つれづれなるままに     大淵     寺嶋眞一

 

若い頃は、無我夢中で生きてきた。世の中の物事がどうしてそういう結果になるかということは、分からない場合が多かった。だが、だんだん年を取ってくると、世の中の仕組みが少しずつ分かるようになり、やがて、定年退職をする頃となると、そのことを書き残しておこうという気になってきた。
言葉は、考えるときの道具である。言葉が違えば、その結論も違うことになるということも分かってきた。考え方の違いは大きなことだが、そのことをとやかく言う人はいない。それどころか、誰もが同じように考えていると、常日頃から固く信じ込んでいる人が多いのも事実である。
私は、昭和31年3月に掛川西高等学校を卒業した。当時のクラス担任の斎藤太郎先生や、校長の肥田米作先生は英語の先生で、特に文法教育に力を入れておられた。それで、私も文法のことに興味を持つようになった。特に、英文法には時制に関する記述の多いことに驚いた。其の後、新設の琉球大学の医学部で生理学を教えることになったが、研究発表の論文は全て英文で書いた。科学雑誌に発表されるまでには、英米人の査読者と議論をしなければならないことも多かった。それで、英米人の考え方が日本人と違うことに気がついた。
英語は、範疇化 (categorizing) と意思決定 (decision making) に優れた言語であるが、日本語は議論の引き伸ばしに都合のよい言語である。どうして、日本語が議論の引き伸ばしに都合がよいかというと、日本語では意思決定ができないからである。なぜ意思の決定が出来ないかというと、意思がないからである。なぜ意思がないかというと、意思 (will) は未来構文の内容であるが、日本語には未来構文がない。日本語には、なぜ未来構文がないかというと、日本語には時制が (tense) ないからである。
専門雑誌に投稿した内容をまとめて一冊の本として出版した。世界中の人が私とその共同研究者の本 ’Infrared Receptors and the Trigeminal Sensory System’ (1998) 「赤外線受容器とその三叉神経感覚系」を米国のアマゾンから入手できる。

日本人には意思がない、と考えられることが私にはしばしばあった。意思の内容がない日本人の自発性は、アニマルの自発性のようなものになる。つまり、善悪の見境がつかない。それで、他からの調教が必要になる。日本語の意味する「意志」は、動機付けのようなもので、行動に踏み切るときの気合・掛け声のようなものであることが多い。
良い意思は善意 (goodwill) である。悪い意思は悪意 (ill will) である。善意の人は善人で、悪意の人は悪人である。意思がなければ無邪気 (innocent) である。それで、日本人は子供のようである。無哲学・能天気な大人なのかもしれない。子供のような人たちには、陪審員の役割は荷が重過ぎる。
モーゼの十戒のような’You shall not ….’という判断の基準となる内容も、やはり未来構文の内容であるから日本語では考えることも言い表すことも難しい。基準がなければ、議論において自分の論拠を示すことはできない。だから、議論にはならない。基準を持つことが出来れば、日本人にも理性判断 (rational judgment) が可能になる。
未来構文の内容と現実構文(現在構文)の内容の比較ならば、現実批判になる。現実構文の内容同士の比較は、横並びの比較になる。横並びの比較は、同次元序列の比較になる。他人のものが欲しくなり、嫉妬心が湧く。子供の頃の悩みである。
論拠のない日本人が強く訴える動機となるものは、感情である。感情理論という言葉もあるくらいである。感情のことに関しては、わが国民は同情する。我が国には歌詠みの伝統がある。それで、議員さんも県民感情の代表とか、国民感情の代表になる人が多い。酒を飲んでも歌を詠む。戦場に出ても歌を詠む。だが、「感情を抑えて、理性的になれ」という指導者の声には、説得力がない。その要求が現実離れしているからである。
日本人は、判断の基準をもたないから物事に白黒が付けられない。日本人は議論ができないから「和をもって貴しと為す」が極上の教えとなる。話はエンドレスに成りがちであるから、時間の方を切る。だから、国会議員の方々も苦労されていることが多いと想像できる。もし議論ができれば、理を通すことが貴いことになるはずである。無理が通れば、道理が引っ込む。無理難題には「ご無理、御尤も」と答えるしかない。所詮、議論にはならないのだから。
日本語には、階称 (言葉遣い) があって、序列表現だけは、はっきりとしている。それがもとで、日本人は、同次元の序列争いには余念がない。その心を向上心と呼んでいる。日本人の間の序列関係を知らなければ、正しい日本語表現もままならないが、この指摘をひどく嫌う人がいる。だが、序列思考を考えないでは、日本精神を説明することは難しい。わが国民は、天皇に連なっているという感覚が稀に見る良いところなのである。受験地獄も序列に連なるための励みによって起こる。
日本語は、現実構文のみの言語である。現実構文の内容には、個性が表れることが少ない。現実構文に表れる個人差は、通常、個人による事実誤認と考えられる。それで、現実構文ばかりの日本人の発言は、没個性的になっている。「日本人の意見は、一人聞いたら全部が分かりますよ」という外人もいる。

日本人の「世の中は、、、、、、。」の発想は、あまくでも自己が規定されるべきものとしての発想である。英米人のような、世の中を自らが規定すべきものとしての発想ではない。それというのも、日本人には基準に関する考えもなく、意思の発想もないからである。万事、受身の発想となるので、万事が受身の姿勢と行動になる。「我が国は、常任理事国として、いかに国連を利用するか」ではなくて、「いかに利用されるか」の問題として捉えるのである。
意思のあるところに方法はある (Where there’s a will, there’s a way.)。意思がなければ、危機に臨んでも無為無策でいなければならない。傍目にはのんきに見えるが、本人は内心ひどく不安である。日本人に危機管理は難しい。
これでは、当事者として物事に関する責任をとることはできない。国がひっくり返るような惨事に関しても「責任者を出すな」の発言はまともなものと受け取られている。適・不適の判断の難しいアニマルに処罰するようなことになるからである。惨事が起きることも、惨事を避けることも、所詮、個人の責任ではない。これでは、日本人の手による新しい社会の建設などは不可能に見える。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言われている。が、未来構文の内容で合意すれば協調関係に入れるが、現実構文の内容で合意すれば協働関係になる。現実構文の協働関係ばかりが重視されて、しかも無哲学・能天気であるために、小人の国の様相を呈しています。人びとは赤軍派のような同一行動ばかりを強調することになります。
個人主義は、個人の持つ未来構文の内容を尊重することである。利己主義は、他人をないがしろにする恣意 (私意・我儘・身勝手) である。恣意には、文章構文は必要でなく、子供の小言・片言の類でこと足りる。構文のないところは、察しとか勝手な解釈で補っている。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。個人主義 (individualism) と利己主義 (egotism) の見境がつかない人が多くみられます。意思と恣意の区別が容易でないのは、日本語に未来構文がないからだと考えられる。

夢・幻は、未来と過去の内容に相当する。日本語では、未来構文と過去構文は存在しないから、未来と過去の話は現実構文の内容として語られる。聞いても空しい。「話にうつつを抜かしてはいけない」と言われている。現実構文の内容にうつつ () を抜かせばたわけ事になる。次元の異なる内容を現実構文にのせたのでは実感が湧かないし、その内容は現実の中の嘘になる。だから、日本人は、未来に希望を託してその建設に励むことが難しく、過去から教訓を学ぶことも難しい。言語の観点からして、温故知新の過程は習得が難しいといえる。
日本語は、内向きの言葉である。「今ある姿」の内容は、とかくヒソヒソ話になりやすい。誰が聞いてもありえる事柄の内容である。その論争は、事実関係の調べに終わる。英語は、外向きの言葉である。「あるべき姿」の内容は、公言するのに適している。個人の思い付きが、その内容だからである。その論争は哲学論争に及ぶ。英米流の学問は議論により発展する。だから、彼らの学問に参加するためには、ぜひとも英語を習得する必要がある。
日本語は、現実の世界に神経を集中させる言語である。日本語は、目先・手先の能力を増進させ、日本人に優れた細工物を造らせ、その結果が技術立国ニッポンを作った。その技術は、我が国を世界第二の経済大国へと押し上げた。我々に今日の繁栄があるのは、日本語の特性のお蔭だが、日本語にも知的な面での欠陥がある。日本人の考えには、未来永劫の次元から見た批判が抜けている。その欠陥を補うために、我が国の有識者・知識人は、英語で考える力をも習得する必要があると考えられる。そうすれば、我が国は知的な面において更なる発展の歩みを確実なものにすることが出来る。

 

文芸 かけがわ