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実現論って、何?
100729 > 「実現論」の難解さについて、
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/12 PM01 【印刷用へ】

> 実現論って、何?
> 495 「実現論」の難解さについて、
> 木橋哲夫  ( 45 東京 建築家 ) 01/02/25 PM08 【印刷用へ】
> 先ず読む側の理由として考えられるのは、日本人特有の観念(言葉)に対する忌避意識の存在です。“ぐだぐだ、難しいことをいうなよ。”と言うやつです。これは日本人が今まで、あまり物事を真剣に考えてこなかったからという特徴に依ります。“不言実行”とか“以心伝心”とかの言葉に象徴される、言葉での表現より行動を示すことで人となりを重んじる風潮による所が大きいと思います。

“不言実行”とか“以心伝心”とか、非言語の活動を重要視しているのでしょうね。気分・雰囲気のようなものか。85176
考えは必ず文章になる。文章にならないものは考えではない。92480

> この理由は、日本には本源的な集団が最近まで残存していたことによる、相互関係の濃密さに起因していると考えられます。此の点は、遠い昔に集団が解体されたヨーロッパ社会と異なる点です。ここでは、互いの意識を言葉でしか通じ合えなかったことが理由と考えられます。

人間に限らずアニマルも、相互関係は濃密ですからね。82285
互いの意識を言葉で通じ合える可能性が大であったことが、言語活動を盛んにする原因になっていると考えられます。83909

> 次に考えられるのは、活字離れによる個人側の努力不足による言語能力の貧弱さが、難解な文章を忌避する理由となっていると考えられます。最近はとみにこの傾向が強いようです。漫画本の弊害でしょうか。

同感です。

> 書き手側の理由としては、できる限り伝えたいことを正確に描写しようとすれば言葉を選択してくる必要が生じます。日常的に用いられている言葉は、表情や身振り手振りの助けを借りて、できる限り少ない言葉でより多くの意図を伝えようとします。だから、言葉だけで伝える書物とは徹底的に方法論に差が生じます。また平易な言葉には隠語などが存在する場合が多く、書き手の意図を正確に伝えるには不向きです。

非言語で言語活動を補う必要があることが問題でありましょう。95706
方法論の違いというか、非言語活動には、気分・雰囲気を伝えようとする目的もあるでしょう。82144
全ての考えは必ず文章になる。文章にならないものは考えではない。93930

> ましてや「実現論」のように過去にない社会状況を語ろうとした場合、そこで使い古された言葉を使用すると、既往の社会システムをイメージさせることになり意図からずれます。だから場合によっては新たな観念(言葉)を作り出す必要が生じ、これを用いて表現することになり、このことが難解さを助長しているとも言えます。

未来の内容を語るのには、未来構文が必要ですね。さもなければ、内容に違和感を生じさせます。81994
現実構文の中で既往の社会システムをイメージさせるような混乱は、極力避ける必要があります。82354
新たな観念(言葉)は、新しい構文の内容として裏付けられる必要があるのでしょう。83530
フランク・ギブニー (Frank Gibney) は、<人は城、人は石垣>の中の<日本文化のエコロジー>で、下の如く述べています。

欧米の学者やジャーナリストのほとんどは意識的にも国際社会の一部である。政治と経済の障壁がどんなに高くなろうと、新聞とスクリーンが世界の知識人間の壁をこわしてきた。彼らは国際会議と交流のレベルで会い、文通し合う。シンポジュウムの回路はガイド付き旅行と同じほど航空会社にかせがせた。それだけではなく彼らは、自国語と比較的翻訳の容易なヨーロッパ語で互いの業績にほとんど自動的に接触している。
日本はそうではない。毎年、外国語からの翻訳書は五千点にものぼるが、日本語からの翻訳書は百点もないだろう。そのほとんどが英語への翻訳である。日本語が読める一握りの人間を除き、あれほどおびただしく印刷機から流れる日本語の評論、批評、オリジナルな文学に接する外国人は取るに足らない。こうして大多数の文筆家に対する外からの評論、批評はない。 、、、、、。

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その他(若者と老人)
100700 > 意思決定・判断を避ける風潮
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/11 PM10 【印刷用へ】

> その他(幼・少・青・壮・老)
> 74303 意思決定・判断を避ける風潮
> 齊藤直  ( 27 宮城 会社員 ) 04/07/01 PM10 【印刷用へ】
> 個人を原点にする以上、意思決定・判断を自分でしなくてはならないのだが、実はとても精神的にも肉体的にもしんどいことのように思う。

「精神的にも肉体的にもしんどいこと」に同感です。
個人の個性は、未来構文の内容に表れる。82123
意思 (will) も、未来構文の内容である。82057
だが、日本語には、未来構文がない。
構文がなければ、文章にならない。つまり、自分のことでありながら意思の内容を把握できない。
だから、意思決定・判断は、日本人にとってしんどいことである。

> 今の制度収束(公務員志向や資格収束・まじめに授業など)というのは、このしんどさから開放されたいという欲求ではないだろうか。とりあえず、既存のレールに乗っておけば意思決定・判断を回避できるからだ。

意思決定・判断は、責任者の行うべき義務である。98352
英米人が組織に人員を配置することは、責任者を配置することに当たるが、日本人の場合は当番を配置することになる。
当番に責任があることになる。
我が国での責任の所在がはっきりしないことの原因は、98352
一つは、その役割は当人にとって難しいこと。
もう一つには、だれもその役割を期待していないことである。

> 私権獲得のように分かりやすい判断軸もない現状では、自分の内面に答えを探っても疲れるだけなのだと思う。

恣意 (私意・我儘・身勝手) によらず、滅私で働くことは難しい。82735

> これを打破するには、廻りの期待に絶えず応えようとする意識へ転換することに他ならないのだろう。皆の期待こそが羅針盤なのだから、次にすることが明快で判断するまでも無いのだから。

意思のあるところに方法がある。82735
意思がはっきりしないのでは、無為無策となる。82242
意識の転換も難しい。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の中の<”ジャパン・プロブレム”>で下記の段落のように述べています。
 
国際的信頼関係を腐食させる一番の要因は、つまるところ、日本とその同盟国や友好国とされている国との間の、いろいろなレベルで起こる意志伝達上の混乱だろう。なにしろお互いの意見が違っていることを認めあうのすら不可能なのだ。、、、、、日本では、何世紀にもわたり、権力を分け合う半自治的ないくつかのグループの力のバランスをはかることによって、国政がおこなわれてきた。、、、、、、、個々のグループはどれも、究極的な責任は負わない。これら半自律的な <システム> の各構成要素には、国家の権威をおびやかしうる自由裁量権が与えられているが、それらすべてを統率して牛耳るいかなる中央機関も存在しない。、、、、、日本は、世界の中の一国でありながら、国際社会の一員としての責任を果たさないという印象を与えているとすれば、それは首相や他の権力者が政治の場で、ものごとの決着をはかることができないためである。つまり、<システム> のいずれかの構成員による重要な調整を要する通商事項やそのほかの案件などについては、首相も他の権力者も、政治的公約を政策として実行する能力を欠いているからである。、、、、、、だが、公的な立場にある多くの日本人は、伝統的な孤立のほうを好んでいるようにみえる。ややこしい国際政治に巻き込まず、日本はそっとしておいてほしいというわけである。
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どうしたら、社会を変えられるの?
100684 > 無関心は何故に>井上浩美様
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/11 PM02 【印刷用へ】

> どうしたら、社会を変えられるの?
> 3499 無関心は何故に>3485井上浩美様
> 斎藤裕一  ( 37 東京 建築家 ) 01/04/21 PM11 【印刷用へ】
> そもそも現在の国民が政治に無関心でいるのは、貴方が指摘するように「そうしていられるから=関係がない」という面もあるのでしょうが、むしろその事はそう思うしかないと言う状況故のことであり、本当の原因は別のところにあるのではないでしょうか。

「本当の原因は別のところにある」という意見に同感いたします。
日本人には、世界観がないので政治に無関心でいるのだと、私は考えおります。100065

> 現在、自民党総裁選という「首相選び」が行われており、確かに一頃に比べて関心を呼ぶものではあるのでしょうけれど、これとて一般に国民は、遠くから眺めるしかなく、声なき声をもって間接的に関与することが精一杯で、要は政治家自身の「国民の声」に対する「気づき」を待つしかないと言う何とも消極的な関わり方しかできないと言う実体があります。

「遠くから眺めるしかなく」という見方に同感いたします。
傍観者としての立場をとらざるを得ないということですね。94960

> また、仮に誰がなったところで、そもそもその候補者の顔ぶれが、所詮は同じ穴の狢である程度にしかなっていなかったことで、結果の寂しさとともに、ある種の諦観をも強いられることとなります。

誰がなったところで、同じ日本人の考え方ですね。
現実は、否定できませんからね。現実肯定主義と諦観で寂しいですね。93381

> このような状況で国民に関心を持てというのは、いささかやむを得ないのであり、国民の「我が儘」を指摘する以前に、このように関心を失わせるシステムやそこに安住する政治の専門家達の慢心を正すべきではないでしょうか。そしてこのことこそ今の私たちにできる唯一の「政治課題」なのではないでしょうか。

国民にも、政治の専門家達にも恣意 (私意・我儘・身勝手) がありますね。81994
「政治課題」は、日本語のシステムにあるのではないでしょうか。82057

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閉塞の元凶は、個人主義
100529 > 人と人を切り離し遠ざける言葉。
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/08 AM05 【印刷用へ】

> 閉塞の元凶は、個人主義
> 81487 人と人を切り離し遠ざける言葉。
> 小西彰  ( 52 京都 塾講師 ) 04/11/25 PM02 【印刷用へ】
> 小学校の3年か4年の頃の担任が(今思うと)「人権」にとても熱心な先生だったようで、「基本的人権、基本的人権…」とことあるごとに真剣に懸命に言われたこの言葉、実は子供ながらに聞き苦しく聞いたことを覚えています。「人権」は何故に「いかがわしく」「寂しい」のでしょうか。「個人」に立脚しているのに重ねて、もう一つあるように思います。
> 「人権」を始め、旧観念の言葉の特徴として、ある時ある状況ではぴたりとあてはまる言葉であるにも拘らず、普遍性を追求するベクトルをもつことから、際限なく多用濫用されるうち恣意的な意味付けがなされてしまうということです。こうして「人権」には下心(つまりいかがわしさ)が潜みます。

「あるべき姿」は未来構文の内容である。93835
日本語には未来構文がない。82123
日本語を話す人は、無哲学・能天気になりやすい。82879
無哲学・能天気の人間には、政治哲学がない。83747

意思 (will) は未来構文の内容である。82057
日本人には、意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。82735
政治の意思決定が政治家の政治哲学によらず、恣意により行われるのではないかとの不安を有権者は払拭できない。91529
無哲学であれば、「人権」にも下心(つまりいかがわしさ)が潜むことになる。81994
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の中の<”ジャパン・プロブレム”>で下記の段落のように述べています。

普遍的または超越的な真理が日本の思想の中に根付くことは決して許されなかったから、知的勢力が政治エリートの権力を支配したり、くつがえすことは不可能だった。日本の権力者は、知力まで制限 (コントロール) できたのである。実際、これまでどのような法律によっても、彼らの権力が制限されたことがない。こういう次第だから、日本の宗教生活および思想の許容限度を決めるうえで、政治的な方策が決定的な要因となったというのは、決して誇張ではない。

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閉塞の元凶は、個人主義
100507 > 個人主義って欠陥ありますよね。
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/07 PM08 【印刷用へ】

> 閉塞の元凶は、個人主義
> 870 個人主義って欠陥ありますよね。
> 田中素 HP  ( 35 長崎 企画 ) 01/03/06 AM04 【印刷用へ】
> 「自立した個を確立すべき。それができていないから社会がうまくいかないんだ(特に日本では)」という事を良く聞きますが、常々疑問に思ってました。

特に日本は、「自立した個の確立」ができていない社会ですね。
このことについて、疑問に思っていない人は少ないでしょうね。
「自立した個の確立」に関する私の答えは、下記の如くになります。
日本語には、未来構文がない。82242
意思 (will) は未来構文の内容である。82180
それで、日本人には意思がない。82735
自己の発言内容が他と違うことを認められるのは、未来構文の内容においてである。83415
意思というものの存在が容認されていないのでは、個人に属する考え方の個性的内容も認められない。83459
そして、我々の社会の意思決定を誰が行うかを考えることもない。98699
だから、自立した個の確立は不可能である。100479

> 個人主義の根本は、全ての意思決定を「個」の主体性に委ねるっていうことでしょうから、いくら「それは理想の個人主義ではない」といっても、結局1人1人の都合のいいように使われてしまうところが致命的な矛盾なんだと思います。

全ての意思決定を「個」の主体性に委ねるということが、 1人1人の都合のいいように使われてしまうというところは、意思 (will) ではなくて、恣意 (self-will) になるのではないでしょうか。81994
「自立した個の確立」がないので、この国の指導者は、国としての行為という社会的責任に対応できないでいる。6952
小沢一郎さんは、自著<日本改造計画>の中の<いま、政治の改革を>で、以下のように述べています。

「政治のリーダーシップの不在が、結局、軍部の暴走を許し、その結果、我が国が犯した大きな失敗こそが、あの第二次大戦であった。世の中には、我が国が世界に人的貢献をすることは「いつか来た道」を繰り返すことになる、と批判する声が一部にある。しかし実際は、リーダーシップのない、決断できない政治こそ「いつか来た道」にほかならない。もし、決断できないまま、世界に対する人的な貢献もできないで時間だけが流れるのなら、日本は世界から孤立しかねない。「いつか来た道」とは、戦前の日本が英米を中心とした世界の国々との協調に失敗し、国際社会の中で孤立してしまったことである。そのことを忘れてはならない。」

> そういう所に何の疑問ももたずに、アプリオリに正しいものとして色々な制度や社会システムが作られてきた結果が、今の国家財政破綻とか環境破壊とか教育荒廃の現実なんでしょう。

同感です。西洋の猿真似では社会がまともに機能しないですね。
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子育てをどうする?
100479 > 子供の精神破壊
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/07 AM00 【印刷用へ】

> 子育てをどうする?
> 101 子供の精神破壊
> 青野小百合  ( 101 神奈川  ) 01/02/13 AM02 【印刷用へ】
> 子供の精神破壊ー。私はこれは「いじめ」や「少年犯罪」に代表されると考える。
> 近年、核家族化や少子化が進み、そして両親の共働きなども珍しくはなくなった。
> 学校から帰宅しても誰もいなく独りぼっち。
> コミュニケーションをとりたくても、とる相手もいない。
> 現代のような「情報化社会」の産物としてある、あふれんばかりの情報。
> 一体何が正しいのかさえもわからなくなる。
> こんな状況の中では、若者がいつのまにか自分を見失ってしまうことに無理もないとも思う。
> 極端なことを言えば、大人は子供の動きをしっかり把握して見ているべきだと思う。
> 積極的にコミュニケーションをとるべきだと思う。
> そして、子供一人一人の個性を大事にして、その個性を育ててあげるなり、延ばしてあげるサポートをするべきではないだろうか。

自己の個性的な発言を容認され評価される人間は、個人の自由を認められている人間である。90638
個性的な発言は、未来構文の内容にある。現実構文 (現在構文) の内容にはない。94775
日本語には、未来構文はない。だから、日本人の発言内容は没個性的である。83909
また、意思 (will) の内容も未来構文で表すから、未来構文のない言語では自発性も抑えられて、生徒はおとなしい。100430
個性的な考えを伸ばすには、未来構文のある英語のような言語を使うことが必要である。94200
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の中の<<システム>に使える人びと”ジャパン・プロブレム”>で下記の段落のように述べています。

日本の教育の目標は、英語の education という言葉の原義 “精神の諸力を生み育てる” から遠くかけ離れており、単に事実情報を伝えることにとどまっていると思われる。生徒に合理的に考える能力を練磨させるどころか、日本の教育制度はこのような目標には冷淡である。自発的に行動することは、ほぼすべての学校で組織的に抑えられてしまう。独創性に対する許容度が低いのである。生徒は、論理的に思考したり、当を得た質問を------いや、実際には、どんな質問もいっさい-----しないよう教育される。逆に、丸暗記に重点がおかれる。だから、日本で “”成績がいい” 学生の頭の中には、膨大な量のデータが詰まっている。

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序列統合下の私権闘争
100430 > 日本の社会統合の出発点
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/05 PM10 【印刷用へ】

> 序列統合下の私権闘争
> 32310 日本の社会統合の出発点
> 野田雄二  ( 39 大阪 営業 ) 02/05/30 PM09 【印刷用へ】
> 今の日本の政治も、総理や大臣の権限は成文化されていても、自民党内の権力ヒエラルキーや権限が明確でなく、意思決定が非常にあいまいであり、自民党総裁の選び方も毎回変わっている等、聖徳太子の時代から、あまり進歩していないのかもしれません。

意思は、個人により別々である。100239
意思がなければ、個人の別にも意味がない。100400
意思 (will) は、未来構文の内容である。82057
日本語には、未来構文がない。82476
従って、我が国では責任の所在も、その意思決定もあいまいである。99524

自分に意思がないのに、行動に出ることは難しい。93494
だから、日本人はおとなしい人間である。84361
他人から指図されて行動するのでは、させられ体験をともなう。98352
万事、受身の姿勢は、あらゆる不始末に対する被害者・犠牲者が続出する。82242
自発性を持たせるには、訓練・調教が必要である。92478
気合・掛け声とともに行動に踏み切らせる練習である。91933
それもうまく行かなければ、根性の方を鍛える。99101
「頑張って」の掛け声は、日常の挨拶にもなっている。95232
このような場合に英米人は、何と言って挨拶するのであろうか。
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
100288 > 教育者は要らない
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/03 PM04 【印刷用へ】

> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 3960 教育者は要らない
> 斎藤裕一  ( 37 東京 建築家 ) 01/05/09 PM11 【印刷用へ】
>>‘数’の中に潜むある‘美’を求めているんだ。それは図形の美しさや数列の美しさ、それらは自然界の美ともいえる。
>>理屈はいい。それよりも本当に良い美しいものを創りなさい。3949

数の芸術ですね。

> この様なことは本当に正しいと言えるのでしょうか。私は上記のような発言は、「美」という抽象且つ専門的・特権的価値観でもって論理的闘争に蓋をするものだと思います。

芸術は、非言語の活動ですね。論理的闘争は、言語活動ですね。99945
両者は、分けて論ずる必要がありますね。98872

> 例えば建築というものは、徹底的に観念的な作業により成立するものです。もちろん単に美しいだけのものが喜ばれるものでもないでしょうし、機能だけというものでもありません。当然の事ながら、その様な様々な視点を総合し、自然に対する認識や社会に対する洞察を全て駆使して実現する極めて社会的な行為なのであり、その様なことは感覚的な検証も含めてより観念的になされねばならないものです。理屈が要らない等とは、仮に屁理屈に対する戒めであっても言うべき事ではない(と言うより、間違っている)のだと思います。

「理屈はいらない。見れば分かる」は、芸術の世界で通用する言葉ですね。99912
非言語の活動における日本人の問題は少ないのではないでしょうか。95706
つまり、非言語活動をする日本人は、国際的にも活躍できるということです。

> 問題は、この様なことを発言したとしても何ら審判を受けることなく、大いなる可能性を有する若者に、自らの思いこみだけを刹那的に吹き込む教育者が多く存在していることであり、その様なことはもはや犯罪と言わざるを得ないのでしょう。社会と接点がないと言うことは、そういうことであり、彼らが何の審判も受けない特権階級であることを意味しているのだと思います。

次に、言語活動についてですが、日本人には議論ができない。84361
だから、日本人から審判を受けることなどありえないでしょう。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の中の<リアリティの管理>で下記の段落のように述べています。

矛盾を目前にしての精神的な麻痺、つまり矛盾を知覚すらしなしという状況がある。そのおかげで特権階級はそれ以外の人びとにたいして思いどおり力を行使できる。日本の典型的な状況に存在する服従と支配の力学は、実際には理不尽でありながら同時に表向き理に適っているかのように見せるということと密接に関わっている。このことが究極的に表れているのが禅問答である。師は意味不明の答えで弟子を困らせ、弟子はしまいには知的な防衛をあきらめて、師のまったく勝手きままな権威に服従してしまうのである。

> そもそも教えると言うことの役割を彼らはどのようにして得たのでしょうか。高等学校以下は教員試験により、大学においては研究成果によりその様な資格が与えられるのでしょうけれど、その様な過程は評価者と被評価者が結果としてほぼ同じ職種に収まると言う「身内の評価」に過ぎないものであり、教えられる側や、将来的に彼らを様々な形で受容れる一般市民の評価が全く介在していないことをどのように考えればよいのでしょうか。

そうですね。「身内の評価」は、同次元序列による評価でしょうね。83909
おなじみの横並びの比較ということになりますか。82942
一般市民の評価が全く介在していない所でのつばぜり合いですね。

> 現代社会の固定観念や、個人主義などは当掲示板でもその問題が多いに指摘されているものでありますが、そのようことを広く国民に吹き込んできたのは、彼ら専門の教育者である事は、疑いようのない事実でありながら、彼ら自身がその事を反省しているということなどは未だかつて聞いたことすらありませんし、彼らが主張する学門や近代思想の正統性などはそのこと自身が大いに怪しいと言うことになるのでしょう。

大いに怪しいですね。英文和訳など当てにならない。異訳か違訳でしょう。82320

> 以上のように、教育者が不要である理由を挙げればきりがないのですが、最も端的に言えば彼らこそが国民を駄目にした犯人であるということなのです。

教育体制にしても、政治体制にしても、分析が難しいですね。
政治体制について、カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の中の<日本語文庫新版への序文>で下記の段落のように述べています。

政治体制は、それを動かしている個人とは別個の存在として見ることが必要である。こうした個人がこの体制を作ったのではないし、個人がそれを変えるべきだとは思われていないし、したくても多分できないだろうから、個々人は直接的に体制の性格には責任がない。
このアプローチをとるのには、別の重要で実利的な理由がある。もし、特定の個人やグループを名指して”悪い”とか”間違っている”とか”道徳上の罪を犯している”とか非難したりせずに、政治体制を全体として分析できないのなら、どんな社会でも権力行使のされ方を変えたり、ましてや改善することはまずできそうもない。なぜなら何らかの重要な制度について道徳家風に語ると、必ず個人的に批判されていると感じる人がたくさんでるし、そうなれば人びとは徹底的な分析を行ったり、あるいはそれを受け入れるのを思い止まってしまう。
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閉塞の元凶は、個人主義
100260 > 曖昧な権利
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/03 AM08 【印刷用へ】

> 閉塞の元凶は、個人主義
> 210 曖昧な権利
> 岡村基之  ( 22 東京 学生 ) 01/02/16 AM01 【印刷用へ】
> 学校にいる時に、「自由にしよう!」と、何に対しても自由を要求する人間がいたはず。いったいそういった連中は要求する自由という権利を得るために発生するどんな義務を遂行してくれたでしょう?自分勝手と自由は当然別のものです。
> たいていの場合、そう言った連中の指す自由というのは自分勝手に振舞う事、つまり無秩序であった事が自分の経験上ほとんどでした。
> 無秩序というのは、そのまま混乱に繋がります。政権という秩序がなくなる、あるいは不安定な物になってしまう事によって人間は戦争を繰り返してきました。99912
> 最低限守るべき義務を果たさずに権利を求めるのは不条理というもの。その先に待っているのはカタストロフィ、破滅に他ならないと思います・・・。

我が国は、先の大戦に敗れたがためにアメリカの同盟国となった。97911
だから、アングロ・サクソンの世界観に共鳴して彼らと手を結んだわけではない。同床異夢の関係にある同盟国である。82373
彼らの世界観から繰り出される要求は、現実構文だけを使用した「世の中は、、、、」一点張りの考え方だけでは対処できない。100065
個人の自由は哲学的な問題で経験的な調査により結論の出るものではない。99987
無哲学・能天気の国民には、受け入れがたい命題である。90706
だから、この国における自由の履き違えも避けられない。84743
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
100239 > 新学習指導要領に関して
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/11/02 PM11 【印刷用へ】

> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 2927 新学習指導要領に関して
> 斎藤裕一  ( 37 東京 建築家 ) 01/04/07 PM10 【印刷用へ】
> まず、現在言われている「ゆとりの学習」なるものは、1987年の臨教審答申における「新学力観」なるものが発端です。当時受験戦争の弊害が数多く指摘される中で、「知識」より「興味、関心」を求めるよう方向転換を提言したものですが、その後教育現場においては、教師の対応が混乱したこともあり、現実には、むしろ管理教育を再強化するほどになってしまった経緯があります。

日本の教育は、はっきりした個性を持たずに、まともに考えることすら出来ないで、自分で判断もできない型にはまった人間を作ってきました。このようにして作られた教師であるがゆえに、「ゆとりの学習」への対応が混乱するのは当然であります。ひよこが先か卵が先かという問題に似ていて、自分の知らないことは生徒にも教えることができない。
理性がなければ、まともに考えることは出来ない。92993
個人主義がなければ、自分で判断もできない。82123
他人と異なることには報酬がない。こうした状況の中で自分の身の安全を計るには、型にはまった行動をとるしかない。
管理・調教により「新学力観」に関する責任を逃れる。
といったような具合で、以上のような条件下にある教師は個性的でない。95232
これは、根の深い日本人問題です。99864
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