日本人の世界 寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月05日
日本語には、時制がないので゛日本人には、この世のことしか考えられない。
時制を使わない考え方では、刹那は常に永遠となる。「古池や、かわず飛び込む水の音」のようなものである。そして、真理は、この世の中にあると考えられている。これは、「あるべき姿」が未来にあると考えている英米人との大きな違いである。
日本人の頭が混乱を起こさないようにするには、目の前のことしか語らないようにする方が良い。だがしかし、希望は、未来の世の中で実現する。だから、その内容は、未来構文の形式で語られなくてはならない。さもなければ、実感は湧かないし、身も入らない。日本人が、未来社会の建設に、とかく興味を示さないのもこれが為である。300 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
詰め込み教育・ゆとりの教育 寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月05日
実況放送の社会では、勉強しなくてはならないことが多くある。それは実況の記憶である。この現況が、ゆとりの教育を妨げている。実況のない国はない。だから、詰め込み勉強が必要になる。経験をしたら、その教訓を、必ず「あるべき姿」に纏め上げるように心がければ、記憶の量は少なくすむ。哲学は、記憶量を軽減する一種の圧縮技術である。このような要領を心得ている人は、頭の良い人と考えられる。つまり、学問のできる人なのである。詰め込み主義を排する人も、その重要性を強調する人も、この大切なことを置き去りにしているのであろう。252 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
英語圏の大学 寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月06日
アメリカやイギリスの優秀な大学は私大です。それがうまくいっているのには、彼らに理由・理性 (reason) があるからです。それで、彼らには哲学ができる。彼らの大学は、哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) の世界である。一口でいえば、社会的価値観、宗教的背景、それに税制の違いで、大口寄付が受けやすいこと、研究費が全部国費で賄われていることが、日本の私大とは根本的に違うのです。良い教育・優れた学問の育成には、理性判断 (rational judgment)が必要である。英語は、理性判断を可能にする優れた言語である。だから、我々は、英語を習得する必要がある。さもなければ、我が国の大学の教養部は、軒並み崩壊する。314 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
法人化のこと 寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月06日
ドイツの大学もフランスの大学も全部国立です。国立大学法人化の提案も、我が国の国立大には明治以来130年の無責任な歴史があるのです。無責任は、日本人の無哲学による。だから、政治責任者は大学に関する説明責任がとれない。
政府の「国立大の法人化」はその動機としては理解できる。それは従来の教育の為ではなく、これから注入される国民の金の為だからです。大学は金喰い虫だ、法人化してもっと稼がせろというのは,まことに皮肉ではあるが尤もなことである。理性なき人間の学問は、我々にとって価値が無い。日本は理性なき陋習を捨てる覚悟をしなければならない。
政府・官僚・有権者について、現在の不満を述べることは、比較的容易である。それは、その内容が実況放送の内容に類似しているからである。しかし、日本人に理性を持たせる話はその次元にはない。だから、日本人には難しい。それは、日本語に時制が無いからである。389 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
日本人の社会 寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月08日
意味の表現には、文章 (陳述文・声明文) が必要である。文章には意味がある。間違いもあれば、矛盾もある。従って、議論の対象になる。「あるべき姿」は、未来構文の内容である。日本語では未来形の文章はできない。構文がないので、ばらばらな単語によるコミュニケイション以外にない。ばらばらな単語には、意味が無い。間違いもなければ、矛盾も無い。小言・片言により表現すると、歌詠みの和歌、俳句が出来上がる。官僚の行政指導が出来上がる。親方の牛馬の調教 (序列修行) が出来上がる。それぞれに、自分の想いを言い放つ。このような環境の中で、人は理性判断を身につけることが難しい。 276 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
ノーベル賞受賞おめでとう 寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月09日
1901年に始まるノーベル賞は、今年で102回目になる。昨年までの受賞者は、医学生理学、物理、化学の3分野で478人に上る。
だがしかし、日本人は7人である。一方、米国の3分野の受賞者は200人で、英国も70人になる。米国では毎年恒例の出来事にすぎないのだが、3年連続のノーベル受賞が大ニュースとなる日本は、いささか時代がかっている。受賞者の学歴をよく見れば、その原因の違いを明確に示している。英米人は英米の研究室で研究をしているのである。英語を基礎とする科学を、英米人と関わりなく勧めることは不可能に近い。英米人と同じ研究室で研究する機会を与えられることの効果は、研究者にとって計り知れないものがある。英米での良い学習環境の機会さえ与えられれば、日本人の受賞者の数も急増するに違いない。わが政府も、本格的にわが国民の英米での研究活動を増大させる必要がある。
2000年受賞の白川英樹氏は、1976年ペンシルベニア大学博士研究員となった。
2001年受賞の野依良治氏は、1969年米国ハーバード大学博士研究員となった。
2002年受賞の小柴昌俊氏は、1953年、米ロチェスター大大学院へ留学した。
494 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
とかく、この世は無責任 寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月13日
外国人には、日本社会におけるしがらみがない。それで、日産のゴーン社長のように、社内改革がうまく行く場合もある。外国人に序列観念がないということは、職場に上下関係が無いということとは別儀である。職場の上下関係は、責任の所在をあらわす。責任観念無く序列を作る日本人とはわけが違う。日本人に責任観念がないのは、説明責任がとれないからである。日本人に説明責任が取れないのは、判断結果に根拠がないからである。判断結果に根拠が無いのは、判断の基準が無いからである。判断の基準を持たないのは、日本人に「あるべき姿」を考える習慣が無いからである。
「あるべき姿」が考えられないのは、その内容が未来構文の内容だからである。日本語には、時制が無い。従って、未来構文、現在構文の区別が無い。未来構文の内容は、無い事。現在構文の内容は、有ることである。有ることと無い事を一つの構文で喋ると頭の中が混乱する。そこで、日本人は、目の前のことばかりを話すということになる。ナウな感じのする話であり、その場限りの話である。現実肯定主義の態度である。未来のことを話せば、鬼も笑う社会である。いくら話しても、哲学的な話にはならない。暇つぶしである。日本人は、昔から、今様踊りをする国民であったらしい。531 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。