事実って、何?
172280 >>事実認識は思考を通して得られるもの
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/12 AM09
> 事実って、何?
> 3043 >事実認識は思考を通して得られるもの
> 飯野均 ( 24 学生 ) 01/04/10 PM02 【印刷用へ】
>>事実認識は思考を通して得られるもの(田村春信さん)
> レスありがとうございます。田村さんの主旨は、「事実認識」は幻想認識とは違って大事である、ということなのでしょうか? その点は私も同意です。また、事実認識と幻想認識には根本的な違いがある、とも考えています。政治や裁判などの現実的で真剣な局面では、事実認識が否応無しに重要視されることに意義を鋏む人はいないでしょう。
事実は現実、幻想は非現実ですから違っていますね。82354
>>そこで、それが必要なかったり、認識されては都合の悪い人は、思考停止すれば良いのですから絶対的なものはないと主張して憚りません。思考停止を不可知論を唱えることで正当化し科学的な免罪符とすることはすこし悪質です。
思考停止は、無哲学・能天気ですね。83225(正誤表 : ありがた節→ありがたや節)
絶対的なものはあるでしょう。ただし、それは個人的なものです。92540
個人に基準がなければ、個人に判断ができない。95182
日本人にも英米流の高等教育が必要ですね。156835
さもないと、我が国は教育あって教養なしの国になる。94775
> 「絶対的なものはない」という考え方は重要だと思います。また、不可知論的な態度が悪いとも思いません。ただし、それは思考停止するためではなく、かえってなるたけ理性的であろうとする態度からくるものです。また、この態度は、異なる考え方をもつ人間に対する偏見をなくし、寛容に接することにも役立つと思います。
人さまざまですからね。128685
> 誤解しないでいただきたいのですが、むろん誰しも生活する上で様々な判断をしています。それらは暫定的ではあっても、その人が今の時点でだしている最上の解答でしょう。難しい問題に対して、「不可知」の一言でさじをなげるつもりは毛頭ありません。
「閉塞感、仕方がない、諦観」による無為無策はよくないですね。165417
暫定ばかりの内容を永遠の内容につなげる努力も必要ですね。148423
> といっても、仮説を事実のように断定したり、科学でないものを科学といったり、非論理的なものを論理的といったりすることがあれば、容赦なく指摘するつもりです。
「矛盾を育むことなかれ」ですね。98634
> また、現実問題に対して解答を出せるのが、あるいは出す権利のがあるのが、事実追求の科学だけである、とは思いません。感情、感性、直感、といった、別の原理をもったものも考慮に入れる必要があると思います(考慮に入れるとは、それらを科学的に説明するという意味ではありません)。
別の原理とは、歌詠みのようなものですね。83415
> なぜなら、人間は理性だけを指針にして生きているわけではないからです。従来の世界観を形成してきた、宗教や倫理感覚を、安易に単一な方法で切り捨てるべきではないと思います。
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で理性について以下のように述べています。彼の考えは我々の日本語脳の常識とは違いますが、英米人の考え方として暗記しておく必要があります。これは、我々の安全のためです。161592「日本の常識は、世界の非常識」かもしれませんね。126749
理性とは客観的な普遍性だ。これにおいて相手より少しでも優位に立つことをおたがいに繰り返していくこと、つまり野蛮な状態からより良く遠のき続けるプロセスをとおして、個人と社会とのあいだに生まれるさまざまな矛盾の解決法が、模索される。模索されやがてそこに生まれてくるのは、自由や民主あるいは基本的な人権などだ。これらの理念は文字どおり身を挺して守り抜かなくてはならないものだから、守る現状に時として血が流れるのは不変の大前提だ。(引用終り)
> そもそも、純粋な客観的事実の中には「価値判断」というものが存在しません。科学的考察をもって、○○は善い、悪い、という判断はできないはずです。例えば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに、科学的な解答を求めるのは見当違いと考えます。また、「我々はどう生きるべきか」、この問いに対しても同様です。
自明の理というものがありますね。171839
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その他
172234 > 社会と自分について
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/11 AM02 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 5300 社会と自分について
> 嶋田早紀子 ( 21 学生 ) 01/06/15 PM07 【印刷用へ】
> 「社会」とは一体何者なのだろう?> 辞書には、人々が寄り集まって共同生活する形態、とか世の中、世間などがあげられている。> 実際、社会の実態など誰も見たことがないかもしれない。
「社会」は、抽象語であるから、理解が難しいですね。84641(正誤表 : 外国語の話しが→公用語にの話が )
非現実の言葉は日本人にとって難しい。その現実を知るには、実社会の方に入る必要があるのでしょう。83415
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、「日本語は現象を観察して表出することを、能力的特徴としている。なにか具体的なものがないと、言葉になってこない。どこにも実体のない観念的なもの、たとえばノーバディというような言葉は、日本語では言葉として存在していない」と述べています。この場合、「ノーバディ」とは、代名詞の ’nobody’ (誰 [一人] も 、、、、、 ない ) のことですね。
> 社会は甘くない、厳しいところだとは聞いていても結局のところは他者に受け入れられなかったり、拒絶されて自分が通用しなかったときに使う逃げ道のような気がする。
「社会は 、、、、、」という表現は、昔からある表現の「世の中は 、、、、、」というようなものですね。だが、世の中は、現実のこと。社会は、非現実のこと。132515
> どんなに失敗を繰り返しても、周りにすぐに理解されなくても確固とした自分の信念をもってして何事にも取り組んでいれば社会というモノに対する考え方も変わってくるだろう。
理想的な社会の内容が必要ですね。それは、非現実の内容のこと。93383
> こんな社会だから何をしても駄目だと嘆くよりも、むしろ社会は自分次第で変えていけると、我慢したり努力したり、一人で出来ないときは誰かに呼びかけ生きていくことが大切なのではないか、と思う。
同感です。128057
「意思のあるところに解決方法はある」のですね。82057
意思の内容を示せば、協力者も現れる可能性が出てきますね。103724
何をしても駄目だと嘆く必要はありませんね。閉塞感と諦観に別れを告げましょう。162125
それには、合理的な解決法が必要ですね。148136
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テレビが面白くない理由
172070 > 解脱と共認を一つの箱から垂れ流すことで支配を強めたテレビとマスコミ
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/08 AM03 【印刷用へ】
> テレビが面白くない理由
> 172065 解脱と共認を一つの箱から垂れ流すことで支配を強めたテレビとマスコミ
> 匿名希望 08/03/08 AM00
> 貧困の圧力が高かった時代、解消先としての解脱は、一定必要であっただろう。
> テレビ登場前までの、解脱欠乏を満たすための解脱といえば、代表的なものとしては、演劇や映画が思い浮かぶ。
> 観客としてではあったが、同時に多くの人と、同じ空間を共有し、他の観客の笑いや涙等の息遣いを感じられ、解脱充足を高める場でもあった。
浪花節調でしたね。91933
> 一方、共認欠乏は、「どうなっている?みんなどうしている?」といった、状況・情報の把握へと向かう。
> テレビ登場以前は、新聞やラジオがその役割を担っていたといえるだろう。
> そこでは、活字や音声のみといった、テレビ時代の今から考えれば、制約のある中での情報であり、逆に言えば、受け取る方にも、想像力を働かせ、考える余地が残っていた。
「ありのまま」 (現実) と「思ったまま」 (非現実) の違いですね。172008
> そこに、テレビの登場である。テレビのすごい所は、一つの箱の中で、解脱と共認、両方の充足が、ドラマやニュース等、様々な放映番組として、居ながらに得られる事である。
自分の体験した、限られた小さな範囲が世界の全てですね。172008
> 登場当初こそ、街角やせいぜいお茶の間に1台程度であり、近所で集まってや、家族の団欒として、共有できる空間を作り出していたが、普及と共に一家に一台から一室で一台、個人で一台にまでになっている。
> 最近では、さらに、ワンセグとして、携帯電話での視聴を始め、どこでも持ち運べ見れることを売りに宣伝され、一部でもてはやされている。
> 個人への普及・浸透という点では、もはや行き着くところまで、いった感さえある。
同感です。167819
> このテレビの登場・普及に伴い、解脱と共認の両方を一手に牛耳ることが可能になったマスコミの影響力と支配力が強大化したのは、ある意味、当然ともいえる。>(お笑い芸人等を起用し、事実収束の流れにのったクイズ番組やドキュメンタリー番組等のバラエティー番組は、解脱と共認の両方をミックスした、ある意味、巧妙な番組といえるかもしれない)
無哲学・能天気の人たちは、受け売りの種を必要としているでしょうね。93613
> しかし、社会閉塞が深まる現代においては、支配観念に染まったマスコミが作り出すものでは、答えにならないばかりで、ますます閉塞感は増すばかり。
意思のないところに解決方法はありませんね。82057
> いくらテレビを携帯化し視聴させる機会を増やそうとしても、また番組を巧妙化させようとしても、もはや、答えの出せないマスコミとテレビは、早々、見捨てられ、見向きもされなくなるだろう。
理想と現実を並置して、現実を理想に導くための筋道だった方法を明らかにすることが必要ですね。146599(正誤表 : 実現の意思→実現する意思)
日本語脳の持ち主には、これは無理かもしれませんね。167639
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実現論って、何?
172008 > 事実の直視
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/06 PM08 【印刷用へ】
> 実現論って、何?
> 1172 事実の直視
> 門田やすし ( 22 学生 ) 01/03/11 AM01 【印刷用へ】
>>「事実を追求しろ」という言葉にどれくらい実効性があるのか。 > という内藤さんの疑念には私にも肯けるものがあります。
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、日本人の「ありのまま」について以下のように述べています。
小学校の国語の授業で作文を書くとき、日本の先生たちは、感じたとおりを書きなさい、思ったとおりを書きなさい、と生徒たちに言う。ありのままに書きなさい、と言う先生はたいへん少ないのではないだろうか。「ありのまま」と「思ったまま」の違いは、天と地ほどに大きい。そして「ありのまま」という言いかたには、なにか悪いことをした人にそれを自白させるような語感が、日本語ではつきまとう。ありのままとは、いけないことなのだ。(引用終り)
> 固定観念を捨てるということは並大抵のことではなく、現実を直視し事実を追求しろ、といわれても自分に都合の良い世界に安住していたいと思うのが人情だと思います。
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、日本人の固定観念について以下のように述べています。
みんなおなじだという安心感、そしてその安心感がひとつにまとめられて生まれる強いエネルギーは、自信でもある。あくまでも枠内のことだが、人間とはこういうもの、人生とはこういうもの、世界とはこういうものというふうに、こういうものという固定観念が代々の継承をへて強固に練り上げられ、世界認識にとっての多大な、しかもたいそう固い自信となっていく。人間とはこういうもの、という固定観念からはずれるもの、そしてそれは基本的には日本語世界以外の人たちすべてだが、そういう人たちは良くてせいぜい珍奇なものでしかなく、通常では無視や無関心の対象にしかなり得ず、したがって存在していないに等しい扱いを、そのような人たちは受けることになる。(引用終り)
> むしろ、都合のいい世界に身を、心を委ねてそこそこの生活が出来るのであれば、それを捨てようと思える人は少ないのが現実だと思うからです。
同感です。146694
> それどころか、示された現実が不愉快なものであればあるほどその原因に対してよりも、それを告げたものに怒りを覚えるものではないでしょうか。
普遍的な価値であるはずの原則というものに対する無視や無関心ですね。168322
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、日本人の現実主義の世界について以下のように述べています。
目に見える物、手に取ることの出来る物、自分にとっての具体的な得、などのみに関心を示す生きかたは、現実主義の究極に近い生きかただ。人間関係の場ひとつひとつのなかで、自分にとって利得というしがらみを最優先してそれに縛られている生きかたは、現実に貼りついた生きかただ。その生きかたのなかでは、自分の体験した限られた小さな範囲が世界のすべてであり、その外へは出られないし出たくもなく、出る必要もない。(引用終り) 146284
> それでも、状勢は惰眠を貪っていられるような状況にはないと思います。また、現実を見つめ、事実を追求するだけでは大した実効性はないと思いますが、どうやってその現実を変えるかという現実性のある方策と、現実を変えることによって、どう良くなるかという明確なビジョン、以上の二点を有することが出来るならば、それなりの実効性は得られると思います。そして、それには体現者と賛同者が少なからず必要であると思います。
アングロ・サクソンのメンタリティの体現者と賛同者が少なからず必要であると思います。82373
そうすれば、明確なビジョンが得られるものと考えられます。167639
> フランスの有名な諺に半分が見方につけば大したものだ、という言葉があります。どんな優れた意見も万人を納得させることは難しいし、全員が賛成する意見の方が危険であるという意味だったと思います。
同感です。127406
意見は、人それぞれですからね。131961
> 疑念は確かにありますが、世の中に浸透するにつれて、晴れるものだと思います。
どうやってその現実を変えるかという現実性のある方策は必要ですね。82057
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その他(認識論・科学論)
171991 > 「個性」より「役割」
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/06 AM11 【印刷用へ】
> その他(認識論・科学論)
> 65668 「個性」より「役割」
> 長谷川文 ( 36 経理 ) 03/12/16 PM10 【印刷用へ】
>>近代の自我にとって「名前」はとても重要のようで、世界に一つだけとか、アイデンティティーの根幹をなすものとか思われているようですが、そんな近代の影響を受けていない人々にとっては、個人の「名前」なんかどうでもよく、むしろより群れ(集団)における役割の方がよっぽど重要のようですね。(蘆原さん)<<65424
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、日本語の性能について、以下のごとく述べています。
、、、、、 普通のホテルへいくと、フロント・デスクの背後に、部屋ごとに鍵やメッセージを入れておくための、細かくいくつにも仕切られた棚がある。日本語によるなら、世界とは、たとえるならあの棚ではないのか。 、、、、、その人は自分とどのような関係を結ぶかということに関する判断に応じて、どの人をももつとも適切な枠の中に収める。人というものすべてを、自分との関係で判断していく作業は、人というものは基本的には自分と利害が対立する存在であるという、根源的な認識によるものではないのか。 、、、、、どこのどの枠に入る人なのか、その枠によって人をとらえる。個人そのものには、さしたる関心はない。重要なのは、あくまでも、どの枠にその人が収まるかだ。そのような世界では、個人という存在が確かにあるという前提で議論される自我や個性などとは、人は最初から無縁だ。したがつて彼らに自我や個がないことを責めるのは、日本語の性能を責めるのとおなじで意味のないことだ。(引用終り)
> 日本人にとっても「個人」っていう考え方自体が実はなじみにくい概念なんじゃないかと思います。 だから、学者の人は「本当の個人というものは・・・・」とか言って西洋のモノの考えかたを改めて説明したりしてる。フツーに「個性を大事に」って言っちゃう人が本当に欲しているのは、どっちかというといろんな役割を積極的に見出して応望していくのが大事、というようなことや、私権社会の枠組みを脱したいというようなことなのかなあと。
英語と日本語は、まつたく違う言語ですね。具体的ものごとだけを話すときにはその差は支障ないが、抽象的なことを話すとなるとどうにもならない。146694
日本語脳の中にあるのは、身分格式の世界でしょうね。97858
学者の人は英文和訳によって抽象概念に関する知識を外国から得ているのですから、それを日本語で話すと空理空論となりますね。127915
我が国の有識者・知識人は、英語のみでも考えることのできる能力が必要ですね。82285
> 旧くなってしまった私権社会の枠組みやそれに付随する役割が崩壊し、社会の統合軸が分らなくなってしまった今、「個性」とか「個人」がクローズアップされてるけど、蘆原さんの投稿を読んでいて個性のための個性、個人のための個人というのはありえなくて、必ずなんらかの役割とセットになっているってことなんじゃないかと思いました。> 「個性を大事にしよう」っていうよりも「みんな期待を対象化して、新しい役割を見つけよう!」って言った方がわかり易いと思いました。
「東は東、西は西」ですね。82320
これらのミックス・ジュースによる中毒が、我が国の戦後の混乱を長引かせているようです。128704(正誤表 : のでは、日本語で→のは、日本語で )
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その他
171926 > 変革は自分次第
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/05 AM03 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 9278 変革は自分次第
> 菅原正輝 ( 27 埼玉 建築士 ) 01/08/28 PM09 【印刷用へ】
>>武力によって意識を支配されているのではなく、マスコミや学校の教育によって共認させられてきた(共認してきた?)のだから、この既成の共認内容(=支配観念)から、新しい共認内容への転換が絶対不可欠である。9244
同感です。絶対不可欠です。82320
我々の精神文化は、我が国の伝統によるものですね。128172
我々の言動は、理詰めに追求されることからは守られているというものです。98953(正誤表 : 測るべきである→計るべきである )
日本人の思考のプロセスは、西洋と対照的に、非合理的、非論理的、状況即応的、感情的で社会依存的だといわれています。171609
> 生まれたときから受けてきた教育は、肉体的支配ではなく、”支配”しているという実感をもたせず、変革の意識をにぶらせていたと思います。
同感です。93930
日本語が (日本語として) 余りに完璧だからである。実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できるからである。163518
> 逆に、そのことに気づき自らの意識さえ変えることができれば、変革ができる。外敵ではなく、敵は自分の中にいると考えれば、より可能性を感じます。
同感です。敵は自分の中ですね。163350
言語の問題は、言語を通して解決できると考えられます。148136
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どうしたら現実に役に立つ認識を得られるの?
171896 > 旧観念が染み付いた頭の洗濯
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/04 PM00 【印刷用へ】
> どうしたら現実に役に立つ認識を得られるの?
> 156355 旧観念が染み付いた頭の洗濯
> 匿名希望 07/07/07 PM07 【印刷用へ】
> 旧観念。> 今まで何の疑問も持たず、むしろ「正」として捉えられていたものばかりが旧観念として挙がる。> 改めて考えてみると、その中にうずもれて生活しいることを再認識させられる。> (苦しい)現実を否定し、言わば理想像として登場したのが旧観念。
現実は否定できませんね。93461
現実を確認すると、日本人は「仕方がない」という。99076
日本人は、現実肯定主義ですね。99649
> きれいなはずの言葉が多い「旧観念」の問題点は> ・現実を直視せず誤魔化している
観念は非現実の内容であるから現実離れしていますね。90820(正誤表: ‘それは流動的な、、、、、’ と ‘流動的な、、、、’ の 文頭に ‘>’ を付ける)
実感が湧かないということで、その内容が信じられない。86547
> ・何をも実現できていない> ということにあるという。
意思のあるところに方法があるのでしょうね。82057
意思は、未来構文の内容で、日本語には未来構文がない。82735
日本人は、意思を表すことがない。言いなりになるだけか。133745
> 自由でない現状があるから自由を求める。> でもその原因の追究や、答えを導くところまでは及べていない。> 確かに、自由や平等を声高に叫んではいるが叶ってはいない。
期待・願い・祈りだけの無為無策でいては、希望は実現しない。106379
現実を理想 (非現実) の状態にまで高める筋道だった方策が必要ですね。83747
その方策は未来に関する内容であるから、日本語の現実構文で語っても信じられない。だから、鬼も笑う。133657
日本人の共感は得られない。「現実は、それとは違う」とすげなく言われる。94865
だから、考えに力を合わせることができなくて何事も起こらない。95997
> 苦しい時にその救世主や理想像を浮かべることを明日への希望とする。
> そうやって旧観念は、現代日本に住む私達の想像を絶する苦しみから心だけを救ってきたのだろう。
希望や理想の内容は、日本人の頭に定着しにくい。147584
希望や理想の内容は、未来に関する内容であって、日本語には未来構文がない。84909
希望や理想 (非現実) の内容を現実構文 (現在構文) に載せて語れば、それはこの世の嘘・偽りとなる。94682
だから、日本人は希望や理想の内容を抑圧しなくてはならない。83225(正誤表 : ありがた節→ありがたや節)
神も仏もなかりけりである。無神論者か。83281(正誤表 : Eさない→殺さない )
> だからこそ、旧観念は現代まで脈々と息づいているのだ。
ありがたいお題目のようなものですね。145956
> でも現代は直面した現実に答えを求める時代に来ている。> 旧観念では救われない。> 「旧観念、ご苦労様」という時期にきているのかもしれない。> では、当然の如く「旧観念」がこってりとこびりついた頭で答えを考えるには・・・。> どうやったら旧観念を拭いさり答えを導く思考に到れるようになるのか・・・。
アングロ・サクソンの考え方を取り入れる必要がありますね。148136
> その答えのひとつに同化・注視があるように思う。> 「自分は〜思う」を一旦リセットして、あるがままを見ること。> *「自分は〜と思う」は旧観念である可能性が高い。
「自分は〜思う」の内容は、非現実の内容ですね。146135
あるがままを見ることは、現実の内容ですね。82057
どちらも必要ですね。147290
> 旧観念で個人の考えを持つことに力を注いできた人にとってそれは、一見難しいことのように思えるかもしれない。> 好きでなくても、嫌いであっても。> 丸いものを見て「丸いななぁ」と思うように周りを見てみようか。> 明日からではなく今日から早速。
現実直視の重要性は人畜共通ですね。169470
でも、考える人としての自分自身の考えも必要ですね。129394
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その他
171839 > 自分を守るための「権利」?
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/03 AM11 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 58920 自分を守るための「権利」?
> 雪竹恭一 ( 38 営業 ) 03/07/18 PM11 【印刷用へ】
> 公立の小学校でも人権教育に力を入れていて、アメリカから輸入した人権教育システムをカリキュラムに組み込んでいるところがあるそうですが、「自分のことは自分で守らなければならない」ということを大前提にして「権利」観念を叩き込もうとしている点には強い違和感を覚えます。
「自分のことは自分で守らなければならない」は、自主独立の考え方ですね。103634
私からすれば、自分の国をアメリカに守ってもらう現実の方に違和感がありますね。147762
それは、人権教育の大前提であり、それがなぜ正しい考え方なのかが教えられることはありません。
説明不要の内容ですね。これを自明の理 (self-evident) というのでしょう。125710
これを「何で、何で」と尋ね続けるのは、子供の頃ですね。152568
その考え方の根拠になっているのは、せいぜい「世の中危険なことがいっぱいである」「他人は信用できないものである」「権利を主張しなければ他人は自分を守ってはくれない」というようなことでしかありません。
経験則から得られる現実対応策ですね。128870
> 社会を対象化しようとする多感な時期に、そのような根拠のない誤った世界観が刷り込まれてしまうという点は、確かに非常に重要な問題です。
根拠となるものは経験則 (現実) であり、理想 (非現実) となるものは世界観ですね。146694
> 子供達からみれば「社会は否定的な対象である」という意識を暗黙のうちに植えつけられることになります。
「我々の社会は改善の余地を残している対象である」ということでしょう。106379
> 言うまでもなく、そのような世界観は、否定意識や被害者意識の強い人たちによる自己防衛観念にしかすぎず、私権の強制圧力が生み出した強迫観念でしかありません。
「赤頭巾ちゃん」 (Red Riding Hood) の話を子供に語って聞かせるのは有益なことと考えられます。103813
> 教育の目的が「社会に出る」人間を育てることにあるとすれば、そのような否定観念では全く可能性はありません。
理想も必要ですが、的確な現実対応策を考え出すことも必要ですね。138399
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アメリカ→官邸→マスコミの共認支配を許すな
171786 > アメリカべったりに加担する思想
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/02 AM06 【印刷用へ】
> アメリカ→官邸→マスコミの共認支配を許すな
> 139062 アメリカべったりに加担する思想
> 八代至誠 ( 46 建築士 ) 06/12/02 AM00 【印刷用へ】
> 40年間、外交官として勤め上げ、現在評論家として、一部の政治家にも
影響力のある岡崎久彦氏は、PHP文庫「幣原喜重郎とその時代」の中で平成12年2月に以下のようにコメントしている。
>>今後左翼思想の後退にともなって、日本の外交路線をめぐる論議は、親米か自主独立かの選択を中心にして行われると予想される。
そうでしょうね。122229
アメリカ人は、自主・独立を好む。102886
だがしかし、自己の基準を持てない日本人には、自主・独立 (independence) は難しい。123638(正誤表: 自主的→自主性 )
>>その場合、私の情勢判断は明白である。日米同盟さえ堅持できれば、日本は、われわれの孫、曾孫の代まで、安全と繁栄を享受できると思う。
残念ながら、そうですね。99782
一人歩きができないのですから、安全な方法を選ぶしかありませんね。139463
>>でない場合、日本がどこまで漂流するか、それは私もわからない。(リンク)
同感です。84641(正誤表: 第二外国語の話→第二公用語にの話 )
無哲学・能天気でいては、この国はどこまで流されるか分からない。82144
「鬼に金棒」の国を作る気構えが国民に必要ですね。167819
> 郵政民営化に代表される現在のアメリカ追従路線は、実は一部では、6年前いやそれ以前から、既定路線として決まっており、独自のアングロ・サクソン絶対主義ともいえる思想が、現在の政治(官邸)がアメリカべったりの共認支配に加担しているとは言えまいか?
アメリカべったりであるのは、アングロ・サクソン流の自己判断ができないからですね。94416
アングロ・サクソンのメンタリティを習得するには、英語の習得が欠かせませんね。148136
特に、我が国の高等教育における英文和訳は有害です。127915
(後略)
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プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
171609 > 二十世紀の反省、そして未来への提案
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/02/28 AM09 【印刷用へ】
> プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶
> 1705 二十世紀の反省、そして未来への提案
> 江岸元 ( 21 学生 ) 01/03/19 AM03 【印刷用へ】
(前略)
> 私は、合理主義によって人間はむしろ自由を獲得してきたように考えている。人治主義から法治主義への発展である。白黒が曖昧なとき、人は過剰に自己規制をする。その「牢獄」から逃れるため、日本人は古く中世から法による統治への努力を重ねてきた。
> また現在において私達は、法に従っていれば倫理的、従って無かったら非倫理的であるかのように、モラルの問題を判断しがちである。けれども「神」とでも言うべきものに与えられた内的な不文律と現実の法には大きなギャップがある事も確かな事実である。もちろん法治主義は国家レベルの話であって、個人が倫理と良識を保つためには、別の文化的な人間関係が必要であるだろう。
具体的ものごとだけでは、人間は満足を得られないでしょう。146694
> ところで自由主義は、理性的な自己が自分に規律を与えていれば、自由で安定した社会ができると考えていた。共産主義は社会の設計図を合理的に描きさえすれば、人間は幸せになれると錯覚した。どちらの合理主義も限界があったとわかった時が、二十世紀末であった。私は、それ以外に人間の暗黙の相互理解とか、不文律で結ばれた共同体が必要になると強く感じる。(この思想は実現論の本源収束と強くリンクしている。)
理想を実現させようとすれば、現実対応の問題を用意周到に解決しなければなりませんね。82476
さもないと、原理主義者のようなものになる。138399
> 東洋は西洋に比べ非イデオロギー的である。イデオロギーが現実の政治となった時に非寛容が生まれる。二十世紀の不幸は合理主義と反合理主義がいずれも極端に純粋化し、分裂し、さらに野合した点にあると思う。合理主義が民族憎悪と短絡するナチズムが、階級憎悪と野合すると共産主義が生まれた。今日において、共産主義のイデオロギーもほとんど消滅しつつある。そして現在進行しているものは、神を経済に置きかえるグローバル化の動きだ。
日本語の階称により育成された序列観念に従って、「下におれ、下におれ」の掛け声と共に、日本人に服従の態度が教えこまれている。150258(正誤表: –→- ; ?6年→2006年)
だから、日本人には序列差法ばかりで、自主・独立の気風が育たない。102886
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、自著 <日本/権力構造の謎・下> の中で、日本人のイデオロギーによる服従の強制について以下のように書いています。
一般の日本人に見られる異常なほどの画一化と順応は、服従の態度を体系的に教えこまれることで維持される。服従をとおして忠誠心を育て個性をなくすような人格形成が、日本の子供のしつけと教育を支配しており、大人になってからの生活でももっとも重要視される。この教育方法に力を与えているのは、一般にはイデオロギーとはみなされていないイデオロギーである。くる世代くる世代にわたって、日本人は集団の命令に従うように言って聞かせられる。日本人であるからには、集団に忠実で誠をつくしたいと思う固有の性格をもっているはずだ、というわけである。日本人の思考のプロセスは、西洋と対照的に、非合理的、非論理的、状況即応的、感情的で社会依存的だといわれている。そしてこれらが欠陥ではなく、優れていることのしるしとされているのである。この服従の文化が一般に日本人の言う “典型的な日本文化” のエッセンスであり、共同体の感性を養い、政治的方策を支え正当化する、強力で広く普及した教義の中身である。(引用終り)
(中略)
> ただ、私が欧米には無い日本の魅力を語るとするならば、「日本にはいい意味での自己否定、自己批判の精神があり、そこに新しいものが生まれる可能性を見出す。」という事がある。一方ヨーロッパ・アメリカではもう足腰が立たなくなっているのに、未だに世界中が自分の周りを回るべきだと考えている。西洋文化が、他の文化に非寛容であったり、自分の色眼鏡でしか東洋を見られなかったり、又、再生と新生は自己否定から生まれるという根源的な事を理解しない限り、それはやがて死を迎えるであろう。そしてその時、悟るのかもしれない。本源収束の道を。
我が国が「鬼に金棒」の国になるように努力しましょうね。167819
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