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2008年08月06日(水) 06:21 430 民族の危機

日本語には、時制がない。
日本語には、未来構文がない。
日本語は、いうなれば現実構文ばかりの言語である。
未来構文なくして未来に関する確かなことを語ることはできない。
英文の未来時制の内容を日本語に訳すと、「、、、、だろう。」ばかりの文章になる。
未来構文の内容なくして未来構想は成り立たない。
未来構想なくして、未来社会の建設は成り立たない。
我が国の選挙民に確実な未来社会の建設を約束する信念の政治家は現れない。
民は希望があれば、それに対して金を出す。
我々の社会には希望そのものがない。だから、金は余っていても出せない。
日本人は、いつまでたってもその日暮らしか。
276文字
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2008年08月04日(月) 12:04 429 安心実現内閣の残念

構想がなくては、建設するものなど何もない。構想なくして、国家建設も世界建設もありえない。我が国の ’UNDER CONSTRUCTION’ は、何処もかしこも「建設中」ではなくて「工事中」なのであろう。
工事は、モグラ叩きの方法による一時しのぎ問題解決法である。意見も建設的な意見ではなくて、工事的なものとなっている。活動規模の矮小さは、経済活性化の起爆剤にもつながらない。
不安は、空白の未来に関する感情である。この国には何でもあるが、ただ希望だけがない。不安を解消しようとする安心実現内閣も工事的な内閣なのであろう。建設には構想があり完成がある。人は完成状態を理解することにより、希望を抱く。たが、工事には構想がなく、作業はエンドレスに続けなければならない。その日暮らしは終わらない。
英語では「あるべき姿」は未来時制の内容であり、「今ある姿」は現在時制の内容である。時制を混乱させることは英米人としては考えの誤りとなる。日本語には時制がないので、日本人の考え方では、「あるべき姿」を考える人には、「今ある姿」が見えなくなり、「今ある姿」を考える人には、「あるべき姿」が見えなくなる。そのどちらでもない人は、空理空論派となって相手にされない。そこで、通常、「あるべき姿」の派と「今ある姿」の派に分かれた論戦となるが、いずれが勝つにしても現実を変えることのできない不毛の議論となることに変わりはない。
600文字
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2008年08月02日(土) 12:28 428 天の声とアニマルの苦しみ


日本人の「世の中は、、、、、、」の発想法は、遠く万葉の時代から続いている。世の中とは、現実の世界のことである。その内容は、実況放送・現状報告のようなものである。
日本人にとって現実が世界の全てである。その他は、夢と幻である。これらは、実体のない空理空論というか、いわゆる雑念である。

現実に関する発言内容には個人差がない。それで、日本人の発言は没個性となる。
没個性の人間の個人差として取り上げられるものは、暗記と受け売りの能力差である。これが日本では実力として通用する。
大人も子供も、現実という同次元の話に終始する。老若の違いは、ただ現実に関する知識量の多寡による。哲学・創造はない。これらの内容は、現実構文の中の嘘である。だから、日本人は創造の能力は小さい。

「酸いも甘いも知っている」とは、経験をつみ、世事・人情によく通じているということで、まだ見ぬ世界に通じているわけではない。
まだ見ぬ世界は、考えの世界だからである。考えの世界は、実感を伴わない世界である。実感を伴わない世界は、信じることが難しい。だから、実学 (技術) のみがこの国では発達する。

我が国は、個人に意思がなくて、命令がある世界である。命令は、上のほうから聞こえてくる。天の声とも言われている。
ご都合主義の世界である。規則・命令はあるが、誰もその責任をとる個人のいない世界である。

英語では、「意思があるところに方法がある。」(Where there’s a will, there’s a way.)といわれている。
これを逆さにしていえば、「意思のないところに方法はない。」である。
意思は、未来時制の内容であるが、日本語には時制がないから、日本人には意思もない。
だから、日本人には方法がなく、問題をかかえて閉塞感にさいなまれている人も多い。
意思がないから、大衆に対して指導的立場には立てない。無為無策でいながら、苦しい立場に立たされるのが常ようである。
この状態は、ちょうど言語を持たないアニマルの苦しみのようなものかもしれない。役割はあたえられても、解決策の考案は得られない。
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2008年07月31日(木) 10:27 427 創造性を育む教育

現実の世界と、非現実の世界は次元が違う。

日本語には、時制がなく、現実構文しかないので、現実と非現実の区別が難しい。
現実の世界と、非現実の世界が頭の中で混沌としていたのでは、現実の世界を見極めようという意欲は出て来ない。
現実構文の内容に見合った現実の世界の事柄で頭の中が一杯になっていたら、自分独自の考えを蓄えておく余地など頭の中にはない。
だから、日本人は、無哲学・能天気の状態になりがちである。

現実と非現実が混沌としている有様を日本人は歌に詠む。
その中で、矛盾はさして気にならない。そして、「だって、本当にそう思ったのだから、仕方がないではないか」という。

英語を使うと、現実と非現実が区別できる。
現実を現在時制で述べるときには、理想を未来時制で述べる。
現実を過去時制で述べるときには、現実に関する考えを現在時制で述べることができる。
現実とは別に、基準・考えの内容を確立できれば、現実を批判することは可能になる。
考えと現実を区別できる言語である英語を使うと、個人は考えの内容に創造性を増すことが出来る。
だから、英語圏の人々は、英語の勉強を続けているだけで、暗記と受け売りから成り立つガリ勉をする必要がない。
502文字
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2008年07月27日(日) 03:22 426 リーズン

私の人生の中でもっとも幸いに思うことは、生理学という英米の学問を専攻したことであると考えている。
リーズン (reason) とか、リーズナブル (reasonable) とかいった言葉に出会うことができたことであった。リーズンは理性・理由・適当に相当することばであって、リーズナブルは、理性的な・理由になる・適当なという意味の言葉である。
これらの言葉は、個人判断に関する評価の言葉であるが、日本語にはこれに相当した言葉はない。
だから、個人主義も理解されていないし、偉大な個人も育たない。
「適当にやれ」は、「不適当でもかまわない」と解釈されたりする。
こうした言語環境の中にあって、和のみを強調すると、人々は烏合の衆になりがちである。
事実の確認が必要なことはもちろんであるが、個人の考えの内容がないと、学問にはならない。
<論語・為政> にある「温故知新」という言葉であるが、「古きを尋ねて新しきを知らば、もって師となるべし」という意味である。
英語を使うとこの知的作業ができる。
実験結果を過去時制で述べるときには、現在起こっている現象に関する解釈を現在時制で述べる。これは「温故」である。
目の前の事柄を現在時制で述べるときには、その「あるべき姿」を未来時制で述べる。これは「知新」であろう。
過去と現在の比較、現在と未来の比較などの比較により結論を得ることは、根拠ある判断となる。
つまり、理性判断である。
だから、英語のように、事実と考えを区別して言い表す語法が大切であることが分かる。
だが、時制のない言語・日本語を使っていると、事実と考えの区別は難しい。
日本人には、自分自身の考えというものがない。頭の中にある内容は、いつも頭の外のことばかりである。
「話にうつつ (現) を抜かすな」と言われている。これは、現実構文の中には、現実の内容ばかりを盛り込まなくてはならないというルールである。
だから、日本語は、学問する言葉としては適していない。
日本人は、頭の中の内容と、頭の外の有様を区別することに慣れていない。いや、自分の考えだけがない無哲学・能天気なのである。
それで、日本人の勉強は、暗記とその受け売りになりがちである。
このような勉強法を社会が奨励すると、学生は受験地獄に陥ることなるが、決して賢くはならない。
私も学者の端くれとして、駆け出しの頃は、よく事実と考えの区別のできない状態に陥った。
だから、論文を書くときに困った。論文を書くときには、実験結果 (results) と考察 (discussion) が同じ内容になって困ったのである。
事実は、人畜共通であるが、考察の方は人間特有で叡智 (えいち:優れた知性) の表れである。そして、日本人には、こうした叡智が見られない。
1134文字
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2008年07月22日(火) 10:21 425 言語と教養

日本語による思考では、理想を考える人は現実に適応できる人にはならない。
理想の内容と現実の内容は一致しないから、その人の言行は空理空論とみなされる。
文法に時制がなく、個人の考えと現実の内容が区別できない言語を使用すると、こうした混乱がおこる。
日本人は、論旨があやふやで議論が出来ない。個人に叡智 (すぐれた知性) がみられない。
英米人でも、子供の頃は、日本人と差がない。それ以後伸びるのは、時制を使った言語の発達によるところが大きい。
現実は、現在時制・過去時制の内容として表される。考えの内容は、未来時制となる。
だから、英米流の高等教育の中では言語教育が重要な地位を占めている。いわゆる教養教育の成果である。
現実を理想に近づける方策を考え、それを実行する意思を示すことが彼らの人生だからである。
日本人の大人が切って揃えられたように12歳の精神年齢を示すのは、日本語文法の制約によるといっても過言ではない。
我が国の大学の教養部がこぞって崩壊するのをただ嘆くだけでは、現実の進歩は得られない。現実に対処する方策と意思が必要である。
460文字
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2008年07月05日(土) 17:40  424 公用語のこと

子供のときに親や教師から言葉遣いを教えられた。
その頃の私は、まだ単純であったから、偉くて尊敬される人は、言葉遣いも丁寧であるがゆえに人々の尊敬を集めているものと思い込んでいた。
だが、世の中をよくよく眺めてみると、私の解釈が正しくないことがだんだんと分かってきた。
偉い人よりも私のほうが、言葉遣いが丁寧である場合が多かったからである。
結局、日本人は「上と見るか、下と見るか」の世俗的判断に従った言葉選びをしているに過ぎないようである。だから、論理に関する点もついつい疎かになる。

外国語を知らないものは、母国語も知らないのでしょうね。
日本語には、「です・ます」調という文章の書き方がある。助動詞の「です」と「ます」は、相手に対して丁寧を表す言葉である。「です」は体言について「本です」などと使い、「ます」は用言について「行きます」のように使う。これが丁寧な文章の作り方である。
文章を書くときに、「です・ます」調か「である」調かの問題になる。
「です・ます」調は、丁寧な言い方である。
「である」調は、簡潔な言い方である。論文などに使われる。
「だ」調は、ぶっきらぼうで公式には使わない。
丁寧な言葉遣いがあるということは、乱暴な言葉使いに対するものであるということになる。英語では ‘This is a book’. は、「これは本(です)」であつて、丁寧も乱暴もない。どちらかといえば、日本語の「だ」調に相当するようである。
日本語の丁寧と乱暴は、相手の身分の「上」「下」と関係がある。これらが結びついて表現される。言葉遣いは、相対の問題である。
「上と見るか、下と見るか」の判断が世俗的であるために、判断基準が社会の序列によく馴染んでいる必要がある。そうでないと、礼儀正しいはずの日本人が、礼儀を失することになる。この場合、自己判断はあって無用な代物である。だから、日本人には自己・個人に基づく判断基準はなく、自主・独立 (independent) の気風もない。

英語の大切さは、わが国民にもだんだんわかってきた。日本は、英語の後進国である。首脳陣は英語を使って話しが出来ない。中国もそうであるが、意外なことに我々のところに英語を教えに来る教師は中国系である。M先生は、シンガポール人であるが、両親は中国の海南島出身である。S先生は、オーストラリア人であるが、両親は中国の福建省の客家 (はっか) の出身である。平成20年5月現在、掛川市に住む外国人は、一位がブラジル人(3763人)、二位がフィリッピン人(683人)、三位がペルー人(299人)である。我が国に来る日系ブラジル人は、当然のことながら、英語の先生などではない。彼らも英語で教育を受けていたら私達の先生になって来日したかもしれない。母国語とか第二言語が何語であるかということは、その人・個人の知的程度と人生に大きく影響するようである。

東南アジアの人たちは、昔、英国の植民地であったがために英語が上手なのだという知識は、何の役にも立たない。昔の伝統を今更、事ある毎に強調しても何にもならない。未来に照準を合わせて自分たちに関する考えを巡らすことが、我々に必要なことである。英語を我が国の第二の公用語にすることは、意義のあることである。
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2008年06月23日(月) 17:35  423 構想の欠如

英語を習い始めた頃は、英語で話すことは日本語を別な言葉で言い換えるようなものだと思っていた。つまり、「本」のことを ’book’ というようなものだと思っていた。
だが、自分の考えを英語にして話すようになると、それはまったく違った考え方を表現するもであることが分かった。
日本語で話すと、事実 (客観) と考え (主観) の区別ができない。それは、時制がないからである。日本語は、実況放送・現状報告のための言語である。事実はうつつ (現) であり、うつつを抜かさないで話をするには、自分の考えの方を抜かさなくてはならない。
考えを抜かして発言すれば、それは考えの無い人 (思慮の無い人) の発言となる。考えを入れれば、それは事実と違った内容になり嘘と考えられる。これが、日本語を使う時の悩みである。
日本語で話す英米人は、事実と考えの区別が疎かになることはないから、それは日本語そのものの性能というよりも、日本人の日本語の使い方が適当でないということであろう。
我が国では、医学博士だの工学博士だのと博士の種類がやたらと多い。米国においては、おおむね博士は、哲学博士 (Doctor of Philosophy, Ph. D.) である。科学においては、事実に基づいて自己の哲学をつくるのであるが、我が国においては、いかなる分野の事実であるかが重要なことであるらしい。事実の専門家というか、いわゆる物知り作りが尊重されているからであろう。米国では個人の考えが中心になるから、いかなる分野の事実に基づいているかはあまり重要なことではない。このことは、言語の違いに起因する着眼の違いであろう。
事実と考えは内容の次元が違う。事実は現実であり、考えは哲学である。その内容に関する頭の中と頭の外の違いである。
考えを育てない我が国の教育は、暗記とその受け売りの教育になる。いわゆる詰め込み教育であり、その弊害が全国的に及んでいる。その結果、いつまでたっても試験地獄・受験地獄を避けることが出来ない。
言語能力は思春期に発達する。考えの内容である「あるべき姿」(things-as-they-should-be)は、未来時制の内容である。事実の内容である「今ある姿」(things-as-they-are) は、現在時制である。時制の使い分けができれば大人であるし、出来なければ子供である。
思慮に欠けた人間は、12歳の大人のように見える。これが、英語脳には見られない日本語脳にかかわる特殊な問題点である。
考えのない人には、リーズン (reason) が見られない。そして、リーズナブル (reasonable) な回答が得られない。リーズンとは、理性・理由・適当のことである。日本語には、リーズンに相当する言葉がない。だから「適当にやれ」は、「不適当でもかまわないと」解釈されたりしている。考えがないとは、そういうことである。こうした事情が、日本人の考え方の詰めの甘さになっているのであろう。
個人の適当に基づく構想ができないと、偉大な世界の構想も、偉大な国家の構想も、偉大な都市の構想も持てないことになる。それどころか、我が国にふさわしい空港の構想さえも満足に描けないらしい。その実現となれば夢のまた夢とゆうことになり常に諦観に達しているようである。とにかく我々は、個人の構想を基にして力を結集することが難しい。
構想の持てない個人同士が議論をしても構想比べにはならず、不毛の議論になる。構想の持てない人たちが、あえて議論をすれば喧嘩になります。そこで、和を求めている日本人は、議論を避けて談合することを好みます。対立した構想からはよりよい方策も生まれようが、談合の中の対立は時間の浪費にしかならない。
こうしたナーナー主義は構想の発展にはつながらないし、英米人相手の話にもならない。だから、我々は我々の従来のやり方をもう一度考え直してみる必要があるのです。
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2008年06月22日(日) 11:13  422 のんき節

私が子供の頃、「のんき節」と云う歌があって、「のんきな父さん、お馬のおけいこ、お馬が走り出しや止まらない。 、、、、、、 わたしゃ知らないお馬に聞いとくれ、へへのんきだね」と歌いました。何の哲学も持たないまま、世の中の流れに流されて仕方なく、もぐら叩きをして生きる人間の哀れと空しさを、日本人は昔からよく知っている。

はっきりとした意思の内容を持たない日本人の生活は、貴方任せである。我が国の政治家は、手綱を握らないで官僚という馬に乗っているようなものである。当然のことながら、官僚は、民意を代表するものではない。だから、この国が何処へ行くのか誰も知らない。この国には、不安があって希望がない。とかく、この世は無責任ということになる。

意思は、未来構文の内容である。日本語には時制がないから、未来構文もない。それで、日本人は、はっきりとした内容の未来の有様を示すことはできない。だから、先行きの不安は解消されることがない。のんきと不安は、表裏一体となっている。未来の有様は個人により内容が違うが、日本語脳では個人の違いを主張することが難しく、我が国には個人主義も育たない。
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2008年06月17日(火) 05:23  421 「丸山真男をひっぱたきたい」 を読みました。

朝日新聞社の「論座2007年1月号」に掲載された赤木智弘氏の <「丸山真男をひっぱたきたい」> を読みました。
私は、丸山真男をひっぱたきたくもないし、赤木智弘をひっぱたく気にもなれない。かれ等は、共に現象論に終始する同じ穴の狢だからである。
必要なことは、現象の先にある答えである。我らが進みゆく未来の目標地点である。それを明示した上で、我々の現実に取りうる手段を提案することである。
そうでなければ、こうした現象論には際限がない。
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