学校って、必要なの?
95232 > サヨナラ学校化社会
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/28 AM09 【印刷用へ】
> 学校って、必要なの?
> 95229 サヨナラ学校化社会
> 藤川優 ( 55 大阪 会社員 ) 05/07/28 AM04
> 「学校がなぜ面白くないか。」について、上野千鶴子の著書「サヨナラ学校化社会」から考えてみようと思います。
>>「上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産するカラクリの中で学校は何をやってきたか… 学校は、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。だから学校はつまらないところです。今を楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値一本で評価するのが学校なのですから」
「ガンバリズム」…「努力すれば必ず成績は上位になる、今遊んでばかりいてはだめです。一生懸命勉強すれば上にあがれるよ。」と親や先生は言ってきました。
しかし、「努力と成績は正比例ではありません。現実には親の生活レベルが上位の家の子供が成績も上位になるのです。」<<
「ガンバリズム」は、日常の大人の挨拶でもありますね。
我が国の学校は、序列順位確定の場にしかなっていない。
> これが上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産する学校のカラクリだと著者は言います。
序列順位の争いをさせているのでしょう。82023
> 確かに学校から帰ったあとの時間は、すべての子供たちに公平にあるわけではありません。塾で勉強を習う時代になっているからです。そこには学校より優れた指導力のプロの先生がいて、子供たちは「おもしろい。」「楽しい。」という学習を体験できるのです。親の資金力がいい塾を選ぶ選択力につながりますから、社会の構造がそのまま学校の成績のランクを再生産していくことになります。
我が国の社会が序列順位の争い一色になっているところに問題があるのだと考えています。94438
この世の「あるべき姿」を考えて示す人がいない。国民もそれを捜し求めていない。94416
> 「ガンバリズム」…将来のために頑張っていい学校を出て、いい会社に入って…そんな頑張りも今は過去の夢になりました。大会社もあえなく倒産する、株の買い占めでオーナーは変わる、負債を多く抱えて国の管轄になるなど、「寄らば大樹の陰」もたよりなくなってきました。子供たちも親も「何がいいんだか…。」とわからなくなってきているのです。何のために勉強するのか、その目的がかげろうのように揺れているのです。
従来の「いい学校、いい会社」の意味も序列感によるものですね。92480
「何がいいんだか…。」の内容を深く考える必要があるのではないでしょうか。92580
> また、現実では偏差値という数字のみで評価する学校において、「個性を尊重」、「ひとりひとりの能力に応じて」などのうたい文句がなんと空々しいことでしょうか。
偏差値という数字のみで評価する学校は、没個性の学校です。
公平という名の下に、同次元で序列順位を競い合わせます。
格差の検出が学校の役目になっているようです。
格差是正も、また没個性です。
「個性を尊重」、「ひとりひとりの能力に応じて」などのうたい文句が空文化かするのは、価値の基準が個人の側にないからです。91529
「ひとりひとりの能力に応じて」が、「その人個人の持つ個性に応じて」になっていません。94251
「ひとりひとりの能力に応じて」が、「各人の序列順位に応じて」になっています。93729
序列順位の確定 (品定め) は、伝統的な身分格式の定めに通じています。92478
順位以外に気に掛かることのないところが、我が民族の弱みです。95182
> 学校がつまらないと生徒達が言っていると先生に告げると、先生は必ずこう言い返します。
> 「いいえ、楽しいと言っていますよ。クラブ活動や放課後の時間が。」先生は授業のプロであったはず。まず勉強の授業がおもしろくなくてどうするのだと言いたいところです。
大切な授業科目の内容がつまらないという一点に、先生の注意が集中していないのですね。94775
個人がおもしろくないから、個人の話もおもしろくない。94347
> 新しいことを習い、理解したときの喜び、自分の好奇心や洞察力が活発に働いて、未知のことを迎える緊張感に満ちること、そして不明の靄の中から一筋の光がさして、霧が晴れるように疑問がひとつ晴れる楽しさ…そんなことを生徒に体験させる授業、それこそがプロの技、プロの力量ではないでしょうか。
同感です。
> 学校がつまらない理由は他にもあると思いますが、偏差値主義と指導力のレベルの低さが大きな要因かと思います。
何事も、比較の問題です。
横並びの比較しか知らない人は、公平の名の下に没個性にならざるを得ません。95210
個性に応じた進み具合を理解できる先生は、個性的な個人教育が出来るでしょう。94682
何事も、個人を中心に考えるのでなければ、不幸な個人を放置する社会になります。95128
不幸な個人に手を差し伸べることかできない状態は、やはり住民の知的水準の低さによるものと考えられます。95179
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インターネットに、可能性はあるの?
95210 > 匿名掲示板に垣間見える日本社会のカオス
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/27 PM10 【印刷用へ】
> インターネットに、可能性はあるの?
> 11986 匿名掲示板に垣間見える日本社会のカオス
> 山下正義 ( 20歳代 愛知県小牧市 派遣労働 ) 01/09/27 AM08 【印刷用へ】
> 「匿名掲示板を通じての日本社会の病理」に関して投稿します。
> ◆「普通の人」サラリーマンの異常なストレス社会
> 日本の学校・企業という組織は、大概閉鎖的な性質があり、仕事をする従業員は人間関係・生活・人生設計までも厳しく固定・束縛され、それが、政治経済が不確実・不安定な今の日本社会において「レールの上の確かな人生」を信じて止まなかったサラリーマンにとって未曾有の閉塞感とストレスを与えているのではないか。
同感です。82596
> 経済至上主義における教育システムの上で、我々日本人は子どもの頃から否応なく受験・過当競争を迫られ、それが過度の学歴偏重・差別意識を生み、自己と他人の優劣ばかりを重んじる醜いメンタリティを養わされてきた。
> それが本来どうでもいいような事で不要なストレスを発生させてしまっている。
同感です。94159
> それは「レールの上の競争」が過酷だったエリート層の人間に近づく程、そのストレスの度合いを高めるのではないだろうか。
> そして、そうやって心を泥を塗った人間が組み込まれた学校・企業では無意識のうちに、気に食わない他人を蔑み、見下し、卑劣な手段で陥れようとする。
嫉妬ですね。横並びの比較しかできない人間の世界には付き物ですね。
白雪の姫の継母のようなもの。子供にも理解できる。
> 実社会では、滅多に表沙汰にならずに、秘密裏に起こる「イジメ」のような現象が身元が一切分からない匿名掲示板の世界には、それこそ剥き出しになって現れているのではないだろうか?
言論の自由が、恣意の自由と誤って解釈されているようですね。94865
> そう思うと、今の既存社会のレールの上に乗っかった人間の群衆というのは、想像を絶する「【負】のベクトル」、とてつもないカオスが渦巻いているように見えて、この国の将来を悲観しそうになる。
「【負】のベクトル」とは非建設的なことですね。
非建設的な態度が場違いの態度にならないのは、建設計画が示されることがないからでしょう。
建設計画は未来構文の内容であり、未来構文は日本語にはない。
潜在思念とか呼ばれているものであるらしいが、どろどろとして腹芸の元になるもの。82354
> 仮に司法などの力で「2ちゃんねる」掲示板を閉鎖に追い込んだところで、社会に渦巻くカオスが消える訳はなく、また第2の、第3の新たな「2ちゃんねる」が現れるに違いないだろう。
渦巻くカオスには、考えがない。
言語は考えを作るための道具である。
言葉に焦点を当てた解決法を示さぬ限り、我が国のカオスは不滅であると考えられる。
この国の将来を悲観してばかりいられない。83201
> ◆ネット世界の希望の星、それが「るいネット」
> だけど、インターネットの世界には「るいネット」のような、良心的で、「【正】のベクトル」に向けた議論が展開される場所もあるという事。
「【正】のベクトル」を確実なものにするためには、各自が建設計画を公開する必要がある。明確な建設計画があれば、建設的な態度には意義がある。手段の目的化は避けなくてはならない。もし明確な目的がなければ、人々の努力は現実の世界を迷走する。82615
目的は、あの世のこと (未来構文の内容)、かつ、この世における努力目標。手段は、この世のこと (現実構文の内容)。それを逆さにして考えると、悲惨なことが起こる。「レールの上の競争」のようなものか。84361
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職場の悩み相談
95182 > 序列意識=相手の否定視
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/27 AM03 【印刷用へ】
> 職場の悩み相談
> 95145 序列意識=相手の否定視
> 多田奨 ( 30代 東京 建築士 ) 05/07/26 PM08
> 先日、仕事の上でパートナーシップを組んでいただいている方に一方的に叱られることがあり、ふとこんなことを思いました。
> 「(力の)序列意識で相手を捉えていたら肯定視は出来ないんだなぁ。」と。
> というのも、パートナーシップを組んでいただいている方は、僕たちよりは明らかに序列上位に位置する人です。それもかなり上。
> でも、その方が「仕事はしっかりやれ。それさえ出来れば俺は何も言わん」という姿勢をもっていらっしゃるおかげで、僕は仕事の上では序列関係をあまり意識しないで、ある意味で伸び伸びと言いたい事を言わせて頂いています。
> そのような関係から、多少の無理難題でも「成果が良くなる」実感を得ることが出来、期待に応える活力が湧いているという構造があります。要は互いに肯定視できている、ということでしょう。
あなたの序列順位向上に対する望みが、期待に応える活力になっていたのかもしれませんよ。
> で、このたび、僕たちにそれほど大きな非があるとは思えないにもかかわらず、一方的に叱られた時に「あぁ、この人は僕より(力の)序列上位だったんだなぁ。」と今さらながら意識しました。
> そしてその瞬間、これまで“期待”と感じていたものが“押し付け”に聞こえ、無理難題が本当に実現可能性のない不可能課題に思えました。相手への肯定視が薄れ、否定視に切り替わっていくのが自分でもわかりました。
> もちろん、それは瞬間的なことで、その方への肯定視が失われたわけではありません。でも、(力の)序列関係を意識したとたんに肯定視が薄れていった体験は重要だったと思います。
あなたの判断が、理性判断から序列判断に切り替わったと言うことですね。日本式人間教育を受けたのですね。94865
> そしてこう思いました。
> 「(力の)序列原理で統合されている社会において、相手への完全な肯定視というのは存在し得るのだろうか?」と。
日本語には階称 (言葉遣い) があるので、日本人は序列人間になりやすい。
序列は何処の国にもあるであろうが、責任を伴わない序列があるとすれば、それは問題です。
だがしかし、日本語の議論でリーズナブルな答えを追求することは非常に難しい。
それは、日本人には自己の基準が持てないからです。
掴み所のない人間と議論することはできない。81994
> 今でも、特に私権闘争に関わる仕事の部分では(力の)序列原理は数多く残存しています。
> 序列上位から下位へと絶対的な圧力がかかり、下位のものは否が応でもそれに従う、という構造は残存しています。
個人個人で意見は異なります。上位の者の意見はより尊重されます。
> 序列上位の者はその関係の優位性にあぐらをかき傲慢になることは日常でしょうし、序列下位のものは上位のものからの絶対的な圧力を恐れるでしょう。
個人の責任に関する考えがないので、序列上位の者はあぐらをかき傲慢になるのでしょう。82023
> そんな関係で互いに本来的な肯定視の目を向け合うことが出来るのか・・・・・・非常に疑問です。
相手が理解できないということですね。同感です。
> ・・・・・・序列意識とは相手を否定視する大きな要因になる。そう思いました。
「御無理、御尤も」の生活では、長続きしないでしょうね。
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東洋と西洋
95179 > 西洋と東洋の自然に対する美意識の違いから
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/27 AM02 【印刷用へ】
> 東洋と西洋
> 90859 西洋と東洋の自然に対する美意識の違いから
> 八代至誠 ( 44 東京 建築士 ) 05/05/16 PM06 【印刷用へ】
> 東洋(特に日本人)の美に対する意識は、崩れかけの美、不完全なもの、海岸線・山・森などの不規則な形の美です。また、優れた日本庭園は、借景の緑から庭先の樹木、そして床の間の一輪の花へと続く環境の中で、人間が花鳥風月としての自然に溶け込んで自然と渾然一体になっている事を良しと感じています。
同感です。
> 一方、西洋の美は、整然とした美、完全なもの、球・正多面体などの規則的な美であり、西洋庭園の「秩序(コスモス)の美」を良しと感じています。
真理には、秩序・法則があるのでしょう。学問は、真理の探究を目的としています。
> 西洋と東洋の美意識の違いの奥には実は、自然観の違いがあるように思います。東洋では、人と自然が、明らかに同化に向かっているのに対して、西洋では自然を人間から切り離して、花を対象化し分析し、自然界には本来あり得ない、形を作ってしまう。言い換えれば、自然を人の手の中で結果的に作り替えてしまう事を良しとしてしまう。これは正に近代科学の方法ではないでしょうか。
自然界には、天然痘もあり、ハンセン病もあった。西洋人は、世界からこれらの疾病を駆逐する。人を醜い姿に変える病気は自然界から消えてなくなる。
> 実に、近代科学は、十七世紀に西欧でガリレイやニュートン等によって作られ、この3世紀の間に現代の科学技術に発展してきましたが、科学技術の開発による経済発展によって「物の豊かさと便利さ」を追求してきた結果、われわれの日常生活は物に溢れ、その隅々まで科学技術が浸透するまでになってしまいました。
科学者は概して金儲けには疎いが、技術者は科学を応用して物を豊かにし生活を便利にしてくれる。人々は、物の豊かさと生活の便利さには金を払う。そして、経済大国が生まれる。
> しかし、環境問題、資源問題、人口問題という深刻な問題に直面し、科学技術をもたらした西洋の自然観では解決できない状況まで、追い込まれているのは明らかではないでしょうか?
理想的生活の探求は、哲学者にはできても技術者には難しい。
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マスコミによる共認支配の怖さ
95128 > 三文脚本家としてのマスコミ
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/26 AM05 【印刷用へ】
> マスコミによる共認支配の怖さ
> 37953 三文脚本家としてのマスコミ
> 北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 02/08/15 PM08 【印刷用へ】
> 新聞社の公式のHPにQ&Aのページがあり、「どんな人が記者に向いていますか?」の問いに新聞協会は次のように答えている。(子供向けだけにストレートに答えている)
>> 記者には「やじ馬根性」が欠かせない。やじ馬は人の知らないことを見たり、聞いたりして第三者に伝え、「へぇー」>>「すごーい」という反応に接して満足する。
記者は出来事や話題ものを取材して、紙面を通して一般の人に情報を伝達する。したがって、やじ馬根性、つまり好奇心がおう盛であることが求められる。もちろん、責任感と正義感を備えたやじ馬(??)であることが必要。(以上リンク)
> 唖然とした。しかしよく考えれば確かにそうなのだろう。
同感です。
> 今でこそ社会の公器を名乗る彼らだが、歴史を遡れば新聞あるいはマスメディアの起源は瓦版に遡る。それ以来今にいたるまで、一貫して記事やニュースの中軸にあるのは「対立と異常事件」である。(つまり火事と喧嘩である)
火事と喧嘩は江戸の華。つまり、エキサイトする。
> もちろんこれが中軸にくるのは、最も人の耳目を集めやすいからであろう。つまり面白おかしい、おしゃべりのネタとして、それらが最適であるからだ。
それを読者は待っている。
> それだけではない。とりわけ対立については、政治的対立から始まって夫婦喧嘩の暴露ネタにいたるまで、対立や喧嘩にはどちらが勝つかというゲーム的要素がある(古代ローマの奴隷の決闘と同じ)。
相撲の取り組みのようなものか。それとも、果し合いを見るようなものか。
> かつ喧嘩に近い対立では、自分が心情的に肩入れしているものが気に食わない相手をやっつけてしまう快感がある。
桃太郎の話を聞いたときの快感。すべては、気分・雰囲気の問題に還元される。83747
> あるいは泥仕合の最中にある双方が互いを貶めあうことに対する、自分にもある人間の醜い部分を見ることによる(おそらく自我の)倒錯的充足がそこにある。
恣意の是認のようなもの。94865
> 一見まともなニュースに見えるものも、よく見るとこれらの要素がいたるところに散りばめられている事に気がつく。
記事を出来るだけ面白おかしくする必要がある。
> つまりマスコミとは単なる現実の傍観者で在るばかりではなく、もっと性質の悪いことに、現実の一部を切り取ってそれを面白おかしく針小棒大に語る、三文小説的脚色家なのだ。
読者の暇がつぶれるようにしてくれる。
> マスコミは市場の拡大と共に勢力を拡大する。
面白い記事を載せる新聞が良く売れる。
> つまり市場拡大によって破壊され、喪われた村落共同体の体感共認に対する代償充足の欠乏を栄養源とする。
鬱憤晴らしによい。
> 芸能や演劇がその中でも喪われた本源欠乏に代償充足を与えたのに対して、ニュースはおしゃべりのネタ、つまり面白おかしく現実を脚色して発散するという形で、肥大する自我の発散欠乏に照準を当てることから始まっている。
浪花節調か。それとも、コミカルに行くか。
いずれにしても、知的低水準からの脱出は難しい。94775
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私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
94962 > 「どうあるべきか?」から「どうしたらいいい?」へ
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/23 AM03 【印刷用へ】
> 私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
> 94929 「どうあるべきか?」から「どうしたらいいい?」へ
> 大木康子 ( 55 山口 主婦 ) 05/07/22 PM02
>>「どうしたらいい?」という言葉をよく聞くようになった気がする。そして、それに必死になって答えを出そうとしている自分、仲間、露店主たちがいる。「どうしたらいい?」という言葉は、一見答えがないから課題放棄みたいに感じてしまうけれど、実は、実現の意志を捨てずに、相手を同一視し全てを委ねようとする期待の発信=「充足課題の投げかけ」そのものなんだと思う。(94601山崎さん)
> を読んで、私自身、最近周囲のいろんな人たちから、「どうしたらいい?」と聞かれることが多くなったことを実感しています。そして、このように聞かれた時には、一方的に自分の考えを述べるのではなく、まず相手の置かれている状況を聞き、相手の潜在思念にまず同化し、一緒になって答えを探していきます。 そうして答えを探していく過程で、日常目の当たりにする諸現象を、出来る限り固定観念を払拭した潜在思念で、感じたことを率直に述べ合います。こうして現実を直視することから、これまでの見方とは違った多くのものが見えてきます。そこから、構造認識を用いて、「みんな発」で普遍的な答えへを導こうとしていく訳です。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。ですから、潜在思念を文章化することが大切です。
これが、考えることです。85176
> 振り返って見ると、私達が生きてきた私権全盛の頃。旧観念が絶対だという支配観念に囚われていた頃は、悩み相談といっても答えの出し方は全く違っていました。以前は私権規範に則った「どうあるべきか?」という答えは既に存在している。「その答えにどうすれば近づけるのか?」「どうすればその答えを獲得できるのか?」、を聞いてこられる場合が多かったように思います。その為には、当然ながら、私権社会での勝者となった人の「自分発」の意見や経験が、金科玉条の如くに価値ある言葉として人々の心を捉えました。ある時はサクセスストーリーであったり、ある時は、成功を収める為のハウツー物であったり・・・・・・・・。
太閤記のようなものですね。82596
> しかし、’70年代の豊かさの実現以来私権は衰弱し、今や私権社会は崩壊してしまいました。人々の意識も、今では「私権原理」から「共認原理」へと移行しています。
我利我利亡者から哲学に移行しているという意味ですか。94239
>>共認原理への転換(自分からみんなへ)は、課題をどう実現するか真っ当に考えられる基盤が出来た、つまり本当に実現可能性が開かれたことを現している。実現を阻む壁があるとすれば、それは、自分の頭に残り続ける不可能視と自分観念だけではないだろうか。(同上)
不可能視とは、意思 (will) の無いことでしょうね。意思の無いところに方策は無い。94286
自分観念とは、自我 (self) のことでしょうね。未来構文の内容に関する意識でしょうね。94347
もっとも、日本語の自我は、「我が強い」「我を張る」というときの我に相当しますから、話が合わないでしょうね。94775
> 私権時代を生きてきた世代にとっては、「現実は変わらない、変えられないもの」といった不可能視が深く刻印さえていることは否定できませんが、現代は「人類史を覆すような大転換期」にあることを認識し、新観念(=構造認識)を獲得していくことが急務だと思います。
「現実は変わらない、変えられないもの」は、現実肯定主義でしょうね。閉塞感を伴いますね。82615
「人類史を覆すような大転換期」も、国がひっくり返るような大悲劇も、「あるべき姿」の内容が明確でないと受け入れられませんね。84361
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思考パラダイムの逆転
94960 > 高見に立つ、その姿勢に断が下される。
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/23 AM01 【印刷用へ】
> 思考パラダイムの逆転
> 32528 高見に立つ、その姿勢に断が下される。
> 北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 02/06/01 PM11 【印刷用へ】
> 昔「高踏主義」を標榜する知識人の一群がいた。
「高踏主義」とは、地位・名利などに恋々とせずに俗を抜け出て気高く身を処することですね。
> 巷=俗世の欲望の渦巻きから身を引いて観念的探索(感応観念を紡ぐ)に埋没する人々である。
地位・名利などに憂き身をやつすのは、あまり賢明な人とは考えられないですから。
> しかしそれは彼らのみならず、知識人一般に広く見られ、かつそれが知識人のあり方として正しい、とされていた。
それ以外の知識人は、さらに格好が良くないですからね。
> そして一昔前から現在にかけて、新聞の売り物は中立・不偏不党であった(実際にそうであったかはここでは問わない)。
実況放送・現状報告の内容しか考えられない人間は、その態度が自然と中立・不偏不党に似たものになるのでしょう。
一応、党派的な派閥人間・序列人間を脱したということですね。
> 社会に対する監視人=チェックマンとしての自己規定=基本姿勢である。
自己の基準が持てない監視人では、現実批判は不可能でしょうね。実質のない監視人ですね。
> それらによって、社会に対して観察者=傍観者であることがいわば正当化されていた。
監視人・観察者、傍観者など呼び名をいくら変えてみても、その本質は変わらないでしょう。
> それどころか、それが一歩高みに身を置いた高尚な姿勢であるかのようにもてはやされていた時代であった。
派閥人間・序列人間を脱したという高尚な姿勢だけで、もてはやされるほどの実質はないようですが。
つまり、そうした人間にも理性は無い。94865
> しかし、この間の四方氏の投稿を初めとするこの掲示板の流れは、それらの姿勢が根本的誤りであり、過去の遺物でしかないものであることを明らかにしつつある。
おいそれとは、過去の遺物にならないでしょうね。言語の問題を解決しないと、日本人には行きどころがない。94864
> 傍観者であることが一定の正統性を持っていたかのように思われたのは、現実とは私権闘争の場であり、およそ社会を考えるものや、公的な立場に携わるものは、その私権闘争や私権対立から一歩外に身を置くという仮装が必要があったからであろう。(ただし現実には、傍観者はせいぜい現状を追認することしか出来ない。)
恣意の人間にとっては、現実は私権闘争の場である。そのためには、自分が派閥人間・序列人間となることで有利・近道を得ることができる。(ただし、現実構文の内容のみが真実であるから、現状を追認することになる。現実肯定主義ということか。)
> しかし現在、私権闘争は衰弱し、現実は既に同類圧力にその姿を変えつつある。しかもその圧力源=活力源は「あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。」(四方氏 31505)
果し合いの時代は、過ぎ去ったと言うことですね。同感です。神頼みの時代 (お上頼みの時代) になったのですね。
>>しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。(20355 )
自分が現実の中に入りましたね。話が難しくなりましたね。現実肯定主義ですか。
> これらのことは次のことを意味する。
> 即ち人々の意識の坩堝の中に身を置き、自ら生きる場を形成していく現実的な基盤が既に生まれているということ。
現実的な基盤というのが、分かりかねます。現実肯定主義ですか。
> そしてその中で傍観者とは、旧いスタンスで頭を染め上げられたまま人々の期待を遮断した人であり、つまりは現実からは無用・無縁の人であることを。
傍観者とは、無用・無縁の人であることは分かります。自分の意見を持てない観察者ですからね。94775
> かつての知識人のスタンスを真似た、人々の一億総評論家化。
自分の意見を持てない観察者なら一億人もいるということですね。
> そして現在なお数多く見られる「何事も先ず疑ってかかる」認識スタンス。
現実には、表もあれば裏もある。現実を疑うことも大切であろうが、疑ったからとて答えが出るとは考えられない。94682
> かつて善とされたこれらの高見に立った姿勢=傍観者的姿勢も、現実の変化とともに、その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。
高見に立った姿勢 (傍観者的姿勢) は無為無策そのものであって、今後も善とされることはないでしょう。94468
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私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
94865 > まずは「自分課題」から「みんな課題」への深化が最先端の課題共認
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/21 AM05 【印刷用へ】
> 私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
> 94836 まずは「自分課題」から「みんな課題」への深化が最先端の課題共認
> 田中修 ( 26才 東京 会社員 ) 05/07/20 PM06
> 今後、全ての共認運動の場面で、焦点に当てられるのがこの、「自分だけの課題」⇒「みんなの課題」への意識転換なんだと思います。
> 今や、どんな不全も課題も、自分だけのモノではない、というのはこのネットに参加していれば分かる気がするが、実際に不全や課題を抱えている人と話していると決してそうでもなく、「自分だけ」の不全や課題だから「自分だけ」で解決しようと抱え込み状態になっているのが大半だと思います。
> そうであるからこそ、相手のどんな悩みでも、「皆に投げ抱えて〜」等の言葉は、「自分だけの課題」⇒「みんなの課題」への意識転換をより具体化して伝えないと、上滑りするだけの言葉になってしまい、終いには、そこで得た構造認識も「自分だけ」が(例えば)私権社会で勝って行く為の、「自分だけ」の認識に成り下がってしまう気がします。
同感です。
>「どうしたらいい?」という言葉も、「自分だけの課題」⇒「みんなの課題」と捉えられる仲間内で、通用する言葉なのかも知れません。
「みんなの課題」に対する答えは、あくまでも個人の答えの中にある必要があるのではないでしょうか。
めいめいが個人意見を持ち寄って議論して、最も人気の高い個人意見を「みんなの答え」とすべきだと思います。
そうすれば、もし選ばれた個人意見に不都合が生じたときは、すぐさま次の個人意見に乗り換えることが出来ます。
個人意見は宝の山です。「みんなの答え」は、常にその中に存在します。
全体主義とは、全体の利益を第一とし、個人の価値は全体に奉仕する点でだけ認める (政治上の) 主義である。
私の小学校 (国民学校) に入学した頃は、まさに世の中は全体主義であった。
「この国のものは、一木一草に至るまで天皇陛下のものである」と教えられた。
私達は「天皇陛下の御為に、、、、」ということで、大切な命を捧げなくてはならない運命にあった。
とはいえ、そのことは天皇個人の自己利益を強調しているようでもなかった。
そういえば、「お国のために、、、、」と言う言葉もあった。
とにかく、自分のことをあれこれ言わずに「滅私奉公をせよ」とのお達しであったようだ。
誰の意見で、この私が命を捨てなくてはならないのかは、はっきりしていなかった。
「とかく、この世は無責任」ということか。
日本人には「私」が深刻な問題なのである。そのため、全体主義を敵視する影は今日に至るまで薄い。
日本人の「私」の根源には、恣意がある。
この恣意 (私意・我儘・身勝手) を押さえ込むことが、国民的課題なのである。
伝統的な手段は序列奉公であり、我が国の人間修行 (修身) であった。
だが、今日では、その修身手段も敬遠されている。ということは、恣意を粉砕する決め手を欠いていることである。
我々にとっての深刻な問題は、英米式の世界観 (world view) を持てないことである。
日本人の世界観と思しきものは、「世の中は、、、、」であるが、この表現には個人の考えが入っていない。
「世の中は、、、、」の陳述は、実況放送・現状報告に類する内容で、現実構文の内容である。発言の個人差は、事実誤認と考えられる。
英米式の世界観は、未来構文の内容で、個人差が認められる。個人差を認めることが、すなわち言論の自由を認めることになる。
未来構文の内容には意味がある。だから、議論が有用である。理不尽であれば、'Shame on you!’の一言で粉砕できる。
恣意は、文章構文がなくても表現できる。小言・片言でもことたりる。
恣意は、未来構文が未発達な人間に見られる。英米人の子供とか、日本人である。
だから、日本人の大人は英米人の子供に似たところがある。
英米の世の中で、一人前の国際人として遇されるためには、いま一踏張りの努力が必要である。
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マスコミによる共認支配の怖さ
94864 > 二重の否定・不可能視
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/21 AM04 【印刷用へ】
> マスコミによる共認支配の怖さ
> 93394 二重の否定・不可能視
> 多田奨 ( 30代 東京 建築士 ) 05/06/26 PM05 【印刷用へ】
> 若者はよく「社会というものにリアリティを感じない」と言います。
本物を感じられないことは、実に気の毒なことですね。93309
> その一因は、否定・要求の対象として描き出される社会に対して、潜在意識は「何か違う(否定・要求の対象ではないはず)」と感じているためではないか。
潜在意識は、文章にして顕在化する必要がありますね。知的な作業ですね。93557
すべての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。93494
> つまり、現実に言われていることと潜在意識の間にズレがあり、しかし、そのズレが何なのかわからない(答えがない)ため、捨象もしくは忌避していることが、社会に対するリアリティを殺ぐ原因になっているのではないか、と思います。
日本人の現実把握が確実でないのは、雑念に煩わされるためであると考えています。94286
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日本人と縄文体質
94775 > 「和を持って貴しとなせ」=日本人のDNA
寺嶋眞一 ( 68 静岡 無職 ) 05/07/19 AM03 【印刷用へ】
> 日本人と縄文体質
> 90898 「和を持って貴しとなせ」=日本人のDNA
> 岡田隆史 ( 41 兵庫 会社員 ) 05/05/16 PM11 【印刷用へ】
>>「話し合いで全て解決できる。」話し合いに民主主義の泥仕合しかイメージ出来ない現代人には信じられないことですが、もう一度この第一条を評価しても良いように思います。84679
> この意見に対してですが、私は以下のように考えます。
> @「政党間の泥仕合→結論がでず、なあなあで終わってしまう」
> A「どこの国に対しても自己主張しない」
> これを繰り返しているのが、日本の政治です。これが日本人のDNAの中にある「和を持って貴しとなせ」の精神ではないでしょうか?
自己のない日本人には、議論ができない。
「議論をすれば喧嘩になります」という。
議論をすれば、恣意 (私意・我儘・身勝手) のぶつけ合いになる。
これでは、何人も相手を受け入れがたい。何処の国でも恣意は受け入れがたい。93930
それを無視して、あえて議論をすれば喧嘩になる。
自己とは、自分の考えた「あるべき姿」の内容である。自己の哲学である。94682
「あるべき姿」の内容は、実況放送・現状報告の内容としては存在しない別次元の内容である。
日本語には、別次元の内容を語る構文がない。
つまり、日本語には、現実構文 (現在構文) しかない。実況放送・現状報告の内容だけを語ることができる。93843
それは、日本語に時制がないからである。
日本語を話すときには、話に現 (うつつ) を抜かしてはならない。
現を抜かすと、雑念が入り込んでくる。
雑念とは、夢 (未来構文の内容に相当するもの)・幻 (過去構文の内容に相当するもの)のことである。
夢・幻の内容は、構文がないので意味をなさない。だから、考えても無駄である。
あえて、夢・幻の内容を現実構文の中に入れて語ると、それはこの世の嘘・偽りとなる。93835
話に実感が湧くこともなく、信じがたい。
もし、夢・幻の内容の方を信じると、現実無視がおこる。94159
英米流の議論の貴重なところは、それにより「あるべき姿」の内容が得られるところにある。
「あるべき姿」の内容は、未来構文の内容である。
現実でないものの表現は、概念を使って表現される。そして、話は形而上となる。
未来は何人も規定されていないから、発言は個人の自由になる。だから、個人主義が大切である。94347
「あるべき姿」の内容を議論により定めることができたら、「あるべき姿」の内容にしたがって現実を協働作業で作り替えてゆくことが可能になる。
自己の「あるべき姿」の内容がなければ、自己主張はできない。
現実対応として、なーなー主義を繰り返しているしかない。94602
英語の概念に相当する単語を日本語に変換しても、それを搭載する構文はないから、概念に意味を持たせることは難しい。84909
英米人の概念は、土着の言葉の意味になぞらえるしかない。94438
無哲学・能天気の人間は肩身が狭い。我が国は、いまだに教育あって教養なしの国である。93128
> これは縄文以来の島国根性ともいえるもので、狭く限られた範囲での無駄な争いを避けようとしたものだと思います。
> これは縄文以来、現在まで脈々と受け継がれているのではないでしょうか?
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