英語の難しさ   大淵   寺嶋眞一   


 何か一つのことを日本の人々に言い残すとすれば、私は日本人の考え方のことについて触れたい。これは、国難を回避する方法でもあると考える。

 私が小学二年生だった夏、日本は戦争に負けた。戦時中、私は「日本人は、世界一優秀な民族だ」と教えられた。はたして、本当にそうであろうか。戦後、わが国民は、細工物つくりではその優れた能力を発揮して、金を貯めることができた。だが、生活の困窮から抜け出してみると、人間の能力は、目先・手先の考えに限られていて良いものであろうかとの疑問も湧いてくる。

 英米人は英語を使うので知的能力に優れている。その例は、以下に順次述べる。他の民族を出し抜いて、今の地球は英米の世になっている。英語はアングロ・サクソン族の言語であるが、英語を使うこと自体が正しく考えることになる。こうした事実を教える英語教師を私はまだ見たことがない。これは、英文和訳を主体とする我が国の英語教育では、無理からぬことであろう。英語と日本語は等価であると考えなくては、通訳・翻訳は成り立たないから仕方がないことではある。

 掛川市の横須賀高校も英語教育に熱を入れ、今年はシンガポールから英語の先生 (Assistant Language Teacher: ALT) を招くことになった。英語習得に関する限り、我々は旧英植民地のアジア民族に遅れを取っているのである。それに引き換え、我々が海外に住む日系人に通常期待していることといえば、低賃金労働であろう。これは大変残念なことである。

 私は、戦時中「日本が負ける」と言ってはいけないと忠告を受けていた。大人達は、「日本が負ける」と言うと本当に日本が負けると考えていたようで、あたかも言霊の威力を信じているかのような発言をしていた。だから、我々は、勝つ場合と負ける場合の両方を考えるというごく当たり前のことができなかった。敗戦は、多くの日本人にとって想定外のことであったが、事実となった。今では、誰もが考えられる無謀な戦争の結果が、そのときは想定外であったのである。これでは、考えることが生きる力とはなっていない。こう想定外が多くては、原発事故も防げない。

 ある討論会のことであるが、一方が「太平洋戦争は、無謀な戦争であった」と切り出すと、他方は「それでは、日露戦争はどうだったのですか」と質問する。すると、議論はそれで終わりとなった。

 「太平洋戦争は、無謀な戦争であった」という結論は、「日露戦争は、どうだったか」とは関係のない内容であるはずだが、日本人の考え方ではそうはならない。「太平洋戦争が無謀なら、日露戦争も無謀である」と考えられるから、別段、取り上げるべき有意義な結論にはならないとのことであろうか、日本人の議論は、それまでとなる。

 何事も議論は比較の問題になるが、日本人の利用する比較はこの世の中の比較だけに限られていて、横並びの比較と称されている。つまり、日露戦争と太平洋戦争の比較であり、現実の内容同士の比較である。どちらも無謀の戦争であるならば、その差も意味も限りなく小さなものとなり、結論の意味 (意義) もまた、限りなく小さなものとなる。取るに足らないものとなるから、日本人の無謀は無くならない。日本人には理性がなく、付和雷同的なのである。

 今、アメリカで取り上げられている我が国の従軍慰安婦問題についても同じである。米軍、英連邦軍、ドイツ軍、ロシア軍の戦時における性の濫用の事実をどのように丹念に調べ上げても、それ自体が日本軍の正しさを証明したことにはならない。また、日本人・日本国の信頼性を増すものにもならない。現実における格差の検出にばかり気を奪われているので、日本人の指導者は、相手に「苦労をかけて悪かった」程度の謝罪しかできない。こうした具体的な事例に限定される判断方法は、つっこみが足りない。軽薄に見えるので、相手の不満をつのらせる。ことを日本軍に限って、いわゆる「性奴隷」の事実を批判して見せれば、我が国と国民の信頼性は格段に増すものと考えられる。

 英語のリーズン (理性・理由・適当) は、個人に関するものである。未来構文の内容である世界観の一部である。日本語には未来構文がなく、リーズナブルに相当する言葉がない。だから、「適当にやれ」は、「不適当でもかまわない」と解釈されたりする。無難に「規則さえ守れば、それで良いのだ」といった生活態度となり、より良い生活のための希望に燃えた規則改善が疎かになる。これでは、昔からの能天気である。

 英米人の場合は、理想と現実の比較になるから、太平洋と日露の両戦争が無謀であってもその比較から得られる結論には意味がある。理想は、’You shall not kill. (未来において、あなたは人を殺さない) のように、未来構文の内容で表現されるが、日本語には未来構文 (未来時制) が無いので誤訳をすることになる。「汝、殺すなかれ」といえば「だって、実際に人を殺すのだから仕方ないではないか」ということになる。理想の内容が現実の次元に引き戻されていて、日本語脳であっては、異次元の内容を脳裏に刻むことがむずかしい。それで、「神も仏もなかりけり」となって無神論者といわれることになる。

 結論が、現実を理想に近づけるための助けになれば、無謀をそれだけ縮小させることができる。だから、英米人の議論は有意義である。死ぬまで励んでも到達できない彼方 (未来) に理想が在り、現実に生きる我々がその状態に少しずつ近づく過程を筋道立てて考えることができれば希望が湧く。だが、日本人は理想を語ることが苦しい。それは楽しみにはならない。理想も現実構文 (現在構文) の内容として表現され、現実もまた現実構文の内容であるので、理想の表現はこの世の嘘・偽りのようなものになる。それで、結局語るのが苦しいという事態になる。言うことと為すことが違うのはおかしいと考えられるからである。言うことと為すことが同じになれば言霊の威力といえる。が、期待外れになることが多い。

 責任という言葉は、日本語と英語で同じにならない。責任は、日本語では、責めを負うことである。これでは、与えられた仕事に関して牛馬と同じ状態であり、自分の意思と無関係になっている。周囲からの「頑張って」という励ましは、日本人にも家畜にも通用する。

 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、日本人の責任に関する解釈が以下のような事実により示されています。

 徳川五代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か十五歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。十六人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り) 

 これに対して英語の responsibility (責任) は、自分自らの意思で行なうことである。「気楽にやれよ」(Take it easy.) と周囲から挨拶されることになる。なぜ、このような違いが生ずるかといえば、それは、ひとえに言語の中に意思の概念が有るか無いかによる。意思 (will) は未来構文 (未来時制) の内容であり、その未来構文は英語にはあるが日本語にはない。だから、英文の I will go. (私は行きます) と、 I go. (私は行きます) とでは日本語訳では区別がつかない。 これは、日本語では未来構文の内容に対応する部分が欠如しているためである。

 最近、受験の内申書にボランティア活動のことが書かれるようになったが、勤労奉仕 (labor service) なら戦前からあった。これは、ボランティア活動の原型なのであろうか。だが、意思の曖昧な国での新たなボランティア活動の奨励は、英米人には想像もできない問題を抱えることになろう。自由意思 (free will) といっても、意思がなくては個人の自由にも疑問が先立ち、指導者の下での強制 (compulsory) か非強制かがはっきりしない。「受験に有利」の掛け声は、個人的な活動の意義に関する誤解を招く原因になる。

 われわれ日本人が、自ら欲することなく危機に陥るのは、意思を表現できないことによる。意思のないところに打開策はなく、無為無策でいれば不安がつのる。国は閉塞状態に陥り、国がひっくり返っても、その責任者も見当たらず、ただ嘆き悲しむことになる。これは、浪花節のようなものであろう。言語に時制がないため、過去の事実から効率よく学んで未来に生かす知恵を得ることが難しい。意思 (will) は、未来構文の内容である。未来構文のない言語を使っていては、意思の表明が難しい。我が国の有識者・知識人は、英語のみでも考えられる能力を身につける必要がある。

 

 

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