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個人主義の大切さ 寺嶋真一さん 公務員 2001年03月24日 投稿
目の前の事柄に関する陳述は誰しも同じでなくてはならないが、未来の事柄に関する陳述は、人・人により、その内容が違う。個人が存在するということは、即ち個人の構想が存在するということである。個人主義とは、個人の構想を大切にすることである。個人が存在しないのであれば、個人の選出は成り立たない。それでも選出されたというのであれば、個人主義の利点は失われた選出になっているということになる。このときは、個人主義が利己主義・恣意主義に成り代わっているのである。こうした選出は、何回繰り返しても、その本質が変わることはない。デカルトの言う「我思う。故に我あり」は、未だに日本人には、理解されていない。金儲けの構想は、狭義の自己利益。だが、この世のあり方の構想は、狭義の自己利益ではない。職人大學・モノ作り大学は、日本人に理解できても、大學の教養部は受け入れることが出来ない。自由に構想を描く楽しみを味わっていない人々は、共産主義のような画一的な行政を望んでいる。一向に苦にならない。さもなくば、為政者の恣意と自由が一体となって人々を苦しめるからである。金儲けの話はいざしらず、個人構想が払底している社会に於いては、社会の責任者は床の間の置物にたとえられている。「長・トップは、何か事故が起きた時に、処分されるためにおいてあるのだ」と言う人もいた。この種の処分により、人心を平らかにすることができるのであろう。日本武尊東征の折、相模海上で波風の起こった際、海神をなだめるために日本武尊に代わって海に投じた弟橘媛はえらい人か。不況下で、荒れすさんだ人心を静める為に辞任を決断する森首相はえらい人か。いまも昔も為政者に政治的なことは、関係がない。心を静める政が重要視されているからである。人々は、恣意による心の満足を求めている。聞き分けがない・理性がないといえる。英米であれば 「シェィム・オン・ユー 」(恥を知れ) である。日本人には、この種の恥は理解されていない。日本人の恥は、ひとえに自己の序列順位に根ざしたものである。基準のない世界に於いて、正義を訴えて出ることは成り立たない。正義感が出るのは自己の「あるべき姿」を信ずればこそである。だから、信念・構想のもてない人は、全てに於いて「どうか、ことを荒立てないで欲しい」と言うことになる。戦後、日本人は忠君・忠孝の努力目標を失った。忠もなければ勇もない。日本人は、自由意思を恣意と誤って解釈し、民主的にビジョンを選択する為の制度をコンセンサス指向にすり替えた。かくして、わが国は構想なき自由・民主の時代となった。1074 文字
党員の意思 寺嶋真一さん 公務員 2001年03月22日 投稿
意思を尊重するということ来る自民党の総裁選びには、一般党員の意思を尊重するというが、毎度のことながら、選挙に当たってビジョン・哲学の選択肢が有権者に示されることはない。ビジョン・哲学がないということは、個人の意思と言うよりも恣意の尊重ということになる。このことは、議員であるか、一般党員であるかに関係ないことである。ビジョン・哲学がないということは、政治音痴はおろか人生そのものの音痴であることを自覚しなければならない。198文字
まつりごと 寺嶋真一さん 公務員 2001年03月18日 投稿
政と生贄政治不信が経済を悪化させている。ジャーナリズムの人選びに関する焦点の合わせ方に問題がある。人選びとなれば、事あるごとに選挙法の改正を持ちだす。どのように選挙法を改正しても、それによりわが国の輝かして未来像など出ては来ない。だが、その人選びは、ビジョン選びに繋がらない。現実肯定主義者にとっては、ビジョンに関する事柄は鬼の笑う話であろう。兎に角、どのように選挙法を改正しても、意見なき家畜の品評会は肉体の選出に終わることに変りない。現代におけるわが国の選挙は、神代のまつりごとに類するものであって、英米型の政治指導者選びになっていない。これでは、何回やり直しても、政治的に結果は同じである。現今のわが国の混迷は、ビジョンに関する混迷であって、肉体に関する混迷ではない。脳と身体を取り違えてはならない。犠牲者とは、いけにえ (生きたままニエとして神にそなえる生物) のことである。つまり、意思・構想を持たない動物が他人の意思により命を奪われることである。意思・構想を持たぬ日本人の責任者の辞任は、正に犠牲者である。終戦直後に言われた「犠牲者を出すな」は、正に真言と言わなければならない。意思・構想を持った人物を指導者に選べばこのような犠牲者とはならない。いけにえ作りをこのまま続けて、わが国の経済をさらに悪化させることをはすべきでない。564 文字「日本人に英語は必要である」寺嶋真一随筆集 ISBN4-7974-1495-2新風舎 電話03-5775-5040 URL http://pub.co.jp
進退 寺嶋真一さん 公務員 2001年03月11日 投稿
首相の進退3月10日の夜、報道陣が、自民党5役との会合で「進退を5役に伝えるのか」との問いに、森首相は「いたしません」と辞意表明を否定した。にもかかわらず「首相、事実上の退陣表明」の見出しばかりが各々新聞紙上に目立っていた。この矛盾を突かれて、ある報道関係者は「でも、事実はそうなるでしょう」と答えていた。これは、日本のマスコミの拙さを露呈したものである。彼等は、いつもながら「事実」と「解釈」の区別がつかない。彼等は事実を自分なりに読んで発表する癖がついているのである。これは、山部赤人が富士の姿を読むのにも似たもので、我が国人の伝統ではあろうが、個人の勝手な解釈に属する発言である。優雅ではあろうが、こうした憶測は議論の対象にはならないし、個人の考えを示す論評にもならない。要するに、ミックスは駄目なのである。この種の発言は問答無用の世界に属する風習であり、わが国の言論界を毒している元凶であるといっても過言ではない。全国民に及ぶこのメンタリティーが、わが国の政治を三流にしている。433 文字
国家の危機 寺嶋真一さん 公務員 2001年03月04日 投稿
現在の国会議員には、新たなる政策の選択肢を改めて提示し、その中から新しい政策の一つを決定するという考えはない。何年かかけて自分の個人意見を有権者に理解してもらい、来るべき首相選びには選択肢の一つに加えられようにとする心がけもない。国会につめている議員は烏合の衆と化して、新たなる肉体の選出を目論んだ現首相の人身御供により国民の荒れた心を静めようとしている。歴史的に繰り返される短命政権に議員・有権者が頓着しないのは、わが国の未来に対する定見がないからである。わが国の国会は、かような原始宗教から脱却する時期に来ていることを指導者たちは自覚しなければならない。民主的であり、かつビジョン中心の知的な選択なくしては、望むことなく国家的危機に自ら陥る愚かな国民性を露呈することになる。339 文字
辞任要求の空しさ 寺嶋真一さん 公務員 2001年03月04日 投稿
「森さん辞めてくれ」の声には、政策的な選択肢がない。こうした辞任要求の声は気分・雰囲気の一新を狙った動きであろうが、このやり方は従来のやり方を踏襲していて、わが国の政治を良くするものにはならない。それどころか、このような陋習に身を委ねていれば、我が国民の得意とする感情理論により理性・理由を排除するものとなり、望まずして自ら危機に陥る国民性を露呈することになる。わが国の歴史を語る語り部は、丸暗記の詰め込み主義によるものである。従来型の経験の蓄積では、温故知新は無理である。温故知新は、事実から現存しない次元の違った(現実離れのした) 考えを引き出すことにある。この方法により我が国民が努力すれば、わが国の現実は政治によりまったく新しい方向に変化して行くことが可能になる。335 文字
検察政治家 寺嶋真一さん 公務員 2001年02月24日 投稿
国会議員の犯罪は検察官にまかせるべきである。政治家は、わが国の政治にいささかも狂いが生じることのないようにしっかりやってください。検察官が政治をやったり政治家が検察の仕事をしたりして、年がら年中国会内を混乱に陥れることのないようにくれぐれも注意してください。検察官には検察官の本分があり、政治家には政治家としての本分がある。どうか、本分を弁えた政治家になってください。政治とは何であるかを理解していない三流政治家に惑わされて、一時たりとも政治に緩みが出ないようお願いします。237 文字
首相と沈没 寺嶋真一さん 公務員 2001年02月20日 投稿
えひめ丸の事故について言えば、日本は、アメリカに衝突されたのである。なぜ、加害国のアメリカの大統領が辞任せずに、被害国の日本の首相が辞任しなくてはならないのか。それは、日本の首相がケチをつけられたからである。つまらぬケチがわが国の首相の政治生命を危ういものにしている。悪い習慣である。ケチを付けられて首相が辞任を繰り返していて、わが国の政治がまともな働きをするとでも思うのであろうか。短命指導者の繰り返しにより、国民は何を得ようとしているのであろうか。国会には、国政のことを考える力もなく小競り合いのみを事とする議員達がひしめいている。これらの低級議員を国会から一掃しなければ、わが国は三流政治から脱却することはできない。311 文字
IT革命の落とし穴 寺嶋真一さん 公務員 2001年1月7日 投稿
日本人は、国を挙げてIT革命に国の発展をかけているようであるが、用心が必要である。インターネットは、文章ばかりではなく、図形も統計も送受信ができる。安価に大量に集められるデータも必要であるが、これらのデータを見たときの個人の意味付けが非常に大切である。大きな魚が小さな魚を見つけた時と、小さな魚が大きな魚に出会った時では、同じ出会いでもその立場により意味合いが違ってくるようなものである。つまり、個人単位でデータを読み取る力が必要である。さもないと、将来の日本人は精神部分の抜け落ちたロボットのようなものになる。個人の意見の払底した日本のような国では、シンポジュウムとアンケートばかりが重要な意味を持つものとして取り扱われている。人々は、「世の中は、、、」の口実を得るために注目しているのである。非個人主義である。例えば、どの政治家も「国家戦略が必要だ」と発言する。「A氏の国家戦略が、特に優れている」と言った次元での話し合いはしない。つまり個人主義が見られない。これでは、幾ら座談会に時間を費やしても優れた戦略は出来上がらない。文法上の制約が、日本人の知的発達を妨げている。政治家がこの程度の知的能力で通用するのであれば、個人主義を育む高等教育も必要でない。英文で考えるとは、英文法に従った考えの筋道を明らかにすることである。「日本人の考え方は、いったいどうなっているのか」と質問されて、日本文法に従った考えの筋を、英文法に載せて説明することは、容易なことではない。大体が、これに失敗して、国際社会において奇異な人のように見られる。英文で考える時の「あるべき姿」は未来形の文章である。日本語で考えた「あるべき姿」は、構文に載らないので、全て言外の意味になる。「その心は、、、、」というやつである。この方式では、議論にならない。心の中にあるものは、必ずしも理屈に叶っているものばかりではないからである。これが、腹積もりの限界である。いくら情報関連産業を発展させても、言外の意味を読み取る、日本人の得意とする「察し」は発達させられない。以心伝心も勇み肌も腹芸も、IT革命の外にある。つまり、日本人が外国人に向かって言いたいことは「お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか」と言うことである。情報格差は、言語格差により齎されている。言語格差は思考格差の基礎をなし、これを放置して置いてはやる気も起こらず、折角の情報機器も粗大ゴミと変わりない。従って、わが国は、世界中から意味を吸収するだけのブラック・ホールのような存在になると予想される。1065 文字