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閉塞の元凶は、個人主義
173340 > グローバリズムの母胎
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/04/01 PM07

> 閉塞の元凶は、個人主義
> 17740 グローバリズムの母胎
> 安冨啓之 ( 36 営業管理 ) 01/12/04 AM04 【印刷用へ】
> 井上さんの指摘の通り、「グローバリズム」は明かにアメリカの国益と繋がっています。17664 > では何故そのような「グローバリズム」を容易に受け入れてしまうのか?> 以下にある現状のグローバリズム経済について平易に子ども向けに説明した文章がありましたので紹介します。
>「今、日本は大きな変化の時を迎えている。なかでも大きな変化は、これからは「自己責任」の時代だということだ。これはお金の問題にも大きく影響する。4章でも見たように「金融の自由化」が進み、個人の選択の幅は広がる。同時に国の保護や規制は減っていく。> 自分が選んでお金を預けた銀行が倒産したり、自分で考えた資産運用に失敗しても誰も責任をとってくれない。> さらに、年金などの問題も曲がり角に来ている。老後は国に任せておけば大丈夫」というわけにはいかない時代がやってくるだろう。働けなくなったとき、日々の生活に必要なお金をどうするのか。・・・・自分で考えておかなくてはいけない。こうした「自己責任」の時代だからこそ、自分の意志、自分の価値観で「選択」するいうことが大切になってくる。
>(中略)
>だからこそ、自分の価値観で仕事を「選択」していくことが必要だ。> 実際、倒産や失業といった暗い話題も増えたが、自分の力を生かして自由に転職したり新しい事業を始めたり可能性は広がっている。「会社に頼る」のではなく、自分の力を生かして仕事を選べる時代なんだ。だから、自分は何がやりたいのか、何ができるのか自由に真剣に考えたい。」
> 〜引用終わり〜

同感です。自分の力が大切ですね。138399

(1) ごく早い時期、たとえば小学校の低学年で自己責任を関心の外に置く訓練を受け続けると、それ以後は個人としての生活の真の充実など初めから思いもしない日々のなかを生きることになる。そしてそのような日々でも幸せで快適であったりする。なぜなら、あらゆるもののとらえかたや見かたがどこまでいっても私的だから、対象がなにであれ自分の都合だけで接していくことが可能だからだ。接したくなければ見なければいいのであり、見なければどんなものでもそれは存在しないも同然となる。
そのような日々の結果として、なにひとつまともには知らないという状態が、自分のものとして手に入る。真の個人とは、正確で広い知識にもとづき、自分の頭を使って自前で考え、それに対して責任を負う人のことだが、じつはこの状態がごっそりと抜け落ちたままの自分を、自分として維持しなければならない。(引用終り)

>「個人の自由」と「自己責任」という言葉が躍る。> 要するにグローバリズムというイデオロギーの母胎は、「個人的自由」という近代イデオロギーの延長線上にあり、ひとつの帰結と言えるのではないだろうか。現実に進行するグローバル化という資本の国境を越えた運動と、「個人の自由」あるいは拘束からの自由という精神運動は重なり合った。そこにイデオロギーとしての「グローバリズム」が成立している。

「個人の自由」と「自己責任」という言葉がありがたいお題目のようになっていては、改革は進みませんね。145956

(2) なにかあったときの彼らにとって頼りになるのは、まったく鍛えられていない、したがってごく浅い主観だけだ。浅い主観や心情を絶対化し、それをすべての判断の基準に使わざるを得ない。自分というものにきわめてファナティックにこだわった状態がそこに生まれる。そのような状態は独善と言われていて、それは幼稚さと同義語だ。情緒は曖昧なものだ、と普通には言われている。それは間違いだ。情緒や主観ほど固いものはない。それは頑固さに徹底することであり、自己改革力を放棄することを意味する。(引用終り)

> こうして経済活動は、行政的規制からの自由、慣行からの自由、さらに国家・国境からの自由という方向で個人の自由を実現できるだろうと見なされた。近年の規制緩和論、構造改革、行政改革論などの思想的な意味はそこにある。
> しかし、このルールや制度を無秩序にはずす自由放任経済は、結果としてバブルを生み、著しい所得分配の不平等をもたらし、といった意味での不安定な構造をもたらしている。このような不確かなものの上にある経済はいつ反転してもおかしくないのである。

仏作って魂入れずの状態では、無為無策に近いですね。82242

(3) 浅い主観をほしいままにしていると、最後のつけはすべて自分に返ってくる。客観というもの、つまり唯一の正式な場やそこでの厳しいルール、公共性、公共財などが決定的に欠けた社会を、個人の力という改革力がないままに、最終的には個人が一身に引き受けなければならなくなる。個人にまわってくる負担が並はずれて大きくなる。しかしそれを耐え忍び、なんとかごまかしつつかわしていくという、精神にとっても肉体にとっても不健康な日々のなかに、誰しもが結果平等で囲い込まれる。(引用終り)

(1) (2) (3)  片岡義男  <日本語の外へ>  1997年  筑摩書房
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国の借金が800兆も出来たのは、何で?
173321 > 政府・自民党が独占してきた政府税制案に対抗して、民主党が独自の税制改革案
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/04/01 AM05 【印刷用へ】

> 国の借金が800兆も出来たのは、何で?
> 168103 政府・自民党が独占してきた政府税制案に対抗して、民主党が独自の税制改革案
> 猛獣王S HP ( 30代 営業 ) 07/12/29 PM08 【印刷用へ】
>>一方、民主党税制調査会は、売却益への税率を20%に戻し、配当は期限なしで10%維持とする案をまとめており、与党大綱との差は大きい。衆参のねじれの中、民主党との調整も必要で、優遇延長が決まるか、なお予断を許さない。(『08年度与党税制改正大綱 証券税制 2段階税率で運用煩雑も』リンクより)> 増税問題が国民の関心を集めている中、民主党が聖域に踏み込んだようです。> 『国の在り方が変わる兆しを感じる』(天木直人のブログ)リンクより転載します。
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> 〜前略〜
> 民主党が政府税制案に対抗して独自の税制改革案を出した事は、テロ特措法の場合と比べて比較にならないほどインパクトがある。一つには、平和や安全保障という抽象的な問題ではなく国民生活に直ちに結びつく問題であるからだ。二つには、だからこそ国民の関心が高く、国民もこの国の税制について注視するようになる。政府の独占物であった税制も、ついにこれからは国民の声を無視できなくなるからである。
>  〜後略〜
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同感です。官僚の政治ではなく、民の政治にしたいですね。106718
片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、民の政治にまつわる事柄を以下のように述べています。

戦前の憲法では全権が天皇と官僚とにあった。議会はほとんどなんの役も果たさない位置におかれた。そして法律の提案権は政府にあった。アメリカはこれを変えようとした。国民の選挙によって選ばれた代議員たちによる、代議制の国会を国権の最高の機関とし、立法の出来る機関は国会だけにしようと考えた。しかし日本は内閣を作るとき、総理大臣が提案出来るものとして、予算案その他の議案という言葉の頭に法律案というひと言をさりげなく加え、アメリカつまりGHQはそれを見落としたという。改正しなければならないのは第九条ではなく内閣法第五条だという意見を、かつて僕はどこかで読みいまも記憶している。(引用終り)
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その他
173319 > 伝わる表現
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/04/01 AM04 【印刷用へ】

> その他(社会統合)
> 30576 伝わる表現
> 佐藤雄一 ( 25 会社員 ) 02/05/10 PM11 【印刷用へ】
>>本当に一般の人に広く自分の考えを理解して欲しいのなら、誰が読んでも納得できるように表現しなければならないのではないでしょうか。彼は「科学の真の姿をより多くの人に理解してもらいたい。」と言いながら、普通の人には理解し難い表現を使っているところにやっぱり学者特有の問題があると思いました。30467
(中略)
> この点を考慮し、もう少し入りやすさを強調していく方向がいいと思います。学会においては英語のテクニカルタームが多いのに対して、るいネットにおいては漢字が多いということが、容易に意味を想像しやすいという点で利点です。これからは、その長所を伸ばし、日本語特有の柔かい表現を増やしていったらよいのではないでしょうか。

英語は、英米人の考えを表すために作られた言葉です。
漢字は、中国人の考えを表すために中国人により作られた文字です。
日本語は、そのどちらでもない。

英米人の考えを漢字の中から探し出すのは難しい。このことは、中国人が一番良く知っている。
それで、和訳された英米人の考えから漢字に訳された部分を中国語に流用している。中国人はカナ文字がきらいである。

だがしかし、英語を日本語として読むと、不思議なことが数々起こる。127915
時制のない日本語は、ナウな感じの言語である。あくまでも、表面的である。84217
英語は、時制があり、現在・過去・未来とその内容の奥が深い。82285

片岡義男も、私と同様な印象を自著 <日本語の外へ> の中で、下記のごとく述べています。

日本の現在の憲法は、英文で読むのと日本文で読むのとでは、僕個人の感覚では印象が大きく異なる。印象とは、どちらの場合も、そこに使ってある言葉が持つ意味の奥行きに、僕の理解力の奥行きがどの程度まで重なるか、ということにつきる。英文で読むと、これは本気なのだな、と僕は感じる。英文の日本国憲法はきわめて原則的であり、そのことに関して厳格だ。日本文で読むと、これは暫定的なものとして書いた、という印象を僕は受ける。(引用終り)

我々の意思疎通に関する問題は、「世界は日本語の外にある」ということを念頭において、策を練る必要がありますね。148136
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その他
173276 > どうしたら人々の意識は変わるのか
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/31 AM03 【印刷用へ】

> その他(社会統合)
> 9517 どうしたら人々の意識は変わるのか
> 竹村誠一 ( 30 営業 ) 01/08/31 PM09 【印刷用へ】
>>旧思想(恋愛・自由・個人・人権という支配観念)に支配された人々の意識が変わらない限り、社会は(基本的には)変わらない。<<(9235岡田さん)

現実の内容は、各人共通である。非現実の内容は、人それぞれである。日本語には、現実構文しかない。だから、日本人は、非現実の内容と人それぞれには興味を示さない。この国には、「我思う。ゆえに我あり」の個人主義は浸透しない。82180

> 「意識革命」や「意識改革」といった類似した言葉はこれまでも見聞きしてきましたが、今回の「共認革命」は、明確に既成の社会運動の否定する形で提示されているところが新しいと思う。> では「どうしたら人々の意識は変わるのか」?

日本語脳は、現実専用の頭なのである。「理屈などどうでもよい。現実は見ればわかる」などという人もいる。非現実は、考えの埒外である。哲学・科学は、日本人の関心の外にある。世界は日本語の外にある。我が国の有識者・知識人は、英語だけでも考えられる能力をも備えるべきである。さもないと、我が国は、世界にあって世界に属さぬ国となる。147826(正誤表 : 俳句よう→俳句のよう )

> これまで世論支配の頂点には、マスコミが君臨していた。しかし現在はその支配力がインターネットの普及により急速に弱まりつつある。極端な話だれもが「メディア王」になれる情報は持ちうるし、情報を操作しうるのである。

たいていの日本人は、思考を停止させている。他の誰かに同調させて自分の意見を作るのみである。だから、マスコミも頼りにされるのでしょうね。片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、日本人が自分の理論を放棄している現実を以下のごとく指摘しています。82504

自分も収まって安心していることの出来るひとつの枠のなかは、自前ではなんにも考えなくてもいい状態が保証されている世界だ、と言い換えることが可能だ。問題がなにひとつなければ、考える必要はないかもしれない。しかし、現実には難問や難しい状況などが、次々に山積みされていく。そのひとつひとつに関して、理性の糸を慎重にはりめぐらせつつ、可能なかぎりの論理的な思考を重ねていくことが大嫌いでもっとも不得意、というかたちでの思考の放棄が枠のなかでの支配原理となる。問題や状況が複雑でやっかいなものであればあるほど、それに対する自分の考えをおなじ枠のなかにいる他の人たちと同調させて、人々は自分の意見を作る。そのようにして作られる意見の真正面、そして最短距離のところに、満場一致というきわめてわかりやすく、同時におそろしく感情的な意志決定の方策がある。(引用終り)

> そのような現状だからこそ、今まで如何に偏った情報しか知りえない立場に置かれていたかを、人々は次第に実感し始めている。こうして新たな事実に触れ、驚き、それらを意識上で再構築、統合していく。そんな過程の繰り返しが意識の変革につながっていくと考えます。もちろんそれは(一人の頭の中だけでなく)多くの人々が集うオープンな場において。

日本人は、事実と自分自身の考えを頭の中で混乱させているので、情報収集も思うようにははかどらないと推測されます。片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、英語と比較ながら日本人の現実を以下のごとく指摘しています。103724

物や事実、事柄など、自分の外にある世界をあくまでも外の世界としてとらえ、それを正しい位置に置いた上で、あくまでもそれだけにもとづいて作られた主張でないかぎり、その主張は他に対してなんの機能も発揮しない。英語という言語が、それの使用者に要求していることは、たいへん厳しい。英語は事実に則した、客観的で実証的な性能を持った言語だ。自分の外にある世界を、あくまでも外の世界としてのみ、それは表現していく。外の事実と内なる主観とをごっちゃまぜに重ねることを、英語の性能が許さない。 (引用終り)
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るいネットをどう変える?
173263 > ネット(ブログ)の統合とは
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/30 PM05 【印刷用へ】

> るいネットをどう変える?
> 157263 ネット(ブログ)の統合とは
> 坂本日出夫 ( 46 東京 技術者 ) 07/07/20 PM07 【印刷用へ】
(前略)
> ブログ検索サービスを提供する米テクノラティが発表した調査結果によると、2006年第4四半期は投稿数で日本語ブログが世界最多だった。リンク> 実に世界のブログ投稿数の37%が日本語によるもので、事実上の世界標準語である英語や、母語人口で世界最多の中国語を抑えての1位である。> ネットが出来、ブログを書く環境が整っている中流階級が多いという理由もあるのだろうが、それ以上に、日本人が共認形成の場を他の国よりも強く求めているという理由の方が大きいと思われる。

広報活動には馴染まない談合体質によるものではないでしょうか。102033

(1) 場がなかったら、自分は、そして他者は、どのようなことになるのか。場がなかったなら、自分の位置と内容は、日本語の世界では、いつまでもきまらない。自分は少なくとも他者ではないかもしれない、という程度の認識しか持つことの出来ない、不安定な存在にとどまり続けるほかない。自分をきめるには、日本語の世界では、相手が必要だ。それもただ単なる他者としての相手ではなく、自分の現実に密接した、なんらかの具体的なことを目的とする対人関係を作り出してくれる相手でなければならない。日本語の世界に生きる自分という人は、相手およびその相手との関係の場がないと、自分がなになのかいつまでもきまらない。その場や相手が広がりすぎたり大きすぎたりしても、自分はきまらない。たとえば不特定多数というような相手の場合だ。(引用終り)

> さらにブログの機能には、トラックバック、コメント、リンク等のお互いの結びつきを持てる機能もそろっており、単なる発信だけでなくネットワークを形成しやすいという特徴も、日本で流行る一つの理由であろう。> ブログが流行りだした初期段階では、単にここに発信しているブログが多かったが、最近ではお互いに一つのテーマに対して、連携・連動しているブログも多く目に付くようになり、同じバナーをそれぞれの張り合って、主張に賛同する意思表示をするものも多くなってきた。
> しかし、未だ連動止まりであり、統合と言う所までには至っていない。> 多分、その障害は一つのブログ=一個人という枠に縛られているからだと思われる。> 継続性や話題性も個人の力量に縛られている。

日本人には議論が難しいですね。141389

(2) 日本語の特徴について書こうとするとき、おそらく誰もがまず最初に驚きつつ書くのは、英語におけるような ‘I’ と‘YOU’ の関係が日本語にはないという事実だ。‘I’ と‘YOU’ の関係は、きわめて日常的で具体的でありつつ、必要とあらばいつでも、非日常的で抽象的な、しかも対等の関係に移行することが可能だ。そのような関係を作る言葉が日本語にはない。

(3) 非日常的で抽象的な対等の関係とは、まさに言葉のためにある関係だ。なにごとかに関して、ひとりの人が理論を述べる。それに対して、別の人が別の理論を提示する。そこへさらに違った人が、別の理論を重ねていく。ある問題に関して、おたがいに現実のしがらみに拘束されることなく、考えをつくして論理し、言葉をつくしてそれを表現していくという関係が基本的には日本語にはない。(引用終り)

> そのひとつの突破口として、複数の人間で運営していく手法があると思われるが、それらが統合ブログ(サイト)として機能していく為には、そのブログの記事の質に掛かっていると思われる。

日本語で考えると頭の外側の内容と内側の内容の分離が難しいですね。141964

(4) 孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の気分の流れであることは一般に真実である。(引用終り)

(5) 物や事実、事柄など、自分の外にある世界をあくまでも外の世界としてとらえ、それを正しい位置に置いた上で、あくまでもそれだけにもとづいて作られた主張でないかぎり、その主張は他に対してなんの機能も発揮しない。英語という言語が、それの使用者に要求していることは、たいへん厳しい。英語は事実に則した、客観的で実証的な性能を持った言語だ。自分の外にある世界を、あくまでも外の世界としてのみ、それは表現していく。外の事実と内なる主観とをごっちゃまぜに重ねることを、英語の性能が許さない。 (引用終り)

(1) (2) (3) (5) 片岡義男  日本語の外へ  筑摩書房  1997年  
(4)  フランク・ギブニー  人は城、人は石垣  新版  サイマル出版  1980年     
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その他
173242 > 現実直視の投稿でるいネットに集う
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/30 AM09 【印刷用へ】

> その他(社会統合)
> 19926 現実直視の投稿でるいネットに集う
> 匿名希望 02/01/04 PM08 【印刷用へ】
> 新年のるいネットに集う多くのメッセージを拝見させて頂き気分が新たになりました。>>るいネットでやろうとしていることは、現実を直視し新たな可能性を見出してはそこに収束してゆくという、極めて前向きでプラス思考の「運動」<<19844である、という点に同感です。

現実直視は大切ですね。146694
前向きでプラス思考も大切ですね。173197(正誤表 : ‘&#8211;’ → ‘-‘ )
自分の外にある世界を、あくまでも外の世界としてのみ、表現することが大切ですね。

> るいネットに集う仲間を応援し、現実を直視して新たな可能性に収束していく。

現実直視の大切さは、人畜共通ですね。169470   

> 仲間を信頼し現実直視の投稿を繰り返していくこと。

そうですね。169833

> 投稿の輪をどんどん広げていくことが新たな可能性に繋がって行くものと確信し、るいネットに多くの投稿をしていくように心がけたい。

同感です。168174
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その他(認識論・科学論)
173197 > もっと「共同体」の存在と、「共同体」内部での認識形成過程を重視するべきでは?1
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/29 PM05 【印刷用へ】

> その他(認識論・科学論)
> 28794 もっと「共同体」の存在と、「共同体」内部での認識形成過程を重視するべきでは?1
> 阪本剛 HP ( 28 SE ) 02/04/17 AM01 【印刷用へ】
(前略)
> ◆◆◆日本=非ヨーロッパ型の社会における認識主体の形成

私は、英語しか理解できないのですが、西欧文化の特徴をもっとも顕著に示すのが英語ではないかと推測しています。坂本様のご意見を読ませていただきながら、これまでに読んだ書物の思い当たる一節を挙げてみると以下 (1) ー (6) のようなものになります。

(1) 物や事実、事柄など、自分の外にある世界をあくまでも外の世界としてとらえ、それを正しい位置に置いた上で、あくまでもそれだけにもとづいて作られた主張でないかぎり、その主張は他に対してなんの機能も発揮しない。英語という言語が、それの使用者に要求していることは、たいへん厳しい。英語は事実に則した、客観的で実証的な性能を持った言語だ。自分の外にある世界を、あくまでも外の世界としてのみ、それは表現していく。外の事実と内なる主観とをごっちゃまぜに重ねることを、英語の性能が許さない。 (引用終り)

> ところで、西欧の自立性の文化に対して、日本は関係性の文化である。

自立性と関係性の分類に同感です。

(2) 英語という言語を正しく用いると、そこには積極的な提案や改革の意志が、ほぼ自動的に生まれる。英語によるもののとらえかたや考えかたの基本は、積極的な提案や改革の意志の中心軸および推進力としての、前進的な攻撃性だ。この基本に沿って、出来るだけ多くの人を望ましい方向へ動かしていく力をもっとも強く発揮するのは、客観性というものだ。(引用終り) 

(3) 孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の気分の流れであることは一般に真実である。(引用終り) 105213

> 人と人との関係、人と自然の関係を注意深く築き、その関係性によって生ずる役割の担い手として、はじめて「個人」を認識するような、独自の文化(人間観)を育んできた。 (この背景には仏教における縁起思想とその認識価値をもった業思想が関与している。)

(4) 場がなかったら、自分は、そして他者は、どのようなことになるのか。場がなかったなら、自分の位置と内容は、日本語の世界では、いつまでもきまらない。自分は少なくとも他者ではないかもしれない、という程度の認識しか持つことの出来ない、不安定な存在にとどまり続けるほかない。自分をきめるには、日本語の世界では、相手が必要だ。それもただ単なる他者としての相手ではなく、自分の現実に密接した、なんらかの具体的なことを目的とする対人関係を作り出してくれる相手でなければならない。日本語の世界に生きる自分という人は、相手およびその相手との関係の場がないと、自分がなになのかいつまでもきまらない。その場や相手が広がりすぎたり大きすぎたりしても、自分はきまらない。たとえば不特定多数というような相手の場合だ。(引用終り) 172351

> 関係性に依存しない絶対的「個人」の形成がない以上、権利や責任などという「個人」の存在理由を示す社会的概念はまだしも、「絶対的尊厳性」や「自己決定権」などという価値概念はイデオロギーとしての機能しか持ち得ない。

(5) 責任と義務を果たすことをとおして、個人は社会のなかに自分のための場所を見つけ、その範囲を広げ、質を高めようとする。強い個性と自己主張、理性的な考えかた、客観にもとづいた理論的な言葉などを、論理というひと言でくくるなら、論理は社会のなかに自分を位置づけていくために使い得る、最高に有効な武器だ。個人が負う責任と果たしていく義務は、社会を支える法という普遍的な理性に、つながっていく。この理性は、人間にとって正当なすべての権利の土台であり、この土台の上にのみ、国家というものは成立する。(引用終り)

> この責任や権利の実質上の処理は主に共同体という「集団」を通して配分され、「集団」に吸収にされることになる。(この原理を提供しているのは、儒教や神道における地縁的・血縁的生命論がその素地にあると思われる。)

(6) 自分も収まって安心していることの出来るひとつの枠のなかは、自前ではなんにも考えなくてもいい状態が保証されている世界だ、と言い換えることが可能だ。問題がなにひとつなければ、考える必要はないかもしれない。しかし、現実には難問や難しい状況などが、次々に山積みされていく。そのひとつひとつに関して、理性の糸を慎重にはりめぐらせつつ、可能なかぎりの論理的な思考を重ねていくことが大嫌いでもっとも不得意、というかたちでの思考の放棄が枠のなかでの支配原理となる。問題や状況が複雑でやっかいなものであればあるほど、それに対する自分の考えをおなじ枠のなかにいる他の人たちと同調させて、人々は自分の意見を作る。そのようにして作られる意見の真正面、そして最短距離のところに、満場一致というきわめてわかりやすく、同時におそろしく感情的な意志決定の方策がある。(引用終り)

(1) (2) (4) (5) (6) 片岡義男  <日本語の外へ>  筑摩書房  1997年
(3)  フランク・ギブニー <人は城、人は石垣>  サイマル出版  新版  1980年
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その他
173117 > 「意思あるところにのみ」という恣意性
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/28 AM04 【印刷用へ】

> その他(社会統合)
> 59191 「意思あるところにのみ」という恣意性
> 三宅秀和 ( 20代 設計 ) 03/07/25 PM11 【印刷用へ】
>>旧い概念である「権利」や「人権」という概念は、意志のあるところのみに存在するという古典的な定義や解釈があると思います。58948
> 仰るとおりだと思います。> 例えば、ネイティブ・アメリカンの人々は、昆虫でさえも、「足がたくさん有る人」という風に捉えます。森羅万象のあらゆる生き物に対して「人」としてみる考え方が有るようです。

我々日本人は、ネイティブ・アメリカンの人々とは別で、身分格式の世界に住んでいますね。83909

> この「意思なき対象に対しても、自分と同一視する」という考え方は、我々現代人も、無意識のうちに、ごく日常的に行なっていますし、その意味で、むしろ人間として当たり前で、普遍的な認識方法なのでしょう。

意思を重要視する英米流の考えは、この地上60億人の中ではごく少数派ですね。141733
この地球上には、意思を重要視しない人間のほうが断然多く住んでいる。163350

> しかし、そのような考え方が主流にならず、上記古典的な定義や解釈が、当たり前のものとなっているのは何故なのか、考えてみれば不思議なところもあります。

同感です。82320
意思ある人間は、生きる力が強いからでしょう。128738
アングロ・サクソン族は、知的能力に優れていて、ここ数百年来、他民族を出し抜いてきた。102988

> 本来、人間は、対象に意思が認められるか否かにかかわらず、自己と同一視する性質を持っているのであれば、「意思のあるところのみ」に注目しようとする考え方には、その背後に何らかの理由が有るはずです。

意思は、未来構文の内容です。日本語には未来構文はなく、日本人には意思がない。82193
意思の内容は未来構文の内容で、人さまざまである。この状態を重要視するのが個人主義である。144074
日本人には、意思 (will) がなくて、自己・自我 (self) がなくて、恣意 (self-will) がある。84341
恣意は、何処の国でも容認されることはない。97183
我が国では、昔から滅私奉公により恣意 (私意・我儘・身勝手) を抑制してきた。93930

> 分け隔てせずに対象を同一視していた状況から、一部の対象のみを同一視の対象として選別する。

同感です。107515
意思があれば、未来社会の建設のための方策もある。82057
意思がなければ、現状にとどまるしかない。諦観である。165417

> その背後に理由が有るとすれば、その選別になんらかの利己性が認められたからであり、その恣意的な選別に意味づけし、価値づける役割を果たしているのは、やはり「意思」と「個人」という旧観念セットであるように思います。

同感です。「個人の意思」ですね。82180
観念は、日本人には受け入れられない。127915
観念は頭の中の出来事で、現実の中では嘘・偽りである。94682
英米人には、will (意思) があって、self (自己・自我) があって、self-will (恣意) がない。146135
かれ等は、個人の意思や自我は守るが、恣意は理不尽 (unresonable) なものとして排除する。135866
意思は、未来構文の内容である。172709
だがしかし、日本語には未来構文がないので、未来に関する単語はバラバラなままで意味をなさない。94775
だから、日本人の未来に関する発言には意味を成す内容が少ない。恣意となることが多い。102335
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共認形成の場を作ってゆく活動こそ、真の社会活動
17307 > 場=共感する場所
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/27 AM05 【印刷用へ】

> 共認形成の場を作ってゆく活動こそ、真の社会活動
> 173055 場=共感する場所
> 多田奨 ( 30代 東京 建築士 ) 08/03/26 PM10
>>『場』に参加するだけで、『場』の構築という事業の立派な協働者となる。32085
> 参加することが場をつくる。> これは、考えてみれば、実に当たり前のことだ。

片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、相手およびその相手との関係の場が大切であることを指摘しています。172351

自分をきめるには、日本語の世界では、相手が必要だ。それもただ単なる他者としての相手ではなく、自分の現実に密接した、なんらかの具体的なことを目的とする対人関係を作り出してくれる相手でなければならない。日本語の世界に生きる自分という人は、相手およびその相手との関係の場がないと、自分がなになのかいつまでもきまらない。その場や相手が広がりすぎたり大きすぎたりしても、自分はきまらない。たとえば不特定多数というような相手の場合だ。(引用終り)

> 場とは、共感する場所のことだ。> 逆に言うと、共感するから場として認識されている。

日本語の場合は、自分に戻って来るものが目に見える利益でないと、人々は承知しない。言葉の性能が作り出す生き方というものの、最大の特徴がここであらわになる。普遍的な価値であるはずの原則というものに対する無視や無関心という、最大の特徴だ。原則と言ってわかりにくければ、唯一の正式な場、あるいは唯一の正式なルート、などと言ってもいい。168322

> 共感するためには人が必要で、多くの人と共感すれば、それだけ共感の度合いも大きい。その大きさが場の魅力を形成する。ただ、より多きな共感を得られる場は、日常的にはあまり存在しないので非日常のイベントとして特別に理解されている。

共感を得るには、議論の出来る人が必要ですね。141389
さもないと、歌会のようなものになる。157445
付和雷同でも困る。101765

> 集団動物としての我々は、日常のいたるところで共感の場を持っている。学校、会社、家庭・・・・・・どこでも共感を持っているからそこが場として感じられている。> 学校や家庭などの日常的な共感の場には「参加する」という意識が伴っていないだけ。そこにいて共感している以上は、場に参加していることに変わりはない。> この当たり前の共感の場をつくろうと言っているのだ。

我々は、共感の場で言葉を交わす。「言葉とは最終的に何をするものなのか。言葉の目的とは何なのか。」と問われれば、「論理や正義などにとっての唯一の正式な場やルールを作り出すもの、それが言葉であり、それが言葉の目的だ。」と答えざるをえない。168499

> 新しい点は、より多くの人と共感を得られる場に、日常的に参加するということだけだ。それ以外は当たり前のことと思う。

片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、日本人の「場」について以下の如く述べています。172414

、、、、、 日本語の世界では自分と他者とのじつにさまざまな関係の場がある。場とは、 、、、、、 「現実のしがらみ」であり、 、、、、、「わずらわしい私的な現場」と表現されるような、 、、、、、 さまざまな対人関係のひとつひとつのことだ。(引用終り)

> 自分たちの場をつくることに何か特別な意識があるとすれば、それは単なる思い込みなのではないだろうか。

片岡義男は、次のように述べております。「文化は人が言葉で作っていく。言葉の程度が低いなら、程度の低い文化しか生まれない。人間というものに関するさまざまな理解が深まらない。多くの異なった人たちの存在を認めるという、スタートの部分すら出来てはいかない。可能なのは、せいぜいが現状維持ではないか。生活のスタイルも内容も、幼稚なままにとどまる。そのときどきのもっともわかりやすいものだけを相手に、目先の損得の追求と享楽へと、日々は消費されてゆく。」168499  
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私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
173071 > 序列原理崩壊の一例
寺嶋眞一 ( 70 無職 ) 08/03/27 AM03 【印刷用へ】

> 私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな発へ)
> 173045 序列原理崩壊の一例
> 桑村佳直 ( 24 滋賀 会社員 ) 08/03/26 PM08
> 今日の会議の内容は、高校の部活動での経験とリンクした。> 僕が在学してる時、顧問の先生から厳しい指導を受けた。> 気持ちの入っていない試合をすれば手もとんでくる。

上位の者達は、威張り腐るのですね。127748(正誤表 : 以上→異常 )

> 部員からすれば顧問は絶対的な存在であり、顧問がいて、顧問が率いる部員がいる。父兄も鍛えてもらえる事は有り難いという認識をもっていた。部員の中でも3年・2年・1年と学年が階級を作っていた。> いわゆる、序列原理で構成されていたといってもいい。

理性判断を伴わない序列原理は安定していますね。82023

> 高校を卒業し、3・4年の年月が経ち、大学生活を送っていた頃、県大会で優勝したと報告を受け、祝勝会に参加した。> かつてあった在校生内での上下格差が作り出す空気も和らいでいた。

あなたは、礼儀正しい日本人ですか。100777

> 顧問の先生は今でも厳しいか、在校生に聞いたとき、「そうでもない。叩かれたりしないですよ。」と言っていた。> 厳しすぎる練習や、暴力による指導は、親が黙っていないというのだ。

忍耐と諦観では進歩がありませんからね。99649

> なにより驚いたのは参加していた父兄に団結が芽生えていたことだ。> 同じTシャツを着て、祝勝会の風景を眺めている。> それは何故だろう。> 学校において序列原理は成立しない時代となったからだろう。

我が国の教育制度の根幹は序列制度でしょうね。95232

> 家庭の外で存在する序列原理に目を瞑っていられない親が増えた事もひとつの要因だろう。

同感です。 151671
親も序列制度の成り立つ原因を理解する必要がありますね。103009
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