英米人と日本人     大淵  寺嶋眞一  



我が曽祖父・寺嶋虎三は、天保6年 (1835) 3月3日生まれで岡原新田の人であった。岡原新田とは、旧大須賀町の今コーニング・ジャパン株式会社の工場のある周辺の地域である。彼は、実家の鈴木家から700メートルほど東にある野賀村の寺嶋家に婿入りし、寺嶋まきと結婚した。寺嶋家は武家であったが、城下町・横須賀に住む藩士ではなく郷士であった。徳川慶喜は慶応310 (1867) 大政奉還をし、明治になり (1868) 横須賀藩主・西尾忠篤は安房国 (千葉県) 花房にお国替えになった。曽祖父は「ご扶持に離れてはいけない」として、家屋敷の全てを売り払い、殿様に付き従がって房州に移った。土地に未練を持ってはいられない運命にあった。明治2 (1869) に西尾忠篤は版籍奉還をしたが、その後、廃藩置県 (1871) となり、寺嶋家は明治7 (1874) 3 家禄 (世禄現米6石) の奉還をした。彼は、最後のサムライであった。

その子・弥三郎は、元治元年 (1865) 12月12日生まれで花房を離れて東京に住んでいたが、その生活は順調には行かず妻にも死なれ、脚気を踏みだして、「生まれた所に帰らなくては、あなたの命はない」と物見に言われ帰郷を決意して、真岡 (モウカ) の肌着一枚で故郷に戻ってきた。そこで、祖母・寺嶋いとと再婚した。彼は、紺屋につとめて、最初のサラリーマンになった。

私の父・寺嶋只一は、明治40 (1907) の生まれである。中遠鉄道の線路工夫をしていたが、陸軍に志願して入隊し将校にまでなって、昭和1729日フィリピンで戦死した。

只一の子・寺嶋眞一は、アメリカで2年間生理学の修業をして、後琉球大学医学部の教授となった。

それまで、東京の大学の学生食堂でまずい米飯を食べていたが、アメリカに来て美味しいカリホルニアのローズ米を食べて感激した。「雨季のないアメリカで、どうして稲作が可能なのか」と同僚に質問すると「それは簡単なことだ、飛行機で種籾を蒔く前に、ダムから田に水を放出させればよい」との答が返ってきた。

そして、私は、沖縄で20年間の教員生活を終えて、2003年の春に定年退職し、故郷に帰って来た。

久しぶりに田舎生活をしてみると、水田がなくなっていることに気がついた。春の小川もなく、メダカの学校も見られなかった。稲作用地には深い溝が切ってあって水を全部落としてしまったので、水田は畑のようになっていた。乗用の田植え機で稲を植える数日前に大井川右岸の農業用水路から導水して水田を作る。アメリカ人の言っていたことを今やっているのである。もう、タニシ料理を食べることもない。

私もこうして人生の最終段階に入ってつらつら考えると、曽祖父の時代から私の時代に至るまで、この地球上を大きく変えたのは、絶大な知的能力を持つアングロ・サクソンによるものと結論づけることになった。以下、日本人と英米人の考えかたの違いについてあれこれと述べさせていただくことにする。

明治の文豪・夏目漱石 (1967-1916) は、<マードック先生の日本歴史>の中で、日本人の考え方について次のように述べている。

畢竟われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、全てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑いの起こる余地がてんで起こらないのである。

丁度葉裏に隠れる虫が、鳥の目をくらますために青くなるのと一般で、虫自身はたとえ青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着すべきいわれがない。こう変色するのが当たり前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。マードック先生の我ら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変色した虫に対すると同様の驚嘆である。 、、、、、 (引用終り)

学者というものが、(日本人の考えを超越した)英米人特有の考え方をする人間であることを夏目はすでにこのときに指摘している。この考え方が身についていない日本人が大学に入学すると、とたんに幻滅を感じて五月病にかかったり、4年間の大学生活をただ遊んで暮らすことになる。形骸化した大学の教養部は崩壊する。我が国は、教育あって教養なしの国である。

いうなれば、日本人は、舞台を表からだけ観察しているようなものである。

それで、日本人の考えたり語ったりすることは、実況放送・現状報告の内容に限られている。日本人にとって目の前の世界 (現実) の存在は当たり前のことであるから、開国当時の日本語には現実 (reality) という言葉さえもなかった。このような状態では、天国にいる神様など、とても信じられるものではない。現実構文ばかりの頭で考えると、現実を見ても妙だとか変だとかいう疑いの起こる余地がない。

だがしかし、英米人は、舞台を表と裏の両面から観察する。実際には舞台は表からしか見ることができないのだが、舞台裏にある装置の方は各人が推測して作り上げる。推測の世界が可能になるのは、現実の事柄とは完全に分離した別な文章を作ることができる時制を持っているからである。つまり、英語には時制があり、現在・過去・未来のそれぞれに独立した文章ができる。これらの構文を使うことにより、目にすることのできない未来や過去の事柄を個人的に推測する。

日本人は英米人の推測結果を知って、「彼らには、洞察力がある」と感嘆の声をもらす。非現実に関する日本人の発言は、そのための構文が日本語にはないので文章にはならず、話の筋が通らぬ空理空論になることが多い。日本人が推測を試みた時には「理屈などどうでもよい。現実を見れば分かる」といって取り合わない。現実のしがらみに拘束されることなく、考えを尽くして推論し、言葉をつくしてその内容を表現してゆくという基本的な文法が日本語には欠けている。

このような観点に立ってみると英語と日本語はお互いに関係のない言語なので、英文和訳の普及は日本人の頭の中の戦後の混乱をますます延長させることになる。翻訳文化の花盛りは、文化誤解の花盛りである。

日本語には時制がないので、現実構文(現在時制)ばかりの言語であるということができる。現実の内容には、基本的に個人差がないものと考えられる。

子供は、言語が未発達のため、現実の世界についてしか話すことができない。過去時制や未来時制といった非現実の構文の内容を表現できないのである。

議論を楽しむには、ある程度の個人差が必要である。考えの個人差は、非現実(過去と未来)の内容の中に表われる。

英米人は、子供を大人の会話の中に同席させない。両親は、子供に挨拶だけさせて、さっさと自室に引き下がらせる。英米の子供は、未成年者 (minors) として常に区別されている。

日本語には現実構文しかなく、日本人には現実しか考えられない。現実構文しか持たない内容には個人差が表われない。それであるから、日本人は議論ができない。12歳の子供のように見える。

言語というものは、想像を絶するほどに人間のものである。日本語という言語が日本人をはぐくむ。英語は英米人をはぐくむ。英語は事実に従った、客観的で実証的な性能を持った言語であるので、自分の外にある世界を、あくまで外の世界としてのみ表現することになる。日本語のように、外の事実と内なる主観とをごっちゃまぜに重ねることを、英文法が許さない。この英文法の特徴は、正しい考えかたをするために欠くことのできないものである。だが、これとは反対に、当の日本人は談合とご唱和により現実の中に身を置安心感を得ている。現実が複数あっては大変だから常に全会一致を求めている。個人主義は、あって無用なものなのかもしれない。

答が人それぞれであるために内容の方も複数あって、未来の内容を鮮明にさせなくては不安がある。内容が未来に関することであっては、事実関係調べをするわけにもいかない。暗記と受け売りの教育が通じない。日本人には、自国に関する未来構想が立てられず、よしんば外国人に立ててもらっても、その構想を信じることは難しい。日本の鬼も笑っている。この国を覆っている未来への不安の影響は深刻である。老人は、未来不安のために自己資金を手放すことができず、金余りでありながらこの国の景気回復のための起爆剤にすることはできない。このようなわけで、我が国は限りなく希望のない国になっている。

我が国における敗戦後のアメリカ化は、日本語を使ってアングロ・サクソンの文化を丸ごと呑み込もうとする企てであった。この無謀な試みが、戦後の日本人の精神的な混乱を起こす引き金となって、今なお続いていて解決の見通しが立たない。母国語の外に出られない人は、つまり外国語を習得したことのない人は、本当の意味で自国を知ることもできないのであろう。我が国の有識者・知識人は、英語考えられる能力を早急に習得すべきである。この目的のためには、日本語と英語を我が国の公用語に定めることが近道であろう。そうすれば、我が国も名実共に国際社会の主要国になる道が開ける。

人間教育が大切だとは言われているが、社会はいったいどのような人間を育んだらよいものであろうか。生きる力とは、どのような力のことであろうか。学問を学ぶとは、いったいどのような考えかたをすることであろうか。

日本語ではAととらえられるものが、英語ではBととらえられる、という差異が言語間には存在する。ABでは、世界は多くの場合まるで別物となるので、日本語という言語による世界認識と英語による世界認識とでは、やっかいなことに、世界は根本的に違ってくる。このようなわけで、今の地球は英米の世であるが、我が国は、英米の世の中の蚊帳の外にいる。

文芸かけがわ