寺嶋眞一の意見 42

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2008年06月07日(土) 21:48 日本語思考の空しさ

日本語には、時制がない。
和文には、未来構文がない。
日本人には、意思がない。
意思がないところに方法はない。(Where there’s a will, There’s a way.)
しどろもどろとしていて、我が国は世界の期待に応えることが難しい。

日本人の社会では、意思は存在しない。
だから、個人に意思の内容を尋ねることもなければ、容認することもない。
個人主義は成り立たず、利己主義と間違えられることが多い。
個人の意思を無視した指導者選びが行なわれる。
当番選びのようなものか。アニマルの品評会のようなものになる。
意思がなければ、失敗にも責任は感じられない。
とかく、この世は無責任ということか。ああ、空しい。

「日本が戦争をおこしたのは申しわけないことであった。これからは仲よくしたい」という捕虜になった日本軍の将校に英軍中尉の言った言葉は以下のごときものであった。「君はスレイブ (奴隷) か。スレイブだったのか。(中略) 我々は我々の祖国の行動が正しいと思って戦った。君達も自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐに悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌とるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。我々は多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私は彼らが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私達は日本のサムライたちと戦って勝ったことをほこりとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」(1)

「あるべき姿」(things-as-they-should-be) の内容も未来構文の内容である。「あるべき姿」を考えることも日本人には難しい。

(1) 会田雄次 アーロン収容所

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2008年06月07日(土) 13:34 「現実」というのはどういう構造をもっているか

丸山真男は、<現代政治の思想と行動・上巻> (1) において、以下のように述べています。

講和論議の際も今度の再軍備問題談話会のような考え方に対していちばん頻繁に向けられる非難は、「現実的でない」という言葉です。私はどうしてもこの際、私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもっているかということをよくつきとめて置く必要がうると思うのです。 、、、、、 (引用終り)

日本語には時制がない。それで、未来構文はない。過去構文もない。あるのは現実構文だけである。現実構文は現在時制の文章と似ているが、非現実構文の存在を許さないところが英語などと違うところである。「現実的でない」とは、「受け入れがたい」という意味になる。現実対応策として受け入れがたいのであるか、それとも未来永劫の努力目標としても受け入れがたいのか。英語の神は非現実の存在であるが、英語脳では、「受け入れがたい」という意味にはならない。それどころか、’You shall not kill’. と未来永劫の人類の努力目標 (2) になる。日本人は、 神の判断結果に向って人間の現実を変える努力をしていないのであろう。

(1) 丸山真男 現代政治の思想と行動・上巻 P.174  未来社 1956年 
(2) http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=82123
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2008年06月07日(土) 10:00 とかく、この世は無責任

日本人には、意思がない。意思は英語においては未来時制の内容であるが、日本語には時制がない。だから、日本人の発言は、実況放送とか現状報告のような目先・手先に関する事柄になって、自分自身の構想にはならない。
日本人には、意思がない。意思がなければ責任感も湧かない。責任は、自己の意思の内容を駆使して果たすものだからである。
このような事情により、我が国おいては、いかなる責任者に関しても個人の責任をはっきりと結論づけることができない。つまり、日本人の同意というのは、意思のない個人がただ首を縦に振る動作にすぎない。これも、仕方がない動作なのであろう。
その例を、丸山真男の<現代政治の思想と行動・上巻> (1) から、引いておきます。

日本支配層を特色づけるこのような矮小性を最も露骨に世界に示したのは戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定であった。これは被告の態度を一々引用するまでもなく周知のことだから、キーナン検察官の最終論告によって総括して置こう。 (No. 371)
「元首相、閣僚、高位の外交官、宣伝家、陸軍の将軍、元帥、海軍の提督及内大臣より成る現存の二十五名の被告の全ての者から我々は一つの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼らの中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。これは十四ヶ月の期間に亙る憩み間もない一連の侵略行動たる満州侵略、続いて起った中国戦争及び太平洋戦争の何れにも右の事情は同様なのであります。 ・・・・・彼等が自己の就いていた地位の権威、権力及責任を否定できず、又これがため全世界が震撼する程にこれら侵略戦争を継続し拡大した政策に同意したことを否定出来なくなると、彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張します。」(引用終り)

(1) 丸山真男 現代政治の思想と行動・上巻 p.97  未来社 1956年
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2008年06月07日(土) 04:17 仕方なしの日本人生活

自分にその意思がないのに仕事をしなければならなくなるのであれれば、仕方なくその仕事をすることになる。

丸山真男は、<現代政治の思想と行動・上巻> (1) において、以下のように述べています。

戦後まもなく「ニューズウィーク」に、日本人にとっては民主主義とは "It can't be helped" democracy だという皮肉な記事が載っていたことを覚えています。「仕方なしデモクラシー」なればこそ、その仕方なくさせている圧力が減れば、いわば「自働」的に逆コースに向うのでしょう。そうして仕方なし戦争放棄から今度は仕方なし再軍備へーーーーああ一体どこまで行ったら既成事実への屈服という私達の無窮動 (ベルベトウーム・モビーレ) は終止符にくるのでしょうか。(引用終り)  

日本人の考え方は、「現実を変える、動かす」のではなく、「現実だから仕方がない」である。現実を変えたり動かしたりするのは、意思の力によるのであるが、意思は未来構文の内容であって、日本語には未来構文はない。だから、意思のない日本人は、環境によりなされるままになっていて、諦めがつきまとう。これが、自発性がなくおとなしい日本人 (2) の実態である。こうした実態が丸山真男の嘆きである。いや、日本人全体の嘆きなのかもしれない。だが、言語の問題は、言語を通して解決できると考えるのが話の筋 (3) であろう。

(1) 丸山真男 現代政治の思想と行動・上巻 P.175  未来社 1956年
(2) http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=105230
(3) http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=98872
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2008年06月06日(金) 18:06 自発性がなくおとなしい日本人   

丸山真男は、<現代政治の思想と行動・上巻> (1) において、以下のように述べています。

、、、、、現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。、、、、、

日本人の考え方は、「現実を変える、動かす」のではなく、「現実だから仕方がない」である。現実を変えたり動かしたりするのは、意思の力によるのであるが、意思は未来構文の内容であって、日本語には未来構文はない。だから、意思のない日本人は、なされるがままになっていて、諦めがつきまとう。これが、自発性がなくおとなしい日本人 (2) の実態である。

(1) 丸山真男 現代政治の思想と行動・上巻 P.174  未来社 1956年
(2) http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=105230
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2008年06月05日(木) 22:31 補足説明

1. “日本人の発言は現実構文の内容だけになる.”

 われわれの求める正しい道「あるべき姿」は、未来構文の内容である。そして、日本語には時制がないから、未来構文はなくその内容もない。かくして、日本人には哲学が難しく、日本語は、実況放送・現状報告のための言葉となっている。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/newpage62.htm


2. “日本人は,議論の仕方を知らないので,英米人の言うなりになるか,反骨精神を貫くかである.”

 チャーチルの回顧録より例を引くと、

>日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。
>笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。
>しかし、これでは困る。
>反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
>それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。
>すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。
>無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
>英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。
>日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
>日本人は外交を知らない。
「W.チャーチル 第二次世界大戦回顧録」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=141389


3. “英米人との成熟した大人の関係が結べない.”

 哲学入門書「ソフィーの世界*」に見られるように、西洋人は子供が思春期になれば哲学思考に興味を持ち始め、親許を離れて教育を受ける。高等教育機関はそのためにある。だが、日本人の場合には、大学において「あるべき姿」、すなわち哲学を学ぶことにはならない。現実構文による「今ある姿」を学び続けることになる。この次元の勉強には際限が無く、詰め込み教育となる。つまり、哲学的考察は成り立たないので、大学の教養部はその意義を失い崩壊する。大人の勉強ができない。もしも教養部の崩壊が再編であるならば、日本軍の敗退もまた転進である。歌詠みの世界は、実社会に関する感想である。非現実世界に関する理想ではない。何処まで行っても皮相的であることに変わりがない。*Jostein Gaarder, Sophie’s World. Berkley 1996
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=83415


4. “我が国は,相も変らぬひ弱な花である.”

片岡義男は、自著 <日本語の外へ> の中で、 対立する議論 に関して下記のごとく述べています。

 対立する人や意見がかならず多く存在し、対立意見どうしが果てしなく議論を重ねていくことのなかにしか社会は存在し得ないという西欧の大前提を、日本語という言葉の性能は、まさにその性能によって、不要なもの、困ったもの、なんの関心もないものとして、遠い昔、見事にバイパスした。(引用終り) 
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=176433
このような状態では、他人および他国と協力することは難しい。それで、我が国は,相も変らぬひ弱な花である。 

You can read more at http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
and also at http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary
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