プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
102851 > 旧い校訓
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/19 PM09 【印刷用へ】
> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 85899 旧い校訓
> 高田敦 ( 30代 大阪 塾講師 ) 05/02/18 AM11 【印刷用へ】
>「誠実」、 「勤勉」 、「自律」 、「協同」、「自由」、「創造」など校門や教室には誇らしげに その学校の校訓が掲げられています。古いものは明治の教育勅語(天皇を頂点とする身分序列の社会の道徳)の影響をうけ、新しいものでは戦後の政治的なスローガン(平和・人権・生命)の影響を受けています。
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。82023
階称を利用して青少年に序列観念の刷り込みを行うと、生きているロボットのような思考停止の人間が出来上がる。92478
ルース・ベネディクト (Ruth Benedict) は<菊と刀>の中の<戦時中の日本人>で、下記の段落のごとき事実を記している。
多くの俘虜たちが言っていたように、日本人は「天皇の命令とあれば、たとえ竹槍一本のほかに何の武器がなくとも、躊躇せずに戦うであろう。がそれと同じように、もしそれが天皇の命令ならば、速やかに戦いを止めるであろう」。「もし天皇がそうお命じになれば、日本は明日にでも早速武器を捨てるであろう」。「満州の関東軍――――あの最も好戦的で強硬派の――――でさえその武器を置くであろう」。「天皇のお言葉のみが、日本国民をして敗戦を承認せしめ、再建のために生きることを納得せしめることができる」。
スローガンは、お題目のようなもので、西洋思想の内容を日本語で説明することは難しい。102748
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私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
102840 > 「自分がされたら嫌だから」、無限に「マナー」が作り出される。
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/19 PM04 【印刷用へ】
> 私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
> 58130 「自分がされたら嫌だから」、無限に「マナー」が作り出される。
> 長谷川晃央 ( 23 千葉 会社員 ) 03/07/04 PM09 【印刷用へ】
> 「マナー」や「規範」と呼ばれるものについて考えてみると、「自分がされたら嫌なこと」という発想が根底にあるように感じます。
私も子供の頃、「自分がされたら嫌なこと」による判断の仕方は、何度か学校で先生から教えられました。
「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」(孔子) の教えの分かり易い説明かもしれませんね。
ジーザスも「すべて人にして欲しいことは、人にもまたそのようにせよ」と言いました。
しかし、後になって「死ぬ気になれば何でもできる」という人が現れて、こうした判断の仕方では歯止めのかからない場合のあることも分かりました。
理性の無い人にリーズナブルな答えを期待することはできないとの結論に達しました。84116
> 「自分が〜されたらやでしょ?だから〜はしちゃいけないんだよ」という発想。
> こうした「自分」発の「ルール」作りや「規範」作りは、各事象ごとに個別にルール化されたものにしかならず、なぜその「規範」が必要なのか?という問いに対しては「自分がされたら嫌だから」の一言で片付けられてしまいます。
感情か気分・雰囲気の問題になるのですね。気分は移ろいやすいですから、その時・その場で基準が変わる場合もあるのですね。98465
気分に忠実では、とらえどころのない人間になります。82478
> このような状況においては、「ルール」や「規範」が無限に増殖する可能性しか残っておらず、さらには「何が問題なのか?」を考える意識すら奪ってしまいます。
問題意識などは無い場合も多いのでしょうね。ヤクザの因縁などもそうでしょう。82144
> そんな無限に広がるマナー作りより、「みんな期待」の場を構築することのほうが、はるかに価値あることだと思います。
自己の世界観をお互いに述べ合うと有意義でしょうね。102019
理想の世界を作る段取りを述べ合えば、建設的な話し合いになると考えます。102080
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その他(猿と人類)
102826 > 情と理
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/19 AM09 【印刷用へ】
> その他(猿と人類)
> 22961 情と理
> 渡辺卓郎 ( 29 東京 設計士 ) 02/02/04 PM10 【印刷用へ】
>>日本では理はすべて制度に組み込まれていて、情だけが個人のもの、みたいな感じですね。だから情が自由だというよさがあり、逆に情が情だけにとどまって理との間の相互作用に欠けるうらみがあります。22839
> これは、本音と建前、のようなものでしょうか?
> 特に、市民の政治に対する姿勢に見られるように、建前はあくまで建前として語られ、実体の判断はほとんど本音、つまり「情」の領域で行われているようにおもいます。
建前と本音は、公私の区別のようなものですかね。93381
公が建前と理、私が本音と情。とかくこの世は難しい。つかみ所がない。82478
> ですから、いくら論理的に整合性が高い言葉であっても、情に響く言葉として「語られる」ことがなければ、共感を得ることができないのではないでしょうか。
心なしということですかね。音響効果も必要ですか。91933
> もちろん、それを逆に利用して、情に訴えかけて中身は何にもない、ということがまかり通る場面も少なからず見受けられますが。
> その反面、>>西洋は情も理も個人管理なので、個人の負担が重いですが、そのかわり情理の相互作用が豊かになります。22839
情の強さを理で示すということですね82144。同感です。
> たしかに、情を理で抑制するというか、理性的であることに重きを置き、情が前面に出てしまうのはみっともない、というような規範が働いているように思います。
情が前面に出てしまうのはみっともない、’Shame on you.’ ということですね94865。同感です。
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その他(マスコミ)
102795 > 何ひとつ生産しないマスコミ
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/18 PM01 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 38001 何ひとつ生産しないマスコミ
> 衛藤信義 ( 40代 東京 エンジニア ) 02/08/16 PM07 【印刷用へ】
> マスコミとは、いったいナニモノだろうか。
> マスコミこそが最大の権力者である。
> 社会は人々の共認によって成り立っており、彼らは世論を誘導し共認を支配する力を持っている。
> 一国の首相を退陣させることなどいとも簡単にできてしまう。
> しかも、言論の自由・報道の自由という憲法で保障された最大の権利を武器に。
> マスコミは旧観念から抜け出せない。
> 彼らの存在が、言論の自由というような権利概念(=欺瞞観念)を前提としている以上、事実認識に目を向けることはあり得ない。
> 彼ら自身が欺瞞存在であるのだから。
目先・手先に関する考えは、日本人に向いている85728。だが、観念は日本人向きの考えではない102335。
戦時中も日本人は、言論の自由に対する制限を非難していた。
だが、無為無策だったのでしょうね。その非難が世の中を動かすまでには至らなかった。94865
ルース・ベネディクト (Ruth Benedict) は<菊と刀>の中の<戦時中の日本人>で、下記のごとき事実を記している。
1944年7月、東京の某新聞紙上に掲載された、新聞記者、元議員、日本の全体主義的政党であった大政翼賛会の指導者たちからなる座談会の記事はそのよい例である。ある発言者はこう言っている。「日本国民を奮起せしめるにはいろいろな方法があると思いますが、その中で最も重要な方法は言論の自由であります。ここ数年来、国民は自分の考えていることを正直に言うことができませんでした。彼らは何か言えば咎められはしまいかと恐れていたのであります。彼らはおどおどし、何とか表面だけを繕うように務めて参りました。そのために民心はまことに臆病になっております。こんなことではとうてい国民の総力を発揮せしめることはできません」。もう一人の発言者は同一趣旨を敷衍してこう述べている。「私は選挙区の人たちとはほとんど毎晩のように会談を重ね、いろいろな事柄についてあの人たちの意見を訊ねて参りましたが、どうも皆恐れていて口を開かないのです。言論の自由が否認されて参りました。これはたしかに戦意を旺盛にする正しい方法ではありません。国民はいわゆる戦時特別刑法と治安維持法とによってはなはだしい制限を受けておりまして、まるで封建時代の人民のように臆病になってしまいました。したがって今までに当然発揮しえたはずの戦力が、現在もなお発揮されていない有様であります」。
> マスコミは徹頭徹尾、傍観者である。
> 彼らは最大の権力者であるが、利益を追求する単なる民間企業にすぎない(これ自体が異常だとも言えるが)。
>よって、国家や人々の行く末などについては完全に無責任なのである。そもそも中立の立場にいる以上、傍観者にならざるを得ない。
中立の立場は傍観者ですか94960。マスコミは、論評を抜きにして、ただ事実のみを伝えているのですか。102748
現実直視ができなければ、事実のみを伝えることすらできないでしょうね。90895
> マスコミは何ひとつ生産をしていない。
> そう、彼らは何も生産していない。彼らが日々生産しているのは、無責任なおしゃべりと芸能などによる代償充足だけである。
> それどころか、社会不全を 再生産し思考停止の人々を生産し続ける罪人である。
事実小説の供給者ですね102467。暇つぶしの材料を提供するのは彼らですか。
>>だとすれば、後は彼らの流す言説(脚色と演出)が全て今や無効であり、かつ誤りである、と明確に意識的に断ずること、これこそが既に力を失いつつある支配観念と代償充足の檻から抜け出し、当事者として自分自身の目で状況を捉えてゆく第一歩になる。37954
「理屈はいらない。見れば分かる」といったところでしょうか99912。期待・願いばかりでうまく行くか。102628
> マスコミがもはや無能であることは、誰の目にも明らかであろう。社会不全がさらに深刻化していけば、国家に替わり無能なマスコミや学者や文化人などに不信の目が向けられることは時間の問題だろう。私たちがやるべきことは、事実認識を追及し、人々の手による認識形成の場を作り上げていくことである。
不信の目は、常に向けられている82285。知的低水準は、国民の課題です。82320
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閉塞の元凶は、個人主義
102748 > ナメラレタ大人 観念に毒された教育の末路
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/17 PM08 【印刷用へ】
> 閉塞の元凶は、個人主義
> 2890 ナメラレタ大人 観念に毒された教育の末路
> 小寺隆之 ( 41 岐阜 塾講師 ) 01/04/07 AM00 【印刷用へ】
> 個人の「自由・平等・人権擁護」という観念が、その毒性を最も強く発揮している場は、「学校」ではないかと思います。
西洋人の観念は、日本人の頭の中では成り立たない。観念はドクですね。82285
物質名詞であれば、意味の同定に問題はなかろうが、抽象名詞では単語を見比べただけでは、同一を確認することは難しい。101092
自由は、履き違えるものである。84743
平等は、没個性への掛け声になる。83909
人間性は、昔からの日本人の意味する人間性である。(ベンダサンを参照)
権利は、我利我利である。94962
イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<全員一致の判決は無効>で下記の段落の如く述べています。
法外の法の基本は何なのであろう。面白いことに、それは日本人が使う「人間」または「人間性」という言葉の内容なのであろう。今のべたような「人間味あふるる判決」とか、、、、、、、このどこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。、、、、、日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が、明確でない新聞など出せるはずもなければ読まれるはずもない。、、、、、人である限り、自らの位置を明確にしなければ公正 (フェア) でないから、それを明確にせずに、否、明確にしないことが不偏不党かつ公正だなどと言われると、西欧人の頭はこんがらがってくる。
> はっきり言わせていただくと、先生たちは自らの「自由・平等・人権」を守るために(=既得権益を守るための方便として)、生徒たちに「自由・平等・人権擁護」の大切さを教えているのではないかと思われて仕方ありません。
先生たちは、我利我利なのですね。94962
> 例えば、うちの中1のボウズの担任の先生は、授業をホッポリ出して、有給休暇を利用しての1週間の海外旅行(そんなもん、夏休みにしろよ!)。 正当な権利の行使ですから、誰も文句は言えませんが、やはりどこかおかしい。
文句を言えるようになることが、先決でしょうね。感じに強い説得力を持たせることは難しい。82285
> また、今年の3月卒業式を終えた、ある中3生がポケットから「赤い布切れ」を出しながら自慢気に私に、「卒業式のあと、校庭に掲揚されている日の丸を仲間と数人で降ろし、引きちぎったものだ。」といいました。近くで先生は見て見ぬふりをしていたといいます。これも、どこかおかしい。
自由の履き違えですね。84743
> 最近の小中学生の暴走ぶりは、目に余るものがありますが、結局は先生たちは彼らに「弱み」に付けこまれているだけのことではないでしょうか。まあ、学校だけではなく、世の大人たちは皆、彼らにナメラレテますけどね。
お互いに議論はできませんからね。アニマルのようにナメラレテます。82251
> 個人主義は欺瞞そのものです。この枠組みのなかではいくら改良しても、何にも変わらない、ということは明らかです。追求の矛先が「自我」の領域に向かった途端、その矛先は丸くなってしまい、解決の糸口を見失ってしまいます。お互いが、その領域を守るために…。
個人主義は、利己主義と区別しなければ欺瞞そのものです。誤解そのものです。82123
日本語の枠組みの中ではいくら改良しても、日本人の行動形式は何にも変わらない、ということは明らかです。84361
「自我」は、さしずめ恣意 (私意・我儘・身勝手) の言い換えのような内容ですね。滅私奉公でも復活しなければ、解決の糸口を見失ってしまいますか。82735
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その他(環境と仕事)
102628 > 社会で生きていくことの中身
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/15 AM06 【印刷用へ】
> その他(仕事・起業・共同体)
> 62149 社会で生きていくことの中身
> 福島健 ( 30 滋賀 建築設計 ) 03/09/27 PM11 【印刷用へ】
> どうも旧い世代は社会で生きていくことを、序列社会に組み込まれていくことと同義で捕らえてしまうところがあります。事実、これまでの私権社会構造が人々を否応なしに、そこへ放り込んでいたのだから、そう捉えてしまうのもある意味では仕方の無いことかも知れません。
我が国は、伝統的な序列社会 (タテ社会) でありますから、序列社会に組み込まれていくことと同義ですね95237。それは、日本語に階称 (言葉遣い) があるからです82373。日本人の考え方が、序列的発想に基づいているからです88971。
> しかし、若者に見るフリーターの増加や早期離職といった現象から感じることは、彼等には社会で生きていくことと序列原理とが、そもそもイコールになっていないことです。
序列社会からの逸脱ですね93729。
> 嫌なことを我慢してまでも私権企業で働きたくないという彼等の気持ちは、人の期待に応えたいという真っ当な活力が、その前に立ちはだかる“序列”によって衰弱してしまうことを嫌っているだけで、むしろ我々以上の世代よりも、実に素直に社会に出て生きていきたいと思っているだけなのだと思います。
序列は、滅私を要求しますからね82735。しかし、願い・期待だけでは、彼らの思いは実現しませんね。無為無策ということになりますからね82242。序列の機序を理解し、不当な要求を跳ね返す適切な対処が必要ですね。つまり、理性的な人間になることが必要ですね82023。
> そして“序列”というフィルターをはずせば旧い世代でも、社会で生きていく本当の中身に気付けるのではないかと思います。
大統領とか副大統領とかいった責任 (応答可能性) に関する序列は、必要でしょうね83818。ことが起こって、常に一億総懺悔では困りますからね84432。だが、向上心というか、より高い序列順位を得るための世俗的な日常の果し合いを淘汰することは大切でしょうね84116。本当の中身に気付くことは、容易ではないようです82320。
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潮流3 出口が見えない、答えが欲しい(収束不全)
102587 > 若者の持つ夢とは?
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/14 PM08 【印刷用へ】
> 潮流3 出口が見えない、答えが欲しい(収束不全)
> 2852 若者の持つ夢とは?
> モーニング知洋 ( 21 東京 学生 ) 01/04/06 AM02 【印刷用へ】
>私が一番感じている事は、現代社会の若者は夢(目標)がないという事です。夢(目標)がないために自分自身に方向性を見い出せず自分が何をすれば良いのか分からない、現代はそんな若者で溢れています。
夢は未来構文の内容です。84047
日本語には、未来構文がない。82240
だから、未来に関する事柄は片言となって考えとしてまとまらない。82285
そして、現代社会の若者は夢(目標)がない。98892
> 多様化が進み、世の中にはさまざまなものが溢れ、生活自体は実に豊かなものになった反面、若者の自由度が広がり過ぎ、彼ら自身が本当にしたいことを見つけにくくなっていることは事実です。しかしそれを「社会」や「教育」のせいにするのではなく、自分自身の問題として捉えられる勇気が必要なのではないでしょうか。
自分の意思 (will) は、未来構文の内容である。82057
日本語には、未来構文がない。82193
だから、自分の意思に関する事柄は片言となって内容がまとまらない。90887
自分の意思が持てないのであるから、「社会」や「教育」のせいにするのである。82242
自分の意思が決まらなければ、自分自身の問題として捉えることも難しい。84641
> はらいさおさんが高校球児と現代の若者を比較し「一方は一つの目標を持ちひたすら汗を流し、もう一方は出口の見えない暗闇でもがき苦しんでいる」と述べていましたが、私もその様に思います。
高校球児は一つの目標を持ちひたすら汗を流すのは、個性が認められているからである。99945
その他の現代の若者は出口の見えない暗闇でもがき苦しんでいるのは、個性が認められていないからである。82123
> 何か一つでもいい、どんな小さな事でもいい、自分自身が真剣に向かっていける夢(目標)を見つける事が大切だと思います。
同感です。
> 社会はこれからもっともっと多様化が進んでいくことでしょう。その時若者は一体どんな夢を持つのでしょうか。皆さんはどう思いますか?
スポーツ選手や芸術家のような非言語の活動はこれからもっと多様化が進んで発展するでしょうね。83909
しかし、言語に基づく活動は、没個性の言語的環境に封じられているので、今後も多様化は進まないでしょう。特に高等教育機関で学ぶ学生は、暗闇でもがき苦しみ続けることになるでしょう。教育あって、教養なしか。84775
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アメリカ→官邸→マスコミの共認支配を許すな
102509 > 「反小泉」や「反アメリカ」って旧くない?
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/13 AM04 【印刷用へ】
> アメリカ→官邸→マスコミの共認支配を許すな
> 102502 「反小泉」や「反アメリカ」って旧くない?
> 匿名希望 05/12/12 PM11
> 小泉がやばいのは分かっている。アメリカがやばいのも分かっている。
たかが人間のすることですから欠点だらけですね。102335
> でも、「反小泉」や「反アメリカ」って旧くない?
似たようなことは、昔からやっていることです。90922
> 小泉おろしに成功し、アメリカにNO!と言ったとして、みんなの「なんとなく不安」はちっとも解決しない。
自己主張のやりかたがまずいですね100945。「消去法」ですから。96666
> それどころか、身近な不安は増え続ける一方。
筋道の立った未来の内容が見えていませんからね。90706
> 「どうする?」「どうしたらいい?」
それが知りたい内容ですね。99069
> 日々強まる痛感が、目先では駄目なんだと教えてくれている気がする。
同感です。目先・手先の事柄を歌に詠んでいては駄目ですね。100035
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思考パラダイムの逆転
102478 > 「肯定視」と「肯定視観」の大いなる違い
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/12 PM08 【印刷用へ】
> 思考パラダイムの逆転
> 102455 「肯定視」と「肯定視観」の大いなる違い
> 小川博 ( 48 大阪 塾講師 ) 05/12/12 AM11
> 肯定視:あるがままを受け入れること。そこには、観念というフィルターはかからない。
雑念 (夢・幻) が無ければ現実直視が可能ですね。90895
> 肯定視観:あるがままに対して、潜在的には、肯定=受容できない、厳しく言えば否定視があるのだが、そのことを否定して、無理して密閉し、肯定=受容しようとしている様。
無理してはいけない。気の毒である。受け入れられない理由をよくよく考えるべきである。84116
判断は、何事も比較の問題である。95232
日本人の場合は、現実の内容が比較の基準になる。「○○さんは、□□した」といったこと。これしかない。82942
というのも、現実構文の内容しか存在しないからである。92480
比較する方も比較される方も現実であるから、横並びの比較になる。品定めのようなものか。95232
そこで、格差の検出になるが、結果は常に程度の差ということになる。質の差にはならない。102335
順位争いを激しくすれば、試験地獄となる。83459
> 気を付けなければいけないのは、肯定視というものは、今の我々では、未だに、旧観念=固定観念が、巷にあふれ、植え付けようとするベクトルが消えたわけではないわけだから、決して簡単ではない、いや、すごく難しいことであると認識することではないだろうか。
英米人の考えでは、理想が未来構文の内容になり、現実が現在構文の内容となる。82476
理想を基準に取り、現実をその比較対象にとると、その差が明瞭になる。この判断は理性判断 (rational judgment) である。82023
理想と現実の一致・不一致が答となって出てくる。83749
こうした判断の仕方は、日本人には難しい。日本人の判断は、盲目の判断 (blind judgment) である。84641
> 「肯定視ができない」自分に拘ると、それができない自分を否定し続け、それに苛まされる自分をつくり、いつかは、自分の元気が無くなり、周りの元気をも奪い、ひいては、自らの存在をも否定する自分をつくってしまうだけになるのではないだろうか。
「仕方が無い」「仕方が無い」と言い続けるのですね。良くないですね。98699
> 肯定しようとすることは決して悪いことではない。
現実肯定主義しかないでしょうね。82615
> 否定する直感も、決して悪いことではない。
恣意のようなものでしょうね。93383
> 悪いのは、「何故」「なんで」「どうして」などと何の疑問、問題意識も持たずに、単にそう思った自分を否定するということ。さらには、そう思った自分を肯定(=温存)しつつ、表面的には、さも、協調、共認というなのもとで、隠蔽すること。
何を基準にして答えを出すかということが鍵になる。98364
現実を基準にして、現実を批判することについて。現実は現実に一致しているから、否定できない。95232
理想を基準にして、現実を批判することについて。現実は理想に一致しない場合が多いから、否定もできる。94682
日本語には、現実構文 (現在構文) しかないから、基準を現実構文の内容にとらざるをえない。だから、日本人は、現実肯定主義者になる。84047
英米人は、基準を未来構文の内容に取ることができるから、現実を理想と比較して批判できる。これが、現実批判である。95435
> もし、肯定=受容できないこと、否定(と言う言葉がきつければ、疑問でも、違和感でもいい)。それを感じたならば、まずはその自分を認め、それを皆(=ネット)に、仲間に、身近な人に問いかけてはどうだろうか。
感じでなく、自分の考えとして述べるように努力すべきでしょうね。98265
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。90820
> 無邪気(邪な心が無い)時期(3歳まで)を過ぎてしまった我々には、肯定視への路を辿るには、自分ひとりでは決していけない。皆を羅針盤に歩むしかない。
現実を否定することは、できないことですからね。101180
だが、現実ばかりであっては、現実に行き詰まる。101884
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マスコミが第一権力化したのは、何で?
102467 > マスコミは社会・政治に対して何を成すようになったのか
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/12/12 PM02 【印刷用へ】
> マスコミが第一権力化したのは、何で?
> 67277 マスコミは社会・政治に対して何を成すようになったのか
> 岩井裕介 ( 32 山口 再開発プランナー ) 04/01/27 AM00 【印刷用へ】
> 93年の総選挙で、細川護煕、羽田孜、武村正義が新党三人組として躍進し、非自民政権が誕生した。彼らが、連日のようにテレビに登場し、中身(政策・論点)はさておき、古参の自民党議員を仮想敵として、それとは反対の清潔そうな、何も悪いことをしそうにないイメージを繰り返し振りまき、そして、当時反権力的気分の強かった大衆の支持を得ていったことを記憶している。
> さらに、このことに関して、当時のテレビ朝日の報道局長が、「非自民政権の誕生が望ましいと考え、それにそって報道した」と発言して物議をかもしたが(いわゆる椿発言)、こうした発言がなされること自体、第一権力の座が完全にマスコミに移っていた証左と考えられる。
> こうした変化の中で、注目すべきは焦点は、政治家に代わって第一権力化したマスコミは、一体、社会・政治に対して何を成すようになったのか?という点だと思う。
> それは、結局のところ「政治の見世物化」ではないか。
> 大衆の社会意識の高まりを背景に登場した報道番組も、結局、政治を見世物として面白おかしくいじくりまわすことに終始しているようにしか見えない。そして、あらゆる社会不全は解決の糸口さえ提示されぬまま、状況は悪くなる一方である。こうした傾向は、近年の小泉・田中真紀子に関するワイドショー的報道にさらに顕著である。
> こうした「見世物化」により、社会と人々の意識をもてあそび、傍観者を次々とつくり出していっているのがマスコミの正体ではないか。
日本人には、フィクション、ノンフィクションの区別が難しい。100923
それは、日本語に時制がないからである。だから、歴史小説と歴史の区別も難しい。83662
現実構文という一つの次元の中に「今ある姿」ないしは過去の事実と自分の考えた「あるべき姿」を区別なく投げ込むからである。99069
とはいえ、日本語には時制がないから、全ての内容を現実構文 (現在構文) に入れるしかない。83281
これを日本語の曖昧さというべきか。99069
だから、日本のマスコミの報道は、事実小説になっている。つまり、真実を期待して読まれる報道は、実はフィクションに入る。裏切られたか。政治を見世物として面白おかしくいじくりまわすことにより、政治小説は出来上がる。
この操作により、視聴者・購読者の数も維持できる。82504
政治小説は、社会と人々の意識をもてあそび、傍観者を次々とつくり出す99474。事実は小説よりも奇なり。
脱小説家宣言をして、司馬遼太郎はエッセイの方を書いた。85176
政治小説は、政治哲学の書ではない。無哲学・能天気の民の知的低水準は維持されている。92856
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