どうしたら、社会を変えられるの?
91888 > 人々の意識を顕在化させることがこれからの社会活動
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/06/02 AM11 【印刷用へ】
> どうしたら、社会を変えられるの?
> 91882 人々の意識を顕在化させることがこれからの社会活動
> 山田孝治 ( 31 東京 デザイナー ) 05/06/02 AM01
> 「社会を変える」と言われてもピンと来ない人がほとんどだと思います。
変わったら困ることも多々あるものと考えられます。82144
> そして多くの人がそんなことは無理だ、と思っているのではないでしょうか。
> 「社会を変える」とはどういう事なのか、改めて考えてみる必要があると思います。
同感です。84082
> 社会を変える、というと、何か現行の法制や社会制度を変えると思う人が多いと思います。確かにそれをやろうと思ったら膨大なエネルギーが要るし、そもそも私たち素人には不可能に近い課題です。
> だから「社会は変えられない」と不可能視したり、あるいは政治家や官僚など、社会制度を扱うことが出来る一部の人に要求するだけで結局は傍観者に成り果てたりするのだと思います。
> 既存の社会運動に可能性を感じないのも、運動の目的が「制度を変える事が出来る人間に圧力をかける」という様な、不可能視発、傍観者発の運動になってしまっているからだと思います。
同感です。84571
> 社会を構成しているのは法や制度ではなく人であり、人々の意識そのものである。
> 多くの人はその事に潜在的には気付いているのだと思います。
> 社会が変わると言うことは、人々の意識の変化そのものなのだと思います。
同感です。84432
> 旧来の社会収束軸が統合力を失った現在、次代の収束先を探して人々の意識は確実に変化してきています。
> しかしその意識の変化と旧来の社会の制度や観念にはまだまだズレが有ります。
> 私たちが違和感を持つのは、この意識と制度のズレから来るのだと思います。
人々の意識の変化に関する内容が問題です。82251
> 古い制度や観念は確かに大きな壁です。
> しかし制度を変えれば人の意識が変わる、と言う物ではないと思います。
> むしろ逆で、人々の意識が制度を変えて行くのだと思います。
同感です。84165
> 社会を変える、その為には制度改革を要求するのではなく、人々の意識の変化を顕在化させることなのだと思います。
同感です。84217
> そしてその為の活動は、今までの傍観と要求だけの社会運動に変わる、真に社会を対象化した変革可能性のある活動になると思います。
同感です。傍観と要求だけの世界は、伝統的なまつりごと (政) の世界ですね。82242
リンク
リンク
この投稿は 91882 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_91888
--------------------------------------------------------------------------------
思考パラダイムの逆転
91780 > 意識=現実という認識のすごさ
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/31 AM04 【印刷用へ】
> 思考パラダイムの逆転
> 91767 意識=現実という認識のすごさ
> 庄恵三 ( 50代 神奈川 営業 ) 05/05/30 PM11
> <<生存圧力から同類圧力へと場が移行したと云うことは、場=現実が、同類圧力=人々の意識そのものが形成する圧力、の場に成ったことを意味する。つまり、今や現実とは意識である。だから現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない。>> 20355
> 「現実とは意識である」というこの認識は、読み返す度ににすごい画期的な物謂いであると感心させられる。
同感です。
日本人には、現実しか意識できない。
それは、日本語には現実構文 (現在構文) しかないからである。90887
> それまでの何千年間、人々は貧しさから逃れ少しでもいい暮らしをするためには塗炭の苦痛や理不尽な扱いにも我慢を受け入れてきた。
>しかし今大半の人にとって当座の明日の生活を心配する必要が無くなったということは、、、、、自分達の「意識」次第で自らの生活を変えられる可能性が開けたということである。
現実構文の内容を深めることにより、現実の問題は解決するかに見える。我々は、いよいよ目先・手先の即物的な問題を解決できることに自信を深めた。この世の支配が可能かに見える。91529
> 現在の子供達の不登校も若者のフリーター化やニート化も、明確な言葉で表現はしないが若者達の現実変革の可能性を探る動きとも見れる。
> しかしまだ可能性が開かれたということと、その可能性に気づくということの間には大きな断層がある。
だかしかし、現実構文の内容をもって、未来社会の内容を描ききることには無理がある。それは、次元の違った考えの内容であり、日本人にとって実感を伴うことのない信じがたい内容だからである。それで、日本人の頭の中では未来に関する内容は白紙であり、未来に関する不安は払拭できない。90895
> その断層が埋まらない原因が所謂「個人が基」や「平等」に代表される「旧観念」によることは既に明らかだが、一方でそれが人類にとって「共認」が一番ということの何よりの証拠であり、恐ろしさであろう。
「個人が基」や「平等」に代表される英米人の考え方は、日本人の考え方にはなじまない。
これらの努力目標は、形而上の考えであり、現実の世界では観察できないからである。
つまり、これらの発言は日本人の実感をともなわない内容だからである。91213
> しかし共認である限りはそれは人々の意識次第でいつでも可変であり、私権が衰弱した現在、何ら物理的な制約(強制力)は無い。
> つまり頭をチョッと切り替えたらほんとは仕舞いのはずであるが、問題はこの旧観念。
> だからこそ、しがらみの無い街頭で、旧観念を洗い流す場としての「なんで屋露店」の存在意義があるといえる。
旧観念とは、英語の考え方を受け入れることのできない、日本語による考え方ではないでしょうか。91215
リンク
リンク
この投稿は 91767 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_91780
--------------------------------------------------------------------------------
マスコミによる共認支配の怖さ
91717 > 傍観者たることが第一義という姿勢
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/30 AM02 【印刷用へ】
> マスコミによる共認支配の怖さ
> 90617 傍観者たることが第一義という姿勢
> 亀若雅弘 ( 40代 大阪 塾講師 ) 05/05/13 AM11 【印刷用へ】
> JR福知山線の事故からJR西日本が糾弾されつづけていますが、その報道のされ方が余りにも、悪者=JR西日本という図式一色に塗りつぶされているようです。
同感です。
> マスメディアの怖さは
> @報道の義務という正義感を振りかざせば、何でも許される。
> A真実の報道ができるのは自分達だけである。
> B事実を伝えられるのは我々だけである。
> そう信じ込んでいる姿勢を取り続けていることです。
刃物は、利器にもなれば凶器にもなる。
マスメディアも同じこと。
要は、それを取り扱う人間の質の問題である。82251
> そして、当然のごとく、上記の悪者=JR西日本という図式を受容者たる我々に押し付けていることです。> ですから、事故後の不祥事(ボウリング大会、宴会、ゴルフetc)をあたかもスクープ(殆どは内部からの情報)という形で競争しつづけているのです。
マスメディアは、気分・雰囲気を伝えたいのでしょう。82285
> しかし、こういった情報を垂れ流すことが、社会にどういう影響を与えるかをマスメディアは考えていません。
> 我々に公共的な旅客運送(電鉄会社、航空会社etc)への不信感を煽るばかりです。今後の安全面での取り組みは政府の方針を打ち出すだけで終了。
とかく、この世は無責任。82476
> マスメディアのこういう傍観者たることが第一義という姿勢を真摯に貫いていることは滑稽の極みです。> こういうふうに傍観者が社会統合を担っているのですから、社会は活力を失うばかりです。
実況放送・現状報告の内容を伝えることはできる。だが、それ以上の内容を伝えることは、日本語では無理。
「我、関せず」である。それ以上のことを望めば、記事の中で事実と自分の意見が区別できなくなる。82354
> こういった不信感や閉塞感を蔓延させてしまって、尻拭いもできないマスメディアの方が社会の敵ではないでしょうか。
言語に問題があるのではないでしょうか。82240
リンク
リンク
この投稿は 90617 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_91717
--------------------------------------------------------------------------------
発想の逆転:需要ではなく、仕事=供給者を作り出す
91529 > 生産の場=教育の場
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/27 AM01 【印刷用へ】
> 発想の逆転:需要ではなく、仕事=供給者を作り出す
> 91483 生産の場=教育の場
> 西村真治 ( 38 滋賀 建築設計 ) 05/05/26 PM07
> 昔は、教育と生産の場が一体であった。農業しかり、小売しかり、自営業が多かった。親の仕事を手伝いながら、そこでいろんなものを学んでいたし、学校を出ていなくっても、生活(=生産)に困らなかった。
昔のように、目先・手先の事柄だけを考えていれば、日本人に教育の問題はなかった。
> 現在の社会と分断された学校で、社会の役に立たない勉強をするより、今後は、生産の中で学ぶシステムに教育制度を変えていく必要があるのではないだろうか。
社会の役に立たない勉強をするのは、日本人が英米人の真似事を始めたからである。
英米人の高等教育は、実学・技術ではない。科学・哲学である。
科学は、実社会では役に立たない。科学は技術に応用されて、はじめて実社会に役立っている。
現在の社会と分断された学校は、このようにして出来あがった。
今後、生産の中で学ぶ実学・技術のシステムに教育制度を変えていくのであれば、英米人の高等教育は、我が国には必要でなくなる。
だが、政治を通して我々の社会を理想的なものに近づけるには、政治哲学が必要である。
また、我々の技術を高度化してゆくためには、科学に基づく必要がある。
だから、我が国の高等教育機関にも科学・哲学は必要である。
だが、科学・哲学の考えは即物的ではないために、日本人には理解し難い。
気短な判断に走ることなく、日本人の考え方を深く掘り下げて更に考察する必要がある。82285,82251,82242
リンク
リンク
この投稿は 91483 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_91529
--------------------------------------------------------------------------------
共認形成の場を作ってゆく活動こそ、真の社会活動
91215 > 旧観念をなんとなく捨象するだけでは傍観者のまま
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/22 AM03 【印刷用へ】
> 共認形成の場を作ってゆく活動こそ、真の社会活動
> 91212 旧観念をなんとなく捨象するだけでは傍観者のまま
> 村田頼哉 ( 33 高知 企画 ) 05/05/22 AM02
同感です。
私の考えでは、旧観念は日本語に相当しますので、そのように置き換えてみました。
> 答えを出せないにも拘わらず観念支配を行っている特権階級は然ることながら、潜在思念でなんとなく支配観念を捨象しているだけでは傍観者に留まってしまう。
> >充足基調の底流が、安定・調和を旨として危機感・閉塞感にフタをすべく、出来合いの「自由・個人・人権」etcの標語への表層収束を促し、統合階級による観念支配を後押しする。(19273)<
> 日本語を全的に否定することを困難にしているのは、個人の活力(源)を維持させるものは全て日本語に依拠しているからではないだろうか。
> 従って、日本語を全的に否定しまうことは、活力(源)を完全に消滅させてしまい、結果として己の存在も否定してしまうことに繋がると思い込んでいるように思われます。
> とは言え、そのような日本語で活力(源)が上昇しているかと言うとそうではない、現在の日本語では活力(源)を維持、あるいは衰退を遅らせるだけでしかないのが実態ではないでしょうか。
> つまり、閉塞していく(良くても現状維持)だけで可能性のない日本語に表層であるにせよ収束しているということになる。
> だとすると、そんな日本語に囚われるのはおかしなことである。
> 皆も薄々は気付いており意識は変わっているはずであるが、社会制度そのもの(日本語)は何ら変わることなく存続しており、皆の意識が日本語に絡めとられているのが現在の状態を示しているように思われる。
> そもそもの原因は社会不全⇒社会収束しているのに答えがないという一点に尽き、そこには日本語が一切通用しないのである。
> そうであるならば、己の存在などという個人的な思い込みは捨て、そんな役に立たない日本語は全的に否定し、傍観者から脱却し社会不全=みんな期待に応えていくことは唯一の可能性を示しているように思われます。82476,82285
リンク
リンク
この投稿は 91212 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_91215
--------------------------------------------------------------------------------
既成運動(政党やNPO)が、社会を変えられない理由
91213 > アタマではわかるんだけどやっぱりピンとこない。
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/22 AM03 【印刷用へ】
> 既成運動(政党やNPO)が、社会を変えられない理由
> 91211 アタマではわかるんだけどやっぱりピンとこない。
> 中野恵 ( 27 岡山 秘書 ) 05/05/22 AM01
> >経済破局にせよ、精神破壊にせよ、環境破壊にせよ、それらの危機は全て観念によって把握された危機であって、(現段階では未だ)本能を直撃する様な危機ではない。> 環境問題って、一応アタマではわかるんだけどやっぱりピンとこない感じがする。
観念によって把握された内容には、実感が湧かない。
実感は、この目で見たとか、体に触れたとかいう体験によりもたらされる。体験は本能を直撃する。
> 経済問題も以前は実感できなかった。> けど、なんでや劇場で“経済問題の本質はGDPなんかじゃなくって活力低下”(69586)って話を聞いて、活力低下なら確かに実感できるしやばいよなって思った。
活力低下は、実況放送・現状報告の内容であるから、確かに実感できる。
> 環境問題も、森がなくなるとかきれいな川がなくなるとか、今の捉え方が少しズレてるのかもしれない。だからピンとこないのかもしれない。
森が存在するのに森がなくなるとか、きれいな川が存在するのにそれがなくなるとか言っても、それは実感できない。
それらは、実況放送の内容でも現状報告の内容でもないからである。それらは現実とは次元の違った内容である。90887
リンク
リンク
この投稿は 91211 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_91213
--------------------------------------------------------------------------------
何で新理論(構造認識)が必要なの?
90895 > 現実直視するために
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/16 PM11 【印刷用へ】
> 何で新理論(構造認識)が必要なの?
> 90888 現実直視するために
> 久保田彰子 HP ( 27 福岡 OL ) 05/05/16 PM10
> いいコに見せようと演じてみても、全て周りのみんなはお見通し。
> どんな自分でも、誰も否定してなんかしていないし、みんな受け入れてくれている。ただみんな充たしあいたいだけ。それが全て。
> そういう、現実直視すること。
> ありのままを、ありのままに受け入れること。
> 自分の中の思い込みを一切捨てて、現実を見る。
日本人に現実直視は難しい。現実 (うつつ) の中に、夢 (未来に相当するもの) と幻 (過去に相当するもの) が混入するからである。
夢幻の内容は、未来構文と過去構文がなくては、現実 (現在) 構文から独立できない。
だから、夢と幻は、日本人の頭の中の雑念となる。
雑念を打ち払わないと、現実構文の内容をまとめることは不可能である。
> 思い込み・幻想混じりの旧観念では、現実を直視することも不可能。
同感です。思い込み・幻想混じりの日本語思考では、現実を直視することも不可能である。82285
だから、目の前の事柄に精神を集中することは、日本人の伝統的な修行の一つとなっている。
リンク
リンク
この投稿は 90888 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_90895
--------------------------------------------------------------------------------
学校生活の悩み相談
90887 > 頭(観念)発ではなく実感(潜在思念)発
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/16 PM10 【印刷用へ】
> 学校生活の悩み相談
> 90880 頭(観念)発ではなく実感(潜在思念)発
> 首藤真英 ( 20代 京都 社会人 ) 05/05/16 PM10
> 頭(観念)発ではなく実感(潜在思念)発でないと、自分も含めあらゆるものが変わっていくことは出来ないのではないかと思う。
頭だけで考えたことには、実感が湧かない。
だが、事実・現実には、実感がある。
我々が現実に働きかけて変革をもたらすには、その意思が必要である。意思のあるところに方法がある。
意思 (will) は未来構文の内容で、頭だけで考えたことである。実感がない。
日本語には未来構文はなく、日本人には意思がない。
だから、危機に対しても無為無策に陥りがちで、自分も含めあらゆるものを変えてゆくことが難しい。82057
とはいえ、実感(潜在思念)により行動を起こすと、腹芸のようなものになって、理性的な解決にはつながらないのではないでしょうか。
リンク
リンク
この投稿は 90880 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_90887
--------------------------------------------------------------------------------
どうしたら現実に役に立つ認識を得られるの?
90820 > 「言葉」のなかに、もはや答えはない。
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/15 PM11 【印刷用へ】
> どうしたら現実に役に立つ認識を得られるの?
> 90797 「言葉」のなかに、もはや答えはない。
> 東努 ( 27 大阪 建築士 ) 05/05/15 PM08
> 言語で説明できるレベルを超えた対象把握能力。
それは、アニマルのような対象把握能力でしょうか。
> 医療や福祉その他「現場」に立ち、直接圧力を感じて働いている方々とお話をすると、「言語」を超えた生の認識と言うものを感じることがあり、それらは理論化されているモノでは無いことが多いのですが、妙に「正しさ」を感じることが多かったりします。
全ての考えは、文章で表現される。文章で表現されないものは、考えではない。気分・雰囲気は、歌詠みが追求するもの。確たる理想にはならない。
> 一方で、そんな方々がその経験を誰かに伝えようと、筆を執って自らの経験を言葉にし始めると、なんだかおかしなことがおこってしまう。ほとんどの病院・福祉施設で掲げられている「理念」などはまさにそれで、ほとんど何を言いたいのかわからない、意味のない言葉がつらつらと並べ立てられているのがほとんどで、「実践」では全く役に立たない上っ面の言葉だけになってしまうことが多いように思う。
日本語には、現実構文しかない。だから、日本人は即物的なことしか語れない。
現実構文の内容が実践で役立たないのはおかしいですね。
現実構文の内容として形而上の事柄が語られているからではありませんか。
もしそうであるならば、その内容に実感など湧かない。現実離れがして空理空論となる。
> 「理念化」されていくたびに流産していってしまう、生の認識。
ナウな感じは、理想化できない。
> それは流動的な「対象」に対し、固定的な「理念」を以って答えを生み出そうとしたこと自体に間違いがあるのではないかと思う。
同感です。
日本語には、現実構文しかない。
だから、日本語は、実況放送・現状報告のための言語となっている。
理想は、’You shall not kill.’ のように未来構文で表される。だが、これは英語を使ってのこと。
こうした次元の違いは、日本語では表現されえない。
> 流動的な対象を正確に把握するために必要なのは、異なる条件をもとに状況の変化を把握し答えを導き出すための思考回路の構築であり、その「回路」こそが、日々変化していく現実に適応するために必要とされる答えの源泉なのだと思う。
同感です。
> 私たちは言葉を以って「答え」を知るけれど、一度発され固定化された「言葉」の中には、もはや答えはない。
日本語で理想を語れば、それは嘘になる。というのは、理想を現実の内容と考えることが出来ないからである。
日本人には、理想を理想として受け入れることが難しい。
この現象は、日本人の悩みとなっている。
リンク
リンク
この投稿は 90797 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_90820
--------------------------------------------------------------------------------
東洋と西洋
90774 > 住所
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/15 AM09 【印刷用へ】
> 東洋と西洋 90746 住所
> 山田純子 HP ( 23 滋賀 OL ) 05/05/14 PM10 【印刷用へ】
> 住所を書く時のことを思い出してみて下さい。
> 日本では、都道府県名→市町村名→番地・・、という順番で書きます。
> 大きなところから、だんだんと自分の家へと近づいて行く感じです。
> ところが、アメリカをはじめとする欧米諸国では、
> 番地→市町村名→都道府県名・・という順番です。
> まずは、自分の家を中心にだんだん広げて、書いていきます。
> 住所ひとつでも、自分を中心に考えるか、みんなの中のどこどこって考えるかっていう違いがはっきりと出ていてとても面白いです。
> こういった、日常生活の中で「そういうもの」と思い込んで使っているものこそ、西洋と東洋の根本的な違いを表していると思います。
同感です。
英語では、東京の板橋区は、板橋区・オブ・東京になります。
山田家の太郎は、太郎・オブ・山田家になります。
英語のオブ (of) は前置詞、日本語「の」は助詞 (後置詞) だからです。
こういった、言語生活の中で「そういうもの」と思い込んで使っているものこそ、西洋と東洋の根本的な違いを表していると思います。
リンク
リンク
この投稿は 90746 に対する返信です。
この投稿に対するトラックバックURL http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_90774
--------------------------------------------------------------------------------