英語習得のすすめ 寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年10月27日
日本語には、時制がない。実況放送型・現場報告型の文法を持つ日本語を使用していては、学問はできない。過去と未来の内容が抜けていて、温故知新が成り立たないからである。英語の強みは、未来形の「あるべき姿」を使って、現在形と過去形の現実「今ある姿」を批判できることにある。さすれば、改革の方向も把握できる。我々は、温故知新の手法を獲得する為に、英語の習得を心がけなければならない。186 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
根本的な教育改革 寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2002年12月08日
毎日新聞の雑記帳(2002.12.05)によると、授業中にメールをするのは女性84%、男性77%。メール以外にも、居眠り82%、友だちとおしゃべりするが77%。授業中に食事をするとの答えも8%あったということである。レポータの大西康裕氏は、「子供の学力低下の結果? それとも、授業の中身のせい?」と疑問を投げかけているが、そんな事ではないようだ。実は、学問に関する器の問題である。英米流の学問を日本語でやるからである。
英米人は、真理は現実の背後にあると考えている。だから、真理の探究が必要になる。
だから、高等教育が必要になる。「あるべき姿」即ち真理は未来形で表現され、「今ある姿」即ち現実は、現在形・過去形で表されている。「あるべき姿」と「今ある姿」の内容は、決して考えの上で交じり合うことが無い。だから、議論が可能になる。日本語には、時制がないので、人々は真理が現実の中にあると考えている。だから、事実を丸暗記することが勉強になる。詰め込み主義でくたびれる。このやり方でも、序列順位は定める事が出来る。これが、向上心に繋がっている。
日本語で考えれば、英米人の学問には意味がない。日本語には英語に相当する構文がないので、その内容が宙に浮く。空論となる。つまり、哲学は有ること・無いことの無いことに相当する。日本語には、英米流の真理を探究する余地は無い。全ては、現実を見ればわかることだからである。だから、目的意識なく在学する。授業中に別の事をしなければならなくなる。
日本人の勉強に英語を徹底導入する事が真の教育改革になる。さすれば、国際社会で通用する人間も急増する。682 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
英語学習の王道 寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2003年01月11日
我々は、子供のような大人をいつまで続けるつもりなのであろうか。日本語には、未来構文がない。構文がありながら、その内容を考えないのであれば、その人は思慮のない人ということが出来る。構文がないにも関わらず、その内容を考えようとする人は、雑念・煩悩に苛まれた人に見える。我々日本人が、睡眠(sleep)、微笑(smile)、沈黙(silent) の3S型能天気から脱却するには、未来構文のある英語を使って考えるのが良い。
英米では、「意思のある所に、方法がある」(Where there's a will, there's a way.) と言う。意思は、未来構文の内容である。日本語には、未来形がない。日本人のような意思のない人は、万事受身の態度をとる。意思のない人が、行動に踏み切るのは大変な努力を要する事なのである。行動に踏み切る時の掛け声を「精神一到何事か成らざらん」という。これは、朱熹の文で、精神を集中してなせば、如何なる難事でも成功しないことはない、ということである。要するに、行動を開始するには、気合を入れることが大切になる。未来構文の意味するところに従って手順通りに行なう事を意味していない。だから、結果としての行動は、刹那的であり迷走する。待ちの政治に見られるような日本人の消極性は、言語の問題でもある。
言語を習得することは、考え方を学ぶことでもある。いつまでも、日本語を使って実況放送・現場報告の発言を続けていても仕方がない。さりとて、英米人の考え方を日本語に移しかえることは極めて難かしい。だから、英文和訳を主体とする我が国の英語教育は能率が上がらない。それで、日本人は、今日に至るも英語下手である。英語を英語として学ぶことが大切なことである。四六時中、英語で話す環境が理想的である。これは、英語学習の王道である。757 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。
英語と大学 寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 2003年01月23日
英語文法には人称 (person) があるように、日本語文法には階称 (hierarchy) がある。どちらの法則も文章全体の意味付けに深く関わっている。以下は、階称による判断と、英語による判断の違いである。
日本語の習得は、いわゆる「言葉遣い」の学習による。「上と見るか、下と見るか」の階称を序列順位に合わせてよどみなく使う方法を習得することである。この強弱が原因となって、敗戦以前に皇民化教育を受けた世代と、戦争に行かず戦後教育を受けた世代の間には価値観の亀裂があります。英米の世に打って出ることができない。亀裂があって自信がでない。我々も英語を習得して理性判断を身につけて国際的に活躍すべきである。
フォークとスプーンは、使用目的が違っている。フォークを使う目的のところでスプーンを使えば、作業能率が上がらない。フォークを使用すべき所では、やはりスプーンではなくて、フォークを使用するのは正しい判断である。このような判断をリーズナブルな判断という。リーズナブルとは、文字通りリーズン (reason) ・エイブル (-able) で「理性・理由になりうる」ということである。つまり、理性判断 (rational judgment) になっているということである。
リーズナブルな判断は個人個人に違いがあるから、個人はその個人的色彩において尊重される。理性ある個人の判断に着目し尊重することは、この現実の世界において個人の知力に力を与えることになった。だから、英米は英語による理性判断を使って実力を発揮し、この地球に英米の世を築き上げた。
英語は、科学・哲学に適した言葉である。日本語は、和歌・俳句に適した言葉である。中国語は、漢詩に適した言葉である。ヒンズー語は、インド哲学に適した言葉である。それぞれの言語に、それぞれの個性・特性を見つけ出して、それらを有効に利用することが我々には大切なことである。何事においても、古式床しく「上と見るか、下と見るか」の判断で切り盛りするのでは、有効利用も難しく、現実対応に更なる苦慮を強いられる結果となる。だから、英米流の教養を身に付ける為に、我が国の大学でも英語を使って教育を行なうべきである。我々も考え方を変えなければ時代に付いて行けない。929 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。