ガタガタの原因は、私権の衰弱と序列原理の崩壊
90706 > 思考停止・・・していることにも気が付かない。
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/14 PM05 【印刷用へ】
> ガタガタの原因は、私権の衰弱と序列原理の崩壊
> 90687 思考停止・・・していることにも気が付かない。
> 松下直城 ( 42 大阪 塾講師 ) 05/05/14 PM00
> >今や、日本人の大部分は不安と閉塞感に囚われ、多かれ少なかれ滅亡の危機を感じ取っている。
日本語では意思が通じないから、お互いに先は見えない。内容を口に出すことも出来ない。不安でもあり、閉塞感に襲われる。82285
>>しかし、感じているだけで何もしようとはしない。
意思がなくては、方法もない。(Where there’s a will, there’s a way.) 歌詠みの悲劇でもある。
>>誰もが滅亡の危機を感じているのに、誰も正面からこの問題を考えようとはしない。
未来構文がないので未来のことは考えられない。
未来のことを現実構文の内容で言い表しても実感が湧かない。信じられない。
滅亡の危機を未来の問題として正面から考えることができない。
> >それは、日々が平穏に過ぎてゆき、本能を直撃する様な現在形の危機圧力=生存圧力が殆ど働いていないからである。
現在構文の内容に問題は見つからなくなった。
それで、昔ながらの無哲学・能天気の状態に立ち返った。82144
> たしかに社会は閉塞しており誰もが不全を抱えているにも関わらず、毎日がのほほんと過ぎていっているような感覚です。「滅亡の危機」を前に「不気味な沈黙」とは言い得て妙である。
英米人も、自ら望まずして危機に陥る大和民族を不思議と見ているようです。
> 内圧が外圧に既定することからすると、どうやら多くの人々にはまだまだ「滅亡の危機」がリアルに感じるほどではない状態なのだろう。取り敢えず喰い逸れのない生活の中では漠然と抱く将来への不安はふと頭をよぎるものの直ちにフタをしたらおしまいである。
「とりあえず、、、、」が考えの全てである。時制のない考え方では、刹那は永遠ということか。82320
> 70年以前のシャカリキに私権を求めていた時代から豊かさを手に入れた現在、「平和ボケ」やら何やらと言われても我関せずで目先の(己の)欠乏を満たそうとする程度でまさに「等身大」から脱却できない。っていうか、その必要すら感じられないほどに耳障りのいい旧観念の支配共認の下で骨抜き状態である。
望ましい気分・雰囲気を求めるのは、この国の伝統である。
> 私権のみを唯一絶対課題とする中で、すべてのシステムは作られ、あちこちでガタの来た現在でさえそのフレームを残したままだから、人々に潜在意識と現実がズレている。
日本語には未来構文がないから個人主義 (individualism) と利己主義 (egotism) の区別が付け難い。82123
> そんな中、一つ言えることは、この私権衰弱や序列原理の崩壊といった流れは加速こそすれ逆戻りはしないということ。
とはいえ、個人主義と利己主義の取り違え、及び、「上と見るか、下と見るか」の序列観念は、日本語を話す民族の一種の宿命のようなもの。
> 私権にしか反応しない脳回路に楔を打ち込むことが必要だ。
利己主義にしか反応しない脳回路に言語による楔を打ち込むことが必要である。82251
> 市場社会の可能性はどんどん萎んでいくばかりだという事実を受け止めなければならない。
意思のないところに方法はない。昔ながらの諦観が必要になるわけか。
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閉塞の元凶は、個人主義
90638 > 個人主義を捉えるために
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/13 PM02 【印刷用へ】
> 閉塞の元凶は、個人主義
> 90616 個人主義を捉えるために
> 藤原聡博 ( 44 島根 会社員 ) 05/05/13 AM10
> 個人主義を語る場合、欧米と日本を区別して受け止める必要があると考えます。
同感です。82180
> 但し欧米では、個人の自由を建てる代わりに幼少の頃よりしつこく、その裏面にある責任を叩き込みます。日本ではそう> いう教育はなされていません。この点が決定的に違います。
同感です。82193
> そもそも日本には「個人」という観念は長い間ありませんでした。
> 近代と呼ばれる時代に入り、欧米の思想がほぼ無批判に導入されてから日本流に鋳直された形で敷衍して行きました。
> 日本の歴史において「個人」の自由・権利の獲得のために血が流れた出来事はありません。
> つまり「個人」という観念のためには革命が起こらなかった世界でも稀な国なのです。
同感です。82144
> もともと村落共同体を基盤として発展してきた日本には、「仏教観」が人々の生活の根底にあり、それは西洋の「個」の思想とは相容れないものなのです。従って日本人の個人主義とは、周知のとおり限りなく利己主義に形でしか捉えられていません。
同感です。81994
> 欧米から接木の如くくっ付けられた「個人主義」という体のいい身勝手主義に基づく履き違えを払拭するには、とてつも> ない時間と労力が要求されることは必至ですが、これ以外に現代の日本の、とりわけ若者(独身者、既婚者を問わず)を中心としたあらゆる病理を根底から改善してゆく方途が無いことだけは確かだと確信します。
同感です。82057
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閉塞の元凶は、個人主義
90612 > 「自分の意見」を言うことについて。
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/13 AM05 【印刷用へ】
> 閉塞の元凶は、個人主義
> 90603 「自分の意見」を言うことについて。
> 長手議司 ( 23 大阪 会社員 ) 05/05/13 AM00
> 小学校のときに、学級会というものがあった。それは、道徳の授業に似ていて戦争や人権に関する文章を読んだり、それらに関する映> 画を見てみんなで感想を言っていくというものであった。
> その中で、先生からよく言われた言葉が「自分の言葉で説明しなさい。」とか「自分で考えなさい。」などである。そして、意見で求めら> れるのは、自分独自の観点からみているかということである。確かにその人独自の意見を言うことはすごいなとは思っていたが、それ> を全員に求めることは果たして正しいことなのだろうか。
それは、全員の努力目標ではないですか。
> 一方で、「自分の意見を押し付けてはダメ。」ということを先生はたびたび口にしていた。これは、意地悪く捉えれば、どんなに良い意> 見でも結局それを受け入れるかどうかは自分次第ということにならないだろうか。
公表される意見は、出来るだけ多いほうが良い。有権者の選択肢がそれだけ増える。
商品が棚に整然と並べられた状態でしょう。買い物客にとっては都合がよい。特別な店員から特別の商品を押し付けられるのは迷惑である。
> そうであれば、どんな意見も垂れ流しにされるだけで何の変化もうみださないだろう。
社会の意思が決定されなければ、何の変化も起こらない。意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思がなければ無為無策になる。84819
> しかし、おそらく先生が求めていたことは他者との関係を円滑にすすめられるようになることを求めていたのだと思う。
社会の意思決定には民主的に多数決を採用すれば、他者との関係を円滑にすすめられる。そのためにも、意見の選択肢は出来るだけ多いほうが良い。
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潮流4 焦りの適応主体と目先収束
90184 > > 90157 「ポスドク」就職難、でこれからどうする?
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/05/07 PM03 【印刷用へ】
> > 90157 「ポスドク」就職難、でこれからどうする?
> > 田中修 ( 26才 東京 会社員 ) 05/05/07 AM00 【印刷用へ】
> 「ポスドク」という言い方は初めて聞いたが、大学生活を振り返ってみても「ポスドク」に該当するような人が何人> かいたのを思い出した。
私も若いときにポスドク (postdoctoral fellowship) を米国の大学で経験しました。
> 1年間で約2300人も増えているのは(その分母がどれくらいいるのか定かではないが)、随分多いように感じる。
ポスドクの人件費は研究費の中に含まれているので、研究主任が研究計画を拡充しなければ、ポスドクの増員は望めませんでした。
> 最早、大学という場は安定した場ではなく、そこでの身分は不安定であることは明らかだと思う。
大学が不安定であるというよりも、ポスドクの身分が不安定なのではありませんか。どこの大学でも優秀な人を研究主任として迎えることを望んでいるから、自然淘汰が起こるものと考えられます。
> 僕自身「科学(知識)の必要性」は「新しい社会の必要性」を感じた時に自然と感じたが、「ポスドク」の人達には、> 例えば露店で「新しい社会の必要性」を感じてもらい、そして「科学(知識)の必要性」を感じて欲しい。
私の友人であるニューヨーク州在住の小学校教員は、就職後5年以内に大学院修士の称号をとることを職務継続の条件とされていました。社会に対する大学院教育の必要性は、今後も増すばかりでしょう。
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思考パラダイムの逆転
89021 > 不可能な理由を考えるより実現基盤を捉える。
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/04/17 AM03 【印刷用へ】
> 思考パラダイムの逆転
> 89014 不可能な理由を考えるより実現基盤を捉える。
> 長谷暢二 HP ( 37 山口 農業 ) 05/04/17 AM01
> 何かを実現して行こうとする場合、まず、相手や課題を対象化することから始まる。ところが、一定の方針が出て、対象、課題に働きかけをした結果、思ったとおりに進まないという状況にしばしば直面する。
> ここで、大きくは、2パターンの行動に分かれると思う。
> 1つは、なぜ出来ないのか、あるいは、実現基盤はどこにあるのかを徹底的に追究するパターン。
> そして、次の方針を出し、行動し、また、その結果をフィードバックするということの繰り返しのうちに実現に向かって前進していく。
> もう1つは、思ったとおりに進まない理由を考えて、自らを納得させるパターン。
> これでは、何も実現できない。
> 両者の違いは何か?
両者の違いは、意思があるか、ないかの違いである。意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 84819, 83249, 82240, 82057
これらは、実は、決定的な違いでしょう。82193, 82180,
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潮流2 本当は集団に入ったのではなく社会に出たのだ
88971 > 帰属の軸の転換
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/04/16 PM09 【印刷用へ】
> 潮流2 本当は集団に入ったのではなく社会に出たのだ
> 88950 帰属の軸の転換
> 藤原聡博 ( 44 島根 会社員 ) 05/04/16 PM01
> 「根無し草」という表現があったが、この感覚は自身を振り返ってみても、非常によく分かる。ある集団に入ったものの、その先に何があるのか、何のためにそこに所属・帰属ているのかという根源的な問いに対する答えが見つからず、また判らずにとりあえずそこにいるという感覚は根深くつきまとっていた。
何のためにそこに所属・帰属ているのかという根源的な問いに対する答えは、日本人の序列思考にある。
「上と見るか、下と見るか」の判断は、日本人の常である。それは、日本語に階称 (言葉遣い) があるからである。82023
序列的発想に従って、日本人が序列を作る。その序列協力により、世の中を切り抜けている。82373
「義理 (序列) が廃れば、この世は闇だ」との考えは、本当のことである。
> 「社会人」とは呼ばれてはいたが、「社会」へ帰属したという観念はなかったように思う。
不特定多数の集まりであれば、序列感覚は生まれにくい。だから、「社会」へ帰属したという観念も生じない。85091
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
88345 > 超国家・超市場論19 もう、傍観者=インテリ統合階級は、要らない
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/04/04 AM09 【印刷用へ】
> 素人に、何が、どこまで創造できるか?
> 32569 超国家・超市場論19 もう、傍観者=インテリ統合階級は、要らない
> 四方勢至 ( 老年 京都 編集 ) 02/06/02 AM03 【印刷用へ】
> 既に述べた様に、人類の命綱は共認にあり、従って認識形成こそ社会形成の生命部である。ところが、これまでは人類の命綱である共認形成の要(かなめ)の位置に、学校(教師)や大学(学者)やマスコミ(報道人や文化人)が陣取り、一握りの知識階級が人々を染脳し、共認を支配してきた。
最近では国際交流が盛んになって、交流する国の数が多いだけお目にかかる外国語の数も増えている。私は、国立大学に教授として勤務して、時間の浪費と考えられることがらがいろいろあったが、その一つの作業が英語の日本語訳である。
英語を使えば、数多くの外国語を修得しなくても一つの言葉で足りる便利さがある。
だが、役所では英語が通じない。必ず英文の書類には、日本語訳をつけるように要求される。学問とは関係ない事柄であるが、役所は、その訳文を必要とし、役人はその訳をしない。それを学者自身がやるはめになる。外国から品物を買った場合の往復文書の訳。外国の学会から招待を受けた場合の招待状とその逆の場合の訳。論文捏造の疑惑を解くためには、裁判所に英論文の内容の日本語訳までも求められる。こうした訳文に時間が食われてしまう。英語の理解は、今なおその他の外国語と同じく、専門的な知識であるとの考えからであろう。テレビに限らず、英語の内容を日本語で解説して権威ぶる人も多いが、情報の風通しの悪い環境がそれを成り立たせているのである。「日本では、翻訳者が尊敬されているのですね」と、英米人が感想を漏らす。英語を第二の公用語として、有識者・知識人に英語で考える力をつけさせる必要がある。そしたら、英語圏との間に特別な情報解説者をおく必要もなく、この国も情報大国として様変わりすることであろう。
イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<プールサイダー>で、「評論家」に関して下の段落のように述べている。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
87086 > プロは、新しい構造認識を創り出す事ができない。
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/03/10 AM06 【印刷用へ】
> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 87037 プロは、新しい構造認識を創り出す事ができない。
> 田村正道 ( 42 京都 建築士 ) 05/03/09 PM05
> そうした改革の提起は、いずれも小手先であって根本的な解決にはなっていない。
> 時代閉塞とは、そうして、将来の展望を失い、可能性を見出せなくなったという事だと思う。
> なぜ小手先なのかといえば、制度の問題でも心の問題でも、その根幹部分の枠組みに踏み込んでいないからである。 社会の問題というと漠然としており、普通、経済の問題とか、教育の問題であるという風に構造化されて「問題」として捉えられ、夫々の研究者や行政がその解決に向かうようになっているが、そういう枠組み自体温存されたままだからである。
> 社会の根幹部分を変える事ができず、閉塞したままなのは、
> 社会の諸制度を司っているのが、学者や官僚など、まさにその制度によって(存在基盤である)専門領域を保障された専門家(プロ)だからこそ変えられないのではないのか?
日本語は、現実構文しかない言語であるから、日本人は目先のこと・手先のことに注意を集中しなければならない。
これは精神の統一と呼ばれ、日本人の修行の中に入っている。雑念を打ち払うための修行である。
考えは頭の中の働きであるから、実況放送の内容にもならなければ、現状報告でもない。考えは雑念である。
日本人の頭の中では、現実構文の一つの席をめぐって現実と考えが常に争いを繰り返している。
白いものを黒だと言い張れば、日本人には白は見えなくなる。だから、議論ができない。
白が現実の内容で、黒は個人の考えで、これが英語であれば、時制があるので現実 (現在構文) と考え (未来構文) を区別することができる。
白をどうして黒と呼ぶのかは個人を対象にした議論になりうる。
これは、個人のリーズン (理性・理由) を求める議論である。創造的な議論である。
英米人の考えでは、真理は、現実からは見えないところに隠れていると考えられているからである。
これが日本語であれば、事実認定の為の論議を越えることはできない。
日本人の議論がとかく新鮮味のないものになるのは、このためである。
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
86547 > 寺嶋眞一さんへ
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/03/01 AM05 【印刷用へ】
> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 86151 寺嶋眞一さんへ
> 佐藤英幸 HP ( 42 新潟 塾長 ) 05/02/22 PM09 【印刷用へ】
>>日本人のどのような思考法ゆえに、『ものを考えないのか』、もう少し切開する必要があるだろう。(86128 吉国幹雄さん 「なぜ現代人は深くものを考えられなくなったのか」)
> 私は、寺嶋さんは吉国さんのこの投稿へのお答えを有しているのではないかと考えます。ただ、できれば新観念を外国語だとお思いになって使用していただき、私にもわかるようにご解説していただければ幸いです。
英米人の言ったことを日本語である思って考える。日本人の言ったことを英語であると思って考える。翻訳の練習をする場合には、どこの国でもこのようになるのでしょうが、これは外国語による発想の習得にはなりません。そのどこかがおかしい。たとえば、英米人が”Good morning.”ということは、日本語で本当に「お早う」といったことになるのであろうか。この種の疑問は、英語を英語だけで学ぶ場合には、生じることはありません。
英語は日本語と等価ではありません。日本語を外国語であると考えることは難しいことです。それは、英語を日本語であると考えて教育する今の我が国の英語教育と同じ欠陥を持っております。この事実を無視することは、日本人が「英語で考えることができない」という根本的な問題から抜け出せないことになります。
米をライスと言い換えるような即物的な表現には問題があまりありません。頭を使って考えた内容は、現実とは次元を異にしています。つまり、頭で考えたことは、現状報告の内容でも実況放送の内容でもありません。(82057) すでに現実離れを起こしている内容です。聞き手は、現実離れした内容を聞いて一向に実感が湧かないので信じることができません。
昔から、「話にうつつ (現) を抜かしてはいけない」と言われています。うつつとは、現実のことであり、目先・手先の事柄であります。つまり、現実構文 (現在構文) には、現実の内容しか盛り込むことができないということになります。日本人の考え方では「現実は否定できない」であります。(82615) 現実を否定する内容は、頭で考えられたものであり、現実肯定主義の日本人とは「話が合わない」ことになります。
さらに言えば、深くものを考えること自体が、日本語の原則に反する使用法であるとも考えられます。(82285) プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)が『ものを考えない、考えられない』理由は、その考えの内容が日本語の構造を超えた異次元の世界にあるからです。つまり、現実の上に加えられた個人の見方が現実構文の内容に入りますので、日本語を使って形而上の内容を語ることは、搭載能力を超えた負荷を言語にかけることになります。私が佐藤さんにもわかるようにこうした内容を解説することは、非常に困難なことです。日本語同士で話し合うと馬が合うというのでは、混乱と馴れ合いの内向き思考になります。未来への発展にも海外との連携にもつながりません。そして、その問題解決にもつながらないことが、閉塞感を招きます。日本語の世界に閉じ込められて歴史は繰り返すということになるのでしょう。
これから先は余談になりますが、メンタリティの問題は、外国人の考察の対象ともなっています。マブバニ博士 (Kishore Mahbubani Ph.D.) は、シンガポールの国連大使でありますが、彼は1998年に「アジア人は考えることができるか」(Can Asians think?; 1998, Times Books International) という英文のエッセイ集を著しました。アジア人は考えられるか、考えられないかの問題について、過去数世紀のアジアの記録から判断すると答えはNO、よくても非常に良くはない、でありました。私は、アジアの言語として日本語以外は知りませんが、彼の指摘する現象は、国際的にも興味を引くものであることが考えられます。おそらくアジア言語の構造に起因するものでしょう。
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
86134 > 0からの協働をお願いします
寺嶋眞一 ( 67 静岡 無職 ) 05/02/22 PM04 【印刷用へ】
> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 85859 0からの協働をお願いします(>>>> 日本人の素人を過小評価しないほうがよいのでは?)
> 佐藤英幸 HP ( 42 新潟 塾長 ) 05/02/17 PM09
> 寺嶋さん、真摯にお答えいただいて本当にありがとうございます。
> いろいろと考えさせられます。また日本人の共通の悩みでもあります。
> 私は寺嶋さんに興味があります。だけど英語に対応させるという結論ではなく、探索仲間として一緒にご協力願えませんでしょうか。
日本人のメンタリティの問題点について真剣に探索している類ほど大きなグループは、他に見当たりません。それで、私も議論の仲間に加えていただきました。私は、自分では探索仲間として一緒にご協力しているつもりでおります。
しかしながら、自分の考えを英語に対応させることは、非常に大切なことであると考えています。
司馬遼太郎は、<以下、無用のことながら>と題する本の中の<日本仏教小論>で、ドナルド・キーン博士の言葉を掲げています。
「日本史をみていると、学問や思想上の巨人がでます。しかし孤立しています。巨人が出て学問や思想が展開されたあと、そのあとの人々がそれを深く掘り下げるか、べつな方向にべつなものとして展開しそうなのに、その巨人だけで終りますね」と書いています。
指摘された現象は、歴史的に見てこの国の仏教に限らないことでありましょう。日本語では、学問・思想に関する議論ができません。(85449) だから、その後の展開・発展もないということになるのでしょう。いつも歴史は繰り返すでは、立つ瀬がありません。
江戸時代にも、それ以前にも、日本語に基づいた日本人固有の考え方はありました。しかし、日本人の考えは、西洋の言語との対応がつかなかった。それで、明治維新以後、日本人は西洋人の言葉を片っ端が和訳しました。日本語という自国語で高等教育の出来る国となった。そして、日本人は、西洋語と日本語との対応を見て、西洋人と日本人の理解は一致するものと勝手に想像した。だが、現実を見るとどうしてもおかしいことが起こります。それは、日本人のプロが英米人のプロに対応する冴えた働きをしないからであります。頭の働かせ方が違っているだろうと推測されます。
英語を使えば、考えをまとめる作業が容易になります。だから、文献の数も多くなります。英語の書籍が世界中で読まれます。日本語では、考えがまとめられません。頭を使う作業に難渋します。だから、文献の数も多くなりません。日本語の書籍が世界中で読まれることもありません。実学の本は別として、プロの本は役に立たないからであります。
現状を打開する方法は、3つほど考えられます。1.日本語の改良。2.エスペラントのような人工語の開発。3.英語の習得。以上の3つが考えられますが、3.が最も手っ取り早く、しかも確実な方法であると考えられます。
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