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実現論って、何?
93494 > 潜在思念発の大きな方向と大きな構成
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/28 AM06 【印刷用へ】

> 実現論って、何?
> 71464 潜在思念発の大きな方向と大きな構成
> 岡田淳三郎  ( 60代 大阪 経営 ) 04/05/06 AM01 【印刷用へ】
> 旧観念は、実現不可能視を刻印された傍観者の頭の中を代償充足させることが出来さえすれば、それで良い。従って、旧観念は都合の良い潜在思念(共認価値や自我幻想)を結晶させて作られており、それらのお題目を頭で理解すれば自動的に潜在思念に直結する。何より、単なるお題目=単語なので、誰でもすぐに使える。

旧観念は、外来性の概念のことである。
概念は、日本語には馴染まない。
日本語は、実況放送・現状報告の為の言葉だからである。
日本語は、現実構文 (現在構文) しか持っていない。つまり、時制がない。
概念は、現実の中では観察できない。
日本語の中にある概念は単なるお題目=単語なのである。
お題目を並べた文章は、空理空論というべきでしょう。

> しかし、新理論は、物事を実現するための構造認識である。従って、潜在思念(みんな不全⇒みんな充足)に応えようとする強い実現の意思がなければ、何の価値もない代物であり、その上、実現する(=答えを出す)ことが生命なので、単にお題目(単語)を唱えていればそれで良いという訳にはいかない。

意思は、未来構文の内容である。
日本語には、未来構文はない。
だから、日本人は意志薄弱に見える。
意思のあるところに方法はある。
意思のないところに方法はない。
意思のないところに実現など不可能である。

> 従って、新理論は、あくまで潜在思念(みんな不全⇒みんな充足)発で、相手(著者)に同化し、対象(理論)に応合することなしには、使いこなせない。(云うまでも無く、そこで相手に同化しきれない部分が、潜在思念(≒みんな)発の、新たな理論追求課題となる。)

全ての考えは、文章により表現される。
文章にならないものは、考えではない。
考えるのは、個人の頭である。
個人・個人がいろいろな考えを出してゆこう。
そうすれば、新しい世界を作るための建設的な作業も可能になる。

> 要するに、新理論は旧観念とは全く異なる新しい位相に存在する。だから、新理論を使いこなせるまで吸収するには3年はかかる。それでもその壁を突き抜けようとするくらいの実現可能性を感じさせることが出来るかどうかが、今、我々に問われている。そして、その突破口もまた、相手に対する潜在思念による同化(同一視と応合)である。

言語は、考えるための道具である。
知的な作業に携わる人は、道具の良し悪しを丹念に吟味しなくてはならない。
英語は、知的能力を伸ばすのに適した言語である。
我が国の有識者・知識人は、英語で考える力をも習得しよう。
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何で新理論(構造認識)が必要なの?
93461 > 社会運動の総括1 現実否定の自己欺瞞
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/27 PM06 【印刷用へ】

> 何で新理論(構造認識)が必要なの?
> 20054 社会運動の総括1 現実否定の自己欺瞞
> 四方勢至  ( 老年 京都 編集 ) 02/01/05 PM05 【印刷用へ】
> 不全発の変革意識に対する疑問が浮上した所で、改めて社会運動を総括してみる必要がある。
> 彼らは、何故、現実の共認圧力を対象化できなかったのか?
> それは、共認圧力というものが、単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならないからである。

自他の区別を正しく分けて考えられなかったということでしょうか。82123

> つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。

彼らが否定する現実とは、彼らが批判しようとする現実のことでしょうね。82180

> 従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我や私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。

現実は否定できないでしょう。92282

> 実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。

自分自身に基準を持ち、それに照らし合わせて自らの存在(下半身)を批判したと言うことでしょうか。

> しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。

現実は否定できないでしょうね。92282

> そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる。

意識と存在(思想と現実)の比較は、批判精神を保つためにどうしても必要ですね。82251
必然的に断絶し、分裂する考え方は、改める必要があるのでしょう。82285
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思考パラダイムの逆転
93383 > 宗教の認識論と近代思想
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/26 AM11 【印刷用へ】

> 思考パラダイムの逆転
> 3426 宗教の認識論と近代思想
> 北村浩司  ( 壮年 滋賀 広報 ) 01/04/20 AM04 【印刷用へ】
> 宗教及び近代思想の一つの特徴はその「あるべき世界」を理念として掲げることにあります。哲学用語的に言えば「当為」=「○○たるべき」という認識手法です。
> さて何故「当為」の世界が必要になったか?は中々難しい問題ですが、おそらく歴史的には現実世界の可能性の閉塞から来ている認識論なのではないか?と思います。

現在・過去・未来の三種の世界があるとすれば、現実以外に「あるべき世界」もあってよいでしょうね。82285

> つまり現実の世界を動かす可能性が封じ込められているので、非現実の当為の観念に立脚したということなのでは無いでしょうか?

非現実の当為の観念は、考察する価値があるのでしょう。82320

> この認識論はもともと近代思想の発明ではありません。西欧の宗教以来の認識論です。
> つまり現実世界は身分制度や絶対権力によって、一切の可能性を封印されていた。しかし人間は精神的存在です。本来の人間の可能性やあり様を「神の世界」に置きそれで意識を統合しようとした。宗教の基盤と意義はそのあたりにあったのではないかと思います。

この世にありながら「神の世界」に近づくことを目的として生活に励む人は、世界に多くいることと思います。82478

> 近代思想はいわばその神の世界の位置に「人間」をとって代えた。代えた理由はおそらく身分制度の桎梏から解き放たれ、市場での経済的利益の追求の「自由」が生まれ、少なくとも現実の可能性が半分開けたからではないかと思います(ただし利益競争や出世競争を担う「個人」として)。

「神の世界」の有様を「人間の世界」で再現できたら、どんなに幸せなことでしょう。地上の楽園ですね。
ただ、日本語には、階称 (言葉遣い) があるので、個人の意味も序列順位の代名詞のようになっていて、個人の哲学・世界観を指す単語にはなっていないようです。82023

> しかも宗教が持っていた生活規範(超越規範)としての側面も剥奪し文字どおり私的欲望の主体としてのみ個人を解放したのです。

私的欲望は恣意ですね。私意・我儘・身勝手なことですね。
私的欲望の主体とは、駄々っ子のことでしょう。81994
駄々っ子は、一個人として認めるわけにはいけませんね。保護者が必要です。82251
理性 (reason) がない。理不尽 (unreason) そのものである。

> ただしついこの間までは、資本の「力の論理」によって相変わらず半分は現実の可能性は封印されていました。だからこそ現実の「力」に対して「当為」を持出すしかなかったというのが一つの解釈だと思います。

力は、理性により支配しなくてはならないでしょう。82504

> しかしこの観点で見れば、これは対抗手段としての見果てぬ夢です。

人間の願望は限りなく、その対抗手段も見果てぬ夢となります。

> それだけではなく既にこの倒錯の一人歩きによる弊害の方が強まってきました。

現在・過去・未来の三種の世界もなく、只の現実だけの世界では、神様も理想も皆逃げて行きます。83281


> このような理念=スローガンに代わる「事実の認識」への転換が要求されている時代が既に到来しているのでは無いかと思います。

現実構文だけの言語・日本語を使用すると、構文内に「あるべき姿」を入れると「今ある姿」が逃げ、その逆も真と言うことになるのではないでしょうか。 82354
要するに、当為では話が合わないということになりそうです。
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既成運動(政党やNPO)が、社会を変えられない理由
93381 > 既成運動(政党やNPO)の持つ犯罪性
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/26 AM05 【印刷用へ】

> 既成運動(政党やNPO)が、社会を変えられない理由
> 93318 既成運動(政党やNPO)の持つ犯罪性
> 佐藤堅  ( 50代 大阪 塾講師 ) 05/06/25 PM02
> 「言っていることとやっていることが違う」のは、まさに「本音と建前」の世界に生きているからに他ありません。この「本音と建前」は私権社会を端的に言い表している言葉だと思います。

本音と建前は、現実の中にある。
本音も建前も、事実である。
理想は未来の中にあり。事実は現実の中にある。
日本人の社会には、未来構想が欠けている。82242

> 既存の社会運動・変革団体―既成政党・反体制運動団体・NPO etc.―の活力源=原動力は、「現実社会の否定」にあります。

自己の基準がなくては、現実批判はできない。だから、否定もなければ肯定もない。傍観するしかない。
自己の基準がなくして現実を否定するのは、幼児が「いやじゃ、いやじゃ」と言うのと同じことである。説得力ゼロである。93306

>>既成の社会運動は、まさに都合の悪い現実を捨象した『否定と要求の塊』。

意思 (will) のないところに方策 (way) はない。82057

>>その現実社会で、彼ら=既存の社会運動家達が後生大事に抱え込んでいるのが旧観念―権利・自由・平等・愛etc.―=欺瞞観念です。<実現論2_8_00 参照>

旧観念 (権利・自由・平等・愛etc.) は、英語の概念の日本語訳である。
概念そのものは、日本語には馴染まない。92540
だから、英語の概念の日本語訳は欺瞞観念 (概念) となります。成り立つはずもない。82144

> ガチガチの私権社会の中で、性権力を正当化するために捏造された欺瞞観念を原動力とし、「本音と建前」を使い分けながら運動を継続しようとしているのです。

日本語には、時制がないので、未来構文がない。現実構文 (現在構文) ばかりである。
だから、自分の考えを英米人のように「あるべき姿」(未来構文の内容) と「今ある姿」(現在構文の内容) に分けることは不可能である。
それで、日本人は、本音 (現実構文の内容) と建前 (現実構文の内容) に分ける。これら二者は、共に現実の中にある。だから、実感がわく。真実に見える。
つまり、世の中には、本音もあれば建前もある。二重基準 (double standard) である。これが欺瞞の種である。
英米人の場合は、二重基準にならない。未来構文の内容は、未来永劫の観点から述べられている。現実とは混じらない。現実を測る物差しとなる。82251

> しかし、'70年以降貧困は消滅し、私権社会の終焉を迎えると、私権獲得競争は人々への圧力機能としての役割を失ってしまいました。このような社会状況の中で、「本音と建前」をいまだに使い分けている既成運動団体(NPO、既存政党、マスコミetc.)に、社会変革の力は皆無でしょう。

現実構文ばかりの内容では、現実打破は考えられないでしょう。打破すれば自分の行くところがない。それで、現実肯定主義になるのではないでしょうか。一種の諦観かもしれない。82242

> いや、というよりも単なる傍観者達を生み出し続ける既成運動団体の犯罪性は、もっと厳しく追究されてしかるべきだと思います。

日本人そのものが「我、関せず」の傍観者であることは、今も昔も変わらない。頭でっかちなのでしょう。既成運動団体(NPO、既存政党、マスコミetc.) の非能率とは、直接の関係はない。82240
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精霊信仰=観念機能の成立過程
93309 > 「未知なるもの」と「非現実的なもの」
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/25 AM03 【印刷用へ】

> 精霊信仰=観念機能の成立過程
> 83484 「未知なるもの」と「非現実的なもの」
> 瀬川直人  ( 25 大阪 会社員 ) 05/01/01 PM08 【印刷用へ】
> 現実直視の始原人類には、「非現実(的なもの)」なんて無かっただろうが、「未知なる物≒圧倒的な自然の力」がたくさんあった。

そうですね。天然痘も台風も未知であった。

> 逆に現実逃避の現代人には、「非現実(非日常)(的なもの)」が現れた。

日本語を話す人にとって、非現実的な内容は、空理空論である。それは、現実と混じりあうからである。83530
英米人の考えであるからと信用したら、日本人はどうにもならなくなる。93128

> 普遍的・科学的解答(知識の問題)はさておき、個々のレベルで対象直視すべき「未知なるもの」を「非現実(非日常)的なもの(ドラマティック・幻想的なもの)」という捉え方をしていると(イメージ先行の「癒し」とか)、結果それが対象に同化できない原因になっているのだと気づく。

「未知なるもの」は、現実の世界にある。
「非現実(非日常)的なもの(ドラマティック・幻想的なもの)」は、別次元の世界にある。永遠の次元の中にある。
何処まで言っても、現実と非現実は交差することはない。
非現実の内容は、進歩・進化する。
だから、非現実の内容に合わせて現実の改良に励めば、我々は進歩の国民となることができる。82251
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マスコミによる共認支配の怖さ
93306 > 社会に対する否定視
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/25 AM00 【印刷用へ】

> マスコミによる共認支配の怖さ
> 91339 社会に対する否定視
> 瀬川直人  ( 25 大阪 会社員 ) 05/05/24 PM01 【印刷用へ】
> 露店に行くとよく感じることですが、若者(特に10代)の「社会(変革)」に対する否定視(・不可能視)が非常に強い。その際たる原因の一つは、マスコミが「社会」に対して行う(答えの無い)否定的報道・情報の繰り返しにあるのではないか。

我が国のマスコミが「社会」に対して行う役割は、(答えの無い)否定的報道・情報の繰り返しだけである。82285
答えに関する報道・情報をすることには無理がある。82354

> そういったものの垂れ流しを小さな頃から延々見つづけてきた若者達の社会に対する意識は、大人が想像している以上に絶望的なものであると感じる。

日本語だけで考えているのでは、絶望的に見える。82596

> そもそも、それら報道の目的は自らの利権確保のための共認形成とそのための大衆(≒利権に関わる大人)操作であり、子供に対する影響というものを今まで殆どイメージしていなかったのではないか。

それら報道の目的は、世論操作・大衆操作以外にない。82504

> 一方的に批判・否定するのみ(答えを出せない)ということは、「それのみ」では済まず、否定・不可能視を強く刷り込んでいっていることを若者の意識に触れて感じた。

一方的に批判・否定するのみ(答えを出せない)ということは、「いやじゃ、いやじゃ」といっているにすぎない。82476
単なる感情の表現にすぎない。感情は、議論の対象にはならない。82615
自己の判断に関する基準 (basis) がない。これを自己がない (selfless) という。82373
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素人に、何が、どこまで創造できるか?
93169 > 「なにか違うなー」が出にくい現状
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/23 AM02 【印刷用へ】

> 素人に、何が、どこまで創造できるか?
> 20359 「なにか違うなー」が出にくい現状
> 佐々木健二 HP  ( 22 徳島 企画 ) 02/01/09 PM08 【印刷用へ】
> 自我由来の否定ではなく、潜在思念で感じ取った「なにか違うなー」という意見は、本来有効なもの。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
考えにならない内容は、思想ではなくて感想である。

> ところが、自我発の否定思考があまりにも氾濫しているせいで、本来有効なはずの直感・実感が出てきにくくなっているような気がする。

とかくケチは付けやすい。感覚による内容は、議論の対象にはならない。感覚による内容は、表現を躊躇せざるをえない。

> 例えば「代案なき反対はご遠慮ください」という文句。
> 自我発のたんなる言いがかりを防ぐ効用はあるだろう。

原案に反対するばかりでは、何事もなしえない。
選択肢を増やす努力が必要である。

> しかし、潜在思念レベルでの実感が代案という論理思考を経たものになることは普通の人ではまず不可能。
> →結果、黙っているしかない。

黙っていれば、誰かが何とかしてくれるかも知れない。91888
だが、受身・消極的は避けられない。91933
それで、論理思考をするための高等教育が必要になる。
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
93149 > 旧観念は否定意識を正当化させるだけ
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/22 PM09 【印刷用へ】

> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 93106 旧観念は否定意識を正当化させるだけ
> 村上祥典  ( 40歳代 島根 電気設計 ) 05/06/21 PM10 【印刷用へ】
> 人々の意識では、どうでもいい私権時代につくられた旧観念が、学者やマスコミを中心とする特権階級達の共認支配により、のこり続けている。

学者やマスコミは、英米から知識を得て、それらを日本語に訳す。そして、権威ぶる。
英語と日本語の考えは、お互いに別次元であるとの考えがない。翻訳には、限界というものがある。93128

> そして、学者やマスコミが答えの出せない自分たちをごまかすために旧観念を使う。

英米人の考えは、日本人流では理解は出来ないが、それでも英米人の猿真似をして済ませている。無知による。

> また、一部の現実否定意識の強い人達だけが、何か起これば、都合よく自分たちの正当性を主張するために旧観念を使う。

英米の概念を日本訳しても議論にはならないから、それが自分達の正当性であると勘違いをしている。

> その結果、多くのわけの分からない人権系の法律が出来上がる。

英米人の考えを日本語訳すれば、理解不能のことが数々おこる。

> 現実の中に新しい可能性を見つけていこうとする普通の人達は、その巧妙さに引きずれてしまう。

目先の現実と永遠の理想は、同じ内容にはならない。だが、現実と理想の折り合いをつけることは、日本語では難しい。

> 何か変?と思いながら、なにが正しいのか?どうもスッキリしない。という気持ちを残し、引きずられるしかない。
> ますます閉塞状況は深まっていく。

意思のない人間は、無為無策でいるしかない。
閉塞感はつのるばかりである。

> 現実を否定する時代は終わった。
> 否定からは何も新しい可能性は生まれない。

現実は、否定も無視もできない。自己の基準があれば、現実批判は出来る。
自己の基準がなければ、現実批判は出来ない。
現実批判をした時には、その批判に応えられる提案を自らすべきである。それが自ら考えるということ。

> 否定意識を正当化する旧観念が残り続ける限り、社会は閉塞するばかり。

現実は、否定も無視もできない。
自己の基準があれば、現実批判はできる。
自己の基準がなければ批判もできない。
非難も出来なければ、閉塞感はつのる。
英米の概念を日本語訳したものが疑問もなく認め続けられる限り、日本社会は閉塞するばかり。
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アメリカ支配が続くのは、何で?
93128 > アメリカ支配とは、旧観念支配
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/22 AM10 【印刷用へ】

> アメリカ支配が続くのは、何で?
> 91944 アメリカ支配とは、旧観念支配
> 馬場真一  ( 36 東京 農業 ) 05/06/02 PM10 【印刷用へ】
> アメリカ支配の本質は、旧観念支配にあるのではないでしょうか。

旧観念とは、日本語に訳された英米人の考えではないでしょうか。92580

> 世界一の経済大国とはいえ、その内実は財政赤字、貿易赤字が膨らみ続け、消費体質の国家であり、決して本物の力(生産力、体力)があるとは言えないでしょう。また、軍事力は高いとはいえ、今や一国の軍事力で他国をどうこう出来る時代ではありません。

「力は正義」(Might is right.) ではありませんか。83579

> そのような状況の中でのアメリカ支配とは、他国がアメリカの言うことを聞いてしまう、従ってしまうということだと思いますが、そこでのアメリカの理屈は、「民主化」「自由化」であり、その根拠としているのは「自由、個人、人権」といった旧観念だと思います。

旧観念とは、日本語に訳された英米人の考えではないでしょうか。92540

> 元々これら旧観念が広まっていったのは、市場という場によって、私権獲得の可能性が開かれた為に、その追求に都合の良い倒錯観念が、蔓延っていったのだと思います。それを最も強力に推進してきたのがアメリカでしょう。この価値観念は、元々が自我・私権を正当化するものであるから、この理屈を用いる限りは、自我・私権の強い者ほど勝っていくことになるのだと思います。

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニーは、<人は城、人は石垣>の中で次のように述べている。

日本の大学は明治維新後、主として西欧の文物の翻訳所として設立された。東大の前身が翻訳所だったように、欧州の大学も再発見されたルネッサンスの古典文学の翻訳機関としてスタートしたが、欧州の場合はもっと大地に根をおろしていた。 、、、、、逆に日本の大学は決して周囲の社会と関係を持たなかった。というのは、大学のヒエラルヒー的な[序列的な]機構がどれだけ昔ながらの日本のパターンを踏襲しようと、学習内容は主として西欧のものだからである。思考方法とテキストの内容が学生たちの育った土着的伝統と違うだけではなく、個人、家族、階級の比較的重要な問題におけるように、それは土着的伝統と鋭く対立もした。84909

> 結局、アメリカの主張する旧観念に対して、他国の統合階級、殊にマスコミの拠り所もこの旧観念にある為に、暴君アメリカに追従せざるを得ないのが、現在の情勢ではないでしょうか。
この、アメリカの”唯一の根拠”たる旧観念を解体することが、アメリカ支配を打破することになるのだと思います。

英語の日本語訳は、場合によっては無力であるどころか、国民的な混乱を招くばかりである。83530
その混乱は、我が国にとって危険この上もないものである。92856
我が国の有識者・知識人は、英語で考える力をも養うべきである。
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共認回路と自我回路
92993 > 自我と共認と境界
寺嶋眞一  ( 68 静岡 無職 ) 05/06/19 PM10 【印刷用へ】

> 共認回路と自我回路
> 92940 自我と共認と境界
> 佐々木美穂  ( 22 秋田 会社員 ) 05/06/18 PM10 【印刷用へ】
> 自我と共認の境界ってなんだろう、と最近の様子を感じて思っていました。
> 結局は当事者意識の有無なのかな、って思いました。

日本語のように実況放送・現状報告の内容ばかりでは、当事者意識は湧いてきません。つまり、話者は常に傍観者に留まります。82057

> 当事者意識が無いということは、単なる傍観者にすぎなくて、ただの他者否定や自己正当化になってしまいます。

他人を批判するには、自己の基準を提示する必要があります。82123
自己を正当化するときも同様な過程が必要です。日本語では困難を伴います。

> でも単なる他者否定や自己正当化のものでは共認されるはずも在りません。

自己の基準を提示しなければ理性判断とは認められず、相手を説得することも出来ません。82057

> でも共認欠乏は常にあって。
> 共感・共認して欲しい。分かって欲しい。

相手が自分の考えを了解しなければ、自分に意見がないものと錯覚してしまうのでしょう。
実は、相手の了解の有無にかかわらず、自分の意見はあるはずです。

> そこであたかも自分が正しいかのようなつじつま合わせが必要になってくる。
> そしてそこで問題のすりかえがおこるわけです。

自己の基準が提示できれば、辻褄合わせや問題のすり替えを考える必要もありません。81994

> 当事者意識があるのなら、思考は原因追求や現状理解に向かうはずです。
> 「どうしてこうなっているのか」「どうしたらいいのか」に向かうんですよね。

実況放送・現状報告の内容では、当事者意識は湧いてきません。つまり、常に傍観者に留まります。91717
意思があれば、方法がある。その逆も真である。90887

> でも傍観者だから、単なる否定にしかならない。
> 変えていこうという意識が感じられないし、きっと持っていない。

意思がなければ、変えていこうという意識が感じられない。82180

> でも一方で自分の現実に対する不全はあるから、そこは共認したくて、してほしくて、共認できるような内容をくっつ> けて、自己正当化しようとする。

気はもめるが無為無策に終わる。90887

> 結局は自我発の他者否定・自己正当化。
> そして傍観者。

「我、関せず」は、日本人の典型的な態度。91717

> でも共認欠乏はあって。
> その共認の中身は自我。

他人と心を合わせるには、哲学が必要である。他人を動かす信念は、自己の哲学でなくてはならない。
無哲学・能天気では、ことを成し遂げることは難しい。82144

> 自我と共認。
> なにかおかしい、と思う一方で、確かにそうかも・・・と納得してしまうようなことが多いのも本当のことで。
> そこでふと、省みて構造的に考えてみることが大切だなって思いました。

日本語の構造に問題があると考えます。82057
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