 (under construction) になる。現実社会の改善では進歩も中程度である。責任者の働きは工事中 (under construction) といったところか。どちらも‘under construction’であるが、仕事にかかる希望の大きさが違う。

[.罪と責任]

今年から裁判員制度が始まった。裁判の模様を連日、テレビで報道している。英米人は「良いと悪いは、誰にでもわかる」という。日本人は「良いと悪いの判断は難しい」という。日本人にとって裁判員の役割は荷が重い。殺意を抱けば、殺人罪である。殺意がなければ、人は死んでも殺人罪には問われない。死刑執行人は殺人罪にならない。自己の意思を表明すれば、その内容に責任を感じることになる。失敗すれば、罪の意識にさいなまれる。自己の意思を表明しなければ、責任を感じることも少ない。意思の無い人には罪もない。子供やアニマルのようなものである。

意思を表明して支持を得た政治家には、政治責任がある。しかし、自己の意思を表明することなく当選すれば、責任を感じることも少なかろう。意思のない人たちの行為は儀式によらなくてはならない。だから、式次第による裏づけは重要である。このような事情で、とかく儀式に関する枝葉末節の揉め事が多い。意思のない官僚が当番・お役目の気分でいるのは無理もない。官僚任せの政治では、とかくこの世は無責任となる。



文芸 かけがわ