精霊信仰=観念機能の成立過程
100065 > 花見と天皇(日本的なもの) 上
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/30 PM09 【印刷用へ】
> 精霊信仰=観念機能の成立過程
> 3118 花見と天皇(日本的なもの) 上
> 今井靖明 ( 29 長野 営業 ) 01/04/12 AM01 【印刷用へ】
> 「サクラ」とは「神々のいますところ」といった意味であったようですが、日本人の超越存在(神佛)との関わりのもち方が、花見という文化に投影されているのでしょうか。西洋的な「ただひとり神の光の御前に進み出ずる」とでもいうような姿勢とは、全くもって異質な世界観に(花見を好む)我々は生きています。
日本語には、時制がない。だから、現実構文 (現在構文) しかない。
現実構文の内容は、目先・手先のこと以外にない。
もしも、それ以外の内容があるならば、その内容は現実無視によらなければならない。
現実無視は現実構文に雑念 (未来構文の内容、あるいは過去構文の内容) を混入することにより起こる。
だから、日本人には現実直視は難しい。
日本人に哲学的思索も難しい。
現実離れのした内容は、人々に信じられない。
観念は、現実構文の中に入れられると事実と混同される。
観念は、ナウな考えを阻害する雑念である。
だから、現実構文だけを使うと、空理空論は避けられない。
観念は、現実構文の世界では、嘘・偽りとなる。
観念を述べる人は、人心を惑わす不届き者となる。
英語を使うと、あらゆる内容が現在、過去、未来と時制を変えた三通りに書ける。
つまり、独立した三つの世界を頭の中に仕舞っておくことができる。
現実だけが世界であれば、「世の中は、、、、」で終わりとなる。が、複数の世界が考えられるとなれば、各種の世界観というものが考えられる。
現在と未来の有様を鏡像として並べて、未来の有様をより良いものに少しばかり置き換えて楽しむことも考えとして可能である。
このような考え方に基づいて自己の意見を述べるならば、自己の考えた「あるべき姿」が空理空論となることはない。
欧米人は、このようにして世界観を持つ。日本人は世界観を持たない。
世界観に基づいた確信を持つ欧米人を相手に議論しては、話が合わない。
日本人には歯が立たない。世界観の考えは日本人の世の中を危うくするものと考えられます。
だからでしょう、「”危険思想”とは、主にキリスト教とマルクス主義者の世界観から出た思想のことである」とカレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は述べています。
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実現論って、何?
100053 > 「絶対」なのは事実の追求
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/30 PM02 【印刷用へ】
> 実現論って、何?
> 100029 「絶対」なのは事実の追求
> 西田香織 ( 31 東京 自営業 ) 05/10/30 AM00 【印刷用へ】
> 人は、選択をしなければならない岐路に立つ事が必ずある。進学、就職など。。その際の基準(価値判断)が、現在はぐらぐら。。。規範⇒私権に基づいた価値判断は、すでに潜在的に望む答え(基準)として、みんなの共認を得られなくなっている。。。(高学歴、高収入等を判断基準にした選択など)旧観念に支配された世の中が行き詰まり、誰も「こうだ!!」って答えを出せていないのに、いつまでも旧観念の中をほじくり回しても、すっきりしない。
観念は日本語の内容には馴染まないようですね。99987
>>だから新概念には旧観念的な意味での「答え」はない。それは答え=実践方針を発掘していく「道具」なのである。(38152)
実践であれば、目先・手先の内容として、現実構文の内容 (日本語の文章) にもなりますね。95706
> 旧観念である個人主義、自由、平等などは、それが、(普遍的な)絶対の答えとして共認されていた。新概念は、答え(実践方針)を発掘していく道具。だから、置かれる状況(外圧)が変われば、そこでいったん出た『答え』は、新たな『事実』によって変化する。新概念は、歴史を遡り、社会の仕組みを構造化して、どうしてそうなったのか?を提示しているので、とてもすっきりする。「事実こうなんだ」と見せ付けられたら、個人の価値観(良い悪い)はどうでも良くなる。そこでいくら個人の価値に拘っても、その『事実』には太刀打ち出来ない。
「理屈などはどうでも良い。見ればわかる」といったところですか。99912
「日本は勝つ」という内容を頭の中に叩き込めば、「日本は負ける」という事実は消えてなくなる。99649
現実構文ばかりの言語では、現実直視は難しい。雑念が混入するからです。95419
>>その場合、例えどんな仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理整合していれば、私はその仮説をいったん事実として認めます。もちろん、いったん認めた事実に反する現象事実が出てくれば、皆さんと共に速やかにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替えてゆきます(967)
論理の整合性は必要ですね。同感です。98056
日の下に新しきものなしではありますが、我々には新事実を組み込んだ考えを発展させてゆくことが大切ですね。93309
これが人類の進歩ですね。99510
> 仮説なのに事実として認めちゃっていいの??と思っていたが、これも固定概念。仮説を立てる背景には、『とことん事実を追求する』という過程があり、『絶対』なのは、その追求した事実だ。『絶対の答え』程、怖いものは無いと思う。「こうあるべきだ」「こうしなくてはいけない」ではなく、『事実どうなのか?』が、考える事。そして、何かを選択する時は、みんなを羅針盤にする。それも、みんなの事実を照らし合わせる事。
みんなの事実を照らし合わせる事は、事実誤認を避ける方法になりますね。82123
何かを選択する時にみんなを羅針盤にすると、個人的な意見の違いはどうなりますか。84432
『とことん事実を追求する』ことは、非常に難しいことですね。84116
日本人には、正直ぶることが許されるからです。これも、雑念によるものか。82476
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の中の<リアリティの管理>で下記の段落のように述べています。
本音と建て前の使い分けは日常的におこなわれ、普通、日本社会の良い面とはされないまでも、そのことの倫理的な是非は問われない。しかし、この使い分けが、ある考えの枠組みを生み、いろいろな欺瞞が社会的に容認される素地ともなっている。日本人は、西洋人に真似できないほど自分のまやかしについてあっけらかんとしている。
日本人には、その不正直さを叱られる恐れなしに正直ぶることが許されているのである。ある人類学者のことばを借りれば、こうなる。「真実は、、、、、そのときどきの状況における相互作用に依存するものである。、、、、、日本人は、明らかに矛盾するいくつもの事柄の存在を、ひとつの真実のもつさまざまな側面として受け取る傾向を示す。彼らは一貫性にこだわることがほとんどなく、厳密な論理にこだわる人を理屈っぽい、すなわち”理屈好きのかわりもの”と見なしがちである」。
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どうしたら、社会を変えられるの?
100001 > 現実社会との乖離
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/29 PM09 【印刷用へ】
> どうしたら、社会を変えられるの?
> 3127 現実社会との乖離
> 武田早織 ( 21 東京 学生 ) 01/04/12 PM05 【印刷用へ】
> 井上さんのおっしゃる通り、現代の報道には濃い色が付いていると思います。しかも、それは偏りがちです。国民は政治に関しても経済に関しても、また芸能関係においても報道に左右されているというのが実状だと思われます。しかも、国民自身の左右されているという意識が薄いのではないでしょうか。いわゆる「マインドコントロール」です。自分では意識しないうちにコントロールされている状態です。
日本人には、「マインドコントロール」が必要なのでしょうね。上意下達の精神です。95237
我々は、大官の情報操作により生かされているのでしょうね。99232
自主的な考えが出ないということは、情けないことです。82144
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニーは、<人は城、人は石垣>の中の <日本文化のエコロジー> で次のように述べています。
座談会を必然的に普及させ、結果的に大官の大衆支配を培養しているのは、日本社会に深く根ざした問題、話し合いの願望である。日本の村落民社会は都市に移動するにつれ、古くからの必然性を満たすため、新しい環境に対し種々の適応を行った。、、、、村の長老からもはや着実な指導が得られなくなった大衆は、巨大なコミュニケーション産業が提供するビン詰、缶詰のアドバイス、お叱りをすぐにひったくる。、、、、、最高にうまくいった場合、大官からの絶え間ないアドバイスとコミュニケーションの洪水は一大家族社会の意識を強化し、種々のテーマに関し意見一致の方向に国民を導く。最低の場合、近代テクノロジーがほとんどどの社会にも脅威を与えている強烈な野次馬根性を養う。
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その他(社会統合)
99987 > 課題分断の間で:福沢諭吉考
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/29 PM04 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 30166 課題分断の間で:福沢諭吉考
> 田中令三 ( 45 香川 総務 ) 02/05/06 PM08 【印刷用へ】
> 福沢諭吉は、その著「文明論え概略」の緒言でこう書いています。
> 具体的に言えば漢学〜蘭学〜英独学等への変遷を混乱の極みと否定的に受け止めるのではなくこの江戸最終末から明治初期に生きた者だけが経験出来る好機・僥倖と捉え漢学を修めた目で蘭学・英独学等を検証し又蘭学・英独学等を履修した目で漢学及びその体質の染み込んだ日本を検証し実際の生活に役立つ学問・知識(彼はこれらを実学と呼びその他の空理空論を排斥しました)だけを世に広めようとしました。そしてその結果としての日本国の富の増大=国民一人一人の富の総和の増大を目標としたのです。
日本語には、時制がない。だから、現実構文 (現在構文) しかない。
現実構文の内容は、目先・手先のこと以外にない。
もしも、それ以外の内容があるならば、その内容は現実無視によらなければならない。
現実無視は現実構文に雑念 (未来構文の内容、あるいは過去構文の内容) を混入することにより起こる。
だから、日本人には現実直視は難しい。
日本人には哲学的思索も難しい。
現実離れのした内容は、人々に信じられない。
観念は、現実構文の中に入れられると事実と混同される。
観念は、ナウな考えを阻害する雑念である。
だから、現実構文だけを使うと、空理空論は避けられない。
観念は、現実構文の世界では、嘘・偽りとなる。
観念を述べる人は、人心を惑わす不届き者となる。
英語を使うと、あらゆる内容が現在、過去、未来と時制を変えた三通りに書ける。
つまり、独立した三つの世界を頭の中に仕舞っておくことができる。
現在と未来の有様を鏡像として並べて、未来の有様をより良いものに少しばかり置き換えて楽しむことも考えとして可能である。
このような考え方に基づいて自己の意見を述べるならば、自己の考えた「あるべき姿」が空理空論となることはない。
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心の本体=共認機能の形成過程
99945 > 身分序列 と能力序列
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/28 PM08 【印刷用へ】
> 心の本体=共認機能の形成過程
> 2825 身分序列 と能力序列
> 北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 01/04/05 PM05 【印刷用へ】
> 人類の封建時代は固定身分の序列社会です。また市場社会は資本(金)の集積が生みだす序列の社会です。(但し封建時代と違って市場では完全固定ではありません。但し官僚などの、身分に基づく序列も残存しています)
「上と見るか、下と見るか」の判断は、とりわけ日本人にとって重要である。82023
それは、日本語に階称 (言葉遣い) があるからである。93729
世俗の上下関係を知らなくては、正しい日本語も話せない。97858
> 考えてみれば人類のいわゆる文明時代(原始時代除く)はこの序列による力の原理に支配されていたといっても過言ではありません。そしてこの身分序列は現在でも統合階級(マスコミ・学者・官僚等の社会統合に携わることを職業とする階層)とそれ以外の人間と言う形で見事に生きています。だから現在の「万人は平等」などという観念はこの現実から見ても嘘なのです。
現実は、現実構文の内容である。99864
観念は、人の頭の中です繰り出されたものであり、現実構文の内容ではない。99864
つまり、現実構文 (日本語) を基準に取れば、現実の内容は本当であり、観念の内容は嘘である。94682
> そしてこれらの序列は能力そのものではなく社会身分として半固定化されている事実に改めて注目すべきでしょう。
日本語には階称があるので、成員の序列は固定されやすい。93729
それで、日本人の社会の基本構造は、イエ元制度の形態を成している。99010
中国語には階称がないので、社会の隅々にまで序列観念が浸透することはないのであろう。
家長が親会社の序列に連なれば、家長の下の家族は子会社の序列のようなものになる。
それで、日本国中の人間が上から下に連なる関係を持つことになる。94416
日本国中、一族郎党のような心理状態になる。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<抱き込みの包囲網>の中で「イエ」について以下の如く述べている。
日本の場合、社会的なヒエラルヒーと政治的なヒエラルヒーが一致していた。中国では、家族の成員であるかどうかを決めたのは血のつながりで、儒教のいちばん大切とされる「孝」が、皇帝や国家に対する政治的忠誠より重要なものとされていた。それに対し、日本では「イエ」に政治的重要性があった。その成員としての基本的条件は、仕事の分担であり、血縁関係は必要条件ではなかったのだ。家長の座の継承も、養子縁組によってなされることも多かった。徳川政権が、「イエ」をその政治機構の基本単位にしたことは重要である。その結果「イエ」は、公的に認められた家長の力に従わざるをえない財産所有権のない成員で構成される企業のような組織となった。中国では国家に対立して存在した「イエ」が、日本では、このように、国家に吸収されてしまった。
> しかしそのこと(序列共認が「文明人」の場合は半固定の社会的身分に転化したこと)と能力ヒエラルキーを否定することとは別物だと思います。
世界ランキングのようなものですか。能力ヒエラルキーは大切ですね。95232
文明人の場合は、言語活動に関する能力ヒエラルキーに着目すべきです。99782
知的能力に着目すれば、リーズナブルな政治指導者を選出することも可能になります。83749
> 確かにサルの序列闘争は性闘争を下敷きにし、自我によって加圧されている構造です。但しそれを能力序列として共認することで個体間競争を前向きに生かしているという見方も可能です。
非言語活動に関する序列ですね。98872
> 少なくともどうもサルの中でも種間闘争を勝ちぬいた種は、この能力共認を組織原理の中に組み込んだ種です。
自然界の適者生存 (the survival of the fittest) でしょうね。91416
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その他(国家時代)
99912 > 「担がれ上手」
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/28 AM11 【印刷用へ】
> その他(国家時代)
> 25332 「担がれ上手」
> 清水健作 ( 20代 大阪 塾講師 ) 02/03/01 PM00 【印刷用へ】
> 特に、室町幕府においては南北朝争乱の混乱に乗じて「守護大名」なるものが発生し、将軍は地方のことについてほとんど口をはさめなかったし、世継ぎも将軍の一存では決められず、管領職についている大名達の同意がないとだめでした。
> また、将軍が独裁的に権力を行使しようとすれば、必ず不幸な最期を遂げてしまいます。
管領職についている大名達は、お互いに相手の権力の増大を望んでいないからでしょう。
こうしたお互いに相手の手を押さえあった三すくみのような状態は、我が国内においては今も昔も変わらない。
こうした閉塞的な状況が、たとえ国がひっくり返る状態になっても、日本人に心理的な安定感を与えているのではなかろうか。カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<とらえどころのない国家>の中で下記の段落のように述べています。
戦時中の日本人は、ヒットラー、ムッソリーニ、チャーチル、ルーズベルトらが握っていたような権力にはるかに及ばぬ程度の権力ですら、だれか一人の人物 (あるいは一政府機関) に与えることはなかった。戦争が終わりに近づいても、戒厳令をしけば日本の総力防衛に必要な権力が得られたであろうに、政府は戒厳令を発動しなかった。「理由の一つは、指導的エリートがだれも、他のエリートの権力が増すことを望まなかったからである」。
> では、将軍は何もしない方が良かったかといえばそうでもないみたいです。
> 例えば「足利義政」は極端に政治権力を嫌い、「能」に代表されるような芸術に没頭し、さっさと隠居を決めこんでしまいました。 が、しかし彼のこの態度が後に「応仁の乱」を起こすきっかけとなり足利将軍家を滅ぼすことになってしまうわけです。
無為無策では、政治はできませんね。82242 この国においても歴史は何回となく繰り返しています。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<とらえどころのない国家>の中で下記の段落のように述べています。
今世紀初頭に始まった中心的政治権力の消失現象は、1930年代には、日本をもうだれの力でもひきもどせないところまで漂流させていた。そして、狂信的な陸軍の中間クラスの将校に、国を”乗っ取る”(ハイジャック)機会を与えることになったのである。1931年9月、日本の関東軍の小部隊が奉天の中国軍守備隊に攻撃をかけ、それをきっかけとして、満州征服が開始された。関東軍のこの途方もない反抗的独走を東京の政府がとがめなかったので、陸軍は思いどおりに事を進めてもよいと取り、勝手にみずからの発議で満州国という傀儡国家を発足させた。この狂信的な将校による脅迫行動は、日本を、真珠湾へ、そして広島へといたる道を歩ませることになる。
> 鈴木さんの仰るように、将軍家や天皇家などは、>>権力者には「担がれ上手」でないとなれないという歴史<<> がはっきりと存在すると思われます。
> またこのことは>>必然的に権力の二重構造を生む<<> わけです。日本民族にとってなぜこういった構造がベターとなるのか?
日本人は、個人の構想に着目することができない。個人の構想は、実況放送の内容でもなく現状報告の内容でもなく、現実構文の内容に相応しくないからです。 信用ならない内容であるということになります。あくまでも、日本人は個人構想のない現実支配を受け入れる態度を示しているようです。「理屈はいらない。見れば分かる」といったところか。98056
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閉塞の元凶は、個人主義
99864 > 自我について
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/27 PM06 【印刷用へ】
> 閉塞の元凶は、個人主義
> 1119 自我について
> 平井康文 ( 22 奈良 教育 ) 01/03/09 PM05 【印刷用へ】
> 自我は個人主義と深くかかわっており、個人主義が欠陥を持つ思想であることは理解できる。しかし、個人主義が間違っているからといって、自我までが否定されようとしていることに違和感を覚える。
自我とかエゴってそんなに悪いものなのでしょうか?むしろ、大切なものではないのでしょうか?
自我とは、自分の考え・想い・欲望・価値観など、要するに自分自身であると思う。
「あるべき姿」の中身は、未来構文の内容である。93381
真理は、「あるべき姿」であり、未来構文の内容である。83415
日本語には、未来構文がない。99804
それで、未来への思いはばらばらな単語により表される。歌詠みのようなものか。気分・雰囲気に酔いしれる。82144
未来構文がなければ、未来に関する内容もない。92540
意思 (will) は、未来構文の内容である。日本人には、意思がなくて、恣意 (self-will) がある。97183
恣意 (私意・我儘・身勝手) の表現に構文は必要ない。小言・片言・独り言で間に合う。94865
欲望やきまぐれな考えは、恣意である。84027
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落の如く述べています。
超越的な真理を認めない政治的文化の本質を西欧人が理解するには、なみはずれた知的努力がいる。この努力は、本格的な日本研究においてさえ、ほとんどなされていないのが実情である。西欧の知的・倫理的な伝統は、普遍的に通用する何らかの信念があるという前提に深く根ざしているので、このような前提を欠く文化がありうるとは、とても考えおよばない。西欧では子供を教育するのに、人間の欲望や気まぐれな考えとは関係のないところに宇宙を支配する究極的な論理があるという前提を、それとなく教え込むのが、暗黙のうちに了解されている一般的な慣行である。この大前提は、大人になってもたえず確認されつづけるので、欧米人は当然、先進文明社会のすべてにこの普遍的な真理という概念が発達しているものと思い込む。だから、それが存在しない場合にはどうなるかなどとは、あらためて考えてみようという気にすらならないのである。
たしかに日本人には普遍的な倫理観念はないが、その代わり、個別にそれぞれに応じた倫理規範があるとか、日本人には普遍的な価値観がなく個別の価値観を持っているとかいうことは、日本についての文献によく書かれている。だが、多くの場合、もっと表層的な事象を取り扱う今日の社会科学上の特徴と混同されていて、日本人の行動を解明する手掛かりとして、一貫して活用されてはいない。ほとんどの著者が、日本人はおかれた状況に合わせてたえず自分の考えや信念の調整をおこなうと一応は書くが、このことの重要性についてはまったく気づかないかのように、さっさと次のトピックに移ってしまう。
> 実現論は言う、「固定観念を捨てろ・事実を追求しろ」と。
確かに、固定観念や常識に惑わされることなく、曇りのない眼で現実を直視し事実を見極めることは大切であり必要であると思う。また、自我が私権闘争を生み出す要因であることも理解できる。97183
事実・現実は、現実構文 (現在構文) の内容である。82057
観念は、考えられた内容であり、現実構文の内容には馴染まない。98892
観念を現実構文の内容に混入すると、その分だけ、現実を直視し事実を見極めることが妨げられる。99649
観念は雑念だからである。82476
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どうしたら、社会を変えられるの?
99804 > 政治の責任って?
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/26 PM08 【印刷用へ】
> どうしたら、社会を変えられるの?
> 3182 政治の責任って?
> 井上浩美 ( 22 大阪府 ) 01/04/14 AM00 【印刷用へ】
> みんな尤もなことを力強く語っていたが、この人にかけてみよう、と思える人がいなかったのは私だけだろうか。政治家の責任=自民党の責任なんて豪語していたけれど、自民党ってそんなに偉いのかって思ってしまった。誰もそんなに自民党に期待してないし、今までの政治体制を一新できるなんても思っていない。結局また、いたちごっこの繰り返しになってしまうように思えてならない。
いたちごっこの繰り返しですね。同感です。
今までの政治体制を一新する方法を私なりに考えてみました。
少々前置きが長くなりますが次の通りです。
英文の‘I go.’(私は、行きます)と’I will go.’(私は、行きます)は日本語では区別がつかない。それは、日本語に未来構文がないからである。
'I has gone.' (私は、行きました)と 'I went.' (私は、行きました)は日本語では区別がつかない。それは、日本語に過去構文がないからである。
‘I go.’, ‘I went.’, ‘I will go.’ は、それぞれ独立した別世界の出来事で、お互いに干渉しない。
日本語には、時制がないので、現実構文 (現在構文) ばかりの言語であるといえる。83281
現実構文の内容に表れる他人との違いは、事実誤認の疑いが強い。82180
だが、個人の考えは未来構文の内容に表れる。
日本語には、時制がないので、いうなれば現実構文 (real tense) ばかりの言語ということができる。82476
こうした事情により、英文和訳に頼っていては日本人には英米に関する理解が得られない。
つまり、時制のない日本人の考えを駆使しても、時制のある英米人の考えには到達しない。
だが、我々が英語を学ぶことにより、哲学が可能になります。82320
そうすれば、政治哲学、歴史哲学、科学哲学など懸案の課題に対する答えが出せるようになります。97858
我が国における英語の普及は、親の代、子の代、孫の代の三代をかけても成し遂げるべき我が国の最重要の事業だと考えます。
日本人は、現実の世界にのみ気を配っているので、この世を支配すれば世界は思いのままに動かせると考え勝ちである。だか、これは大きな誤算である。84047
日本人の自己意識、どんな社会のありようを望むか、いかにしてその社会を実現するかなどといった内容は、個人の頭の中にある内容である。実況放送の内容でもなければ現状報告の内容でもないから、現実構文の内容ではない。現実離れがしていて日本人には信じられない内容である。82354
発言者によって内容が左右されるのであるから、個人主義がなければ、周囲の人間が自分と異なった内容を容認することは難しい。
そして、日本には個人主義がないので、ある特定の意識、ありよう、実現のパッケイジを一個人 (指導者) の人格 (属性) に関係付けて考えることが難しい。個人選びが難しく、終わりのない話し合いになる。国の中心に有効な (政治) 指導者も見出せない。82123
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への結び>の中で、我が国のほぼ全面的な制度麻痺を起こしている現状に関して下記の段落のように述べています。
この問題を単に「指導力の問題」であり、その原因は選良の最高位にある現在の国会議員たちの政治意欲が弱いからだと片づけてしまってはいけない。原因はまったく別のところにある。日本の政府省庁は実質的に最終的な責任をとれる統治機関としての体をなしていない、ということこそ理解されるべきである。政府とは、国益のために必要な決定を行う権利と義務を託された国政の中核であり、日本の市民が影響力をおよぼしたいと望めばそれがかなう中枢でなければならない。日本で実際の行政機関の調整が内閣レベルで行われることはなく、総理大臣にもすべての統治機関に君臨する力は実質的にはない。
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なぜ勉強しなければいけないの?
99782 > 教育制度の改革
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/26 AM03 【印刷用へ】
> なぜ勉強しなければいけないの?
> 1701 教育制度の改革
> 木橋哲夫 ( 45 東京 建築家 ) 01/03/19 AM02 【印刷用へ】
> 「educe」とは、“引き出す、推論する”という意味の他動詞である。これが、「education」となると、日本語では“教育”となる。日本語訳上の不可解さは一旦置いておくとして、“教育”というのは本来、“教える側が、教わる者のいい点を引き出してやる”と言う意味合いで考えられたものではないのだろうか。
同感です。
> しかし、今では近代社会以降における急速な科学技術の発達とともに、等比級数的に増えていく“知識”を追いかけるだけ・詰め込むだけの教育が当たり前化している。そこでの最大の問題は、固定観念化した過去の学説、ドグマ化した歴史観、魅力のない解釈などが大量に教わる者に注入され、新しい問題に創造的に取り組んだり、新しい知識を獲得させたり、教わる者の能力を生き生きと伸ばすことを妨げていることである。各種の古い固定観念を強く植えつけられた教わる者は、それを通じてしか現代社会を見ることができなくなり、現実社会との間に生じるずれの中で次々と不適応化していくのである。
不適応の原因は、日本語そのものにあるのではないでしょうか。99693
> もはや、富国強兵を目指す一貫で整備された義務教育を始めとする現在の教育制度は、その使命を終えたといえるのではないだろうか。今後目指す方向として、画一的な教育制度を廃止し、教える側の教育理念を、教育を受ける側の評価により自由に選択できる学校制度とすることを提案する。教えることに腰砕けになっている学校は大衆評価で淘汰され、まともな子供に育ててくれる学校が残っていくことになるのであろう。
我々の考えは言語を使ってなされます。
良い考えは、言語活動の成果であります。95706
考えの内容に良い成果を期待するには、良い道具としての言語を選ぶ必要があると考えます。95287
日本語による考えの欠点は、同次元序列の比較しかできないことにあると考えられます。83909
同次元序列の比較を可能にするには、画一的な教育制度が必要になります。83459
英米には個人の理性を育む教育機関が多数ありますが、日本人の横並びの比較には適していません。83415
今日の地球は英米の世の中であるにも関わらず、現実の国際社会との間に生じるずれに適応できないのは、我々の言語事情があると考えられます。98352
我々の言語事情を改善しないと、解決策も進展しませんね。94200
「世界にあって世界に属さず」でしょうか。98123
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なぜ勉強しなければいけないの?
99693 > 勉強嫌いの子供たちへ
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/10/24 PM08 【印刷用へ】
> なぜ勉強しなければいけないの?
> 1674 勉強嫌いの子供たちへ
> 坂井コータロー ( 20 大阪 学生 ) 01/03/18 PM00 【印刷用へ】
> 現代の教育は「使命感」や「価値観」といった物を全く教えないで、ひたすら「知識」や「スキル」を叩き込むことに集中しています。これでは本当の人間の教育ではないと思います。だからこそ、今の子供は勉強に対してどこか虚しさを覚えざるを得ないのでしょう。
同感です。「知識」や「スキル」だけでは、知的な生活は送れないでしょうね。82320
猿回しに使われるサルのような生活になるのでしょう。92478
これでは、本当の人間の教育ではない。82735
人を形作るのは「使命感」や「価値観」です。それら無しではいくら勉強ができても、中身のない頭でっかちの人間になるだけです。私はそのような物をその中学生に植え付けてやりたいと感じ、勉強などそっちのけでいろんな話を聞かせてやりました。彼にどのような変化が起こったのかわかりませんが、正しいことをしたとは思っています。
「使命感」や「価値観」は、個人により違いがありますので、個人主義の確立が必要でしょうね。82123
日本語は、個人の世界観を是認する目的には適していないと考えられます。83201
英語による考え方も必要ではないでしょうか。82285
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<<システム>に仕える人びと>の中で下記の段落のように述べています。
頭の中に詰め込まれた膨大な量のデータが、ほとんどなんの役にも立たず、学生たちが (英語の場合のように) 正しく学び直すのも難しい間違った癖を身につけてしまったとしても、選抜されてトップまで行くような人は非常に粘り強いし、きわめて記憶力が良いことであろう。官界と経済界が高く評価するのは、創造性よりも、持続性、献身的な態度、そして記憶力である。ところで、日本の教育に対するこうした見方は、ま新しいものではない。日本最初の外国人教師の一人、アメリカ人宣教師ウィリアム・グリフィスは、なんと1874年に日本の教師についてこう書いているのだ。「彼らの第一の仕事は、とにかく生徒の頭の中にしゃにむに知識を詰め込むことであった。少年の精神力を豊かにし高め、知的なものの見方を広げ、自分で考えるよう教えたりしたのでは、教師の仕事に反するのだ」
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