44

----------------------------------------------

440 個人の考えに着目しよう 

日本語のような現実構文一本やりの言語を使って考えれば、現実肯定主義一辺倒の国になる。英語のように理想を語る未来構文と、現実を語る現在構文があれば、その中間をとって徳の高い国を作ることができる。我々は、理想と現実の間にあって、理想に近い傾向の人は革新系となり、現実に近い傾向の人は保守系となる。現実肯定主義一辺倒の国ではご唱和が大切で、非国民は粗末に取り扱われる。この国の議論にはたいした意味は無いが、理想と現実のある国では、人々はそれぞれに中庸の徳を語ることができるので大切である。

多数支配の原則を掲げる民主主義は、個人主義の国と没個人主義の国では、効果が異なる。個人主義の国では、個人選出に関して多数支配を適用する。選出した個人の考えどおりの自由を、その個人に与える。没個人主義の国では、個人の意見に着目しないで個人を選出し、もちろん選出した個人の自由を認めない。多数による個人干渉を当然の民主主義と考えているようだ。国がひっくり返っても、責任者は見当たらない。それで、この世は、無責任となる。445 文字

------------------------------------------------


439 高等教育の必要性

目の前の事柄が分からないようでは、大切な一命を落とすことになりかねない。だから、目先のことにはくれぐれも注意を払う必要がある。だがしかし、目先のことのみに囚われてその日暮らしをしていては、小鳥たちの暮らしと変わりがない。
人間としての偉大な社会を建設するためには、この世に関する「あるべき姿」の考察が必要である。一人一人の人間について個人の哲学が必要である。それで、高等教育が必要になる。哲学博士 (Ph. D.) の牙城である大学に入学することになる。能天気の人々には、この過程がない。
240文字
-------------------------------------------------
438 日本事情

「上と見るか、下と見るか」を考えるのは、日本人の常である。
これは、日本語に、階称 (言葉遣い) があることによる。
品定めは、すでに平安朝の貴族もやっていた。
かような上下思考を繰り返していると、序列思考が身についてくる。
序列的発想法により、全ての物事を判断する習慣がつく。かくして身分格式の世界が出来上がる。
わが国は、カミの国である。戦後の民主的な臣民政府はお上が取り仕切っている。
序列的相互扶助がなくては、個人も国際社会に出て行けない。
「義理 (序列) が廃れば、この世は闇だ」ということである。
若者が長年月を費やして浪人生活をするのは、序列選びのためである。
だか、本業の学問は、無哲学・能天気であるために思わしい成果が現れない。
日本人個人とっては、英米流の学問はどうでもよいことである。
というよりも、実況放送・現状報告のための日本語を使っていては、学問はきわめて難しいのである。
我々も英語を学んで、「あるべき姿」に関する世界観を得よう。
さすれば、この国の個人も確立する。

「あるべき姿」の内容は、未来構文の内容。
「今ある姿」の内容は、現在構文の内容。
「あるべき姿」と「今ある姿」を比較すれば、現実批判が可能になる。
英語には、時制があるから、現実批判が可能である。
日本語には、時制がないから、現実批判が不可能である。
「現実を否定することはできない」と弁解しながら、日本人は現実肯定主義となる。
未来構文の内容には、個人差がある。だから、現実批判にも個人差ができる。
現実批判に個人差があれば議論ができる。だから、個人主義が理解できる。
日本語の唯一ある構文は、現実描写に使われる。
だから、日本人の発言内容は、現実構文の内容ということができる。
現実構文の内容は、個人差を認めない。あれば、事実誤認が存在することなる。
現実構文オンリーの発言内容は画一的であり、ご唱和の世界を形成する。
だが、日本人の道に反して、村八分もできれば、非国民もできる。
現実オンリーを考察する日本人は、切って揃えられたようなメンタリティ (考え方) を示す。
こうした情況の中では、個人主義を守ることは難しく、学問を育てることもまた難しい。
我々は、英語を学習し、英米人の理性判断を習得しなければならない。
926文字

-------------------------------------------
437 自己主張の難しさ

自分が考えた「あるべき姿」の話しをすれば,相手は「だが,現実は,そうなってはいない」と言い返す。現実構文の内容として「あるべき姿」を陳述すれば,聞き手は「話にうつつ(現)を抜かしてはならない」と言う。あるべき姿の内容は、現実の内容ではない。現実構文では,実感が湧かない.もっと実のある話が聞きたいのである。
現実構文の内容を語れば,話は自ずと現実肯定主義となる。そして,「現実は,否定できない」と付け加える。自分が真理に到達したと勘違いできる雰囲気を獲得する。現実肯定主義は,「あるべき姿」を語らない。無哲学・能天気と表裏一体をなしている。
現実構文の内容には,個人の持つ個性は表れない。個性があれば,事実誤認である。個人の個性は,未来構文の内容に表れる。たとえ,「未来には,我々は天国に行ける」といった内容であっても,それを嘘と決め付けることは難しい。
日本語を使うと未来と過去の内容には構文がないので,夢 (未来) ・幻 (過去) のようになっている。単語がばらばらで,意味もなければ誤りもない。日本人の主張は文章にはならず,人はつかみ所のない人間となる。
473文字

--------------------------------------------------
436 日本の常識

「ボランティア活動を普及させようとすれば、それは強制になる」という反対者がいる。ボランティアは自由意思に人であるから、強制の逆であるはずだが、我が国ではそう簡単にはならない。意思 (will) は未来構文の内容であるが、日本語には未来構文はない。意思のない日本人には、意思も自由意思の意味も理解できない。意思薄弱 (weak-willed) ともいえる日本人の前で力説すれば、それは強制と結果的に変わりないということになる。言霊 (the spirit of language) の効果によるというものであろうか。これも、「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」の例であろう。
295文字

----------------------------------------------------
2008年08月29日(金) 09:47 435 日本の政治

日本語は、事実のみを述べるように出来ている。実況放送、現状報告の内容ばかりの発言をしている人は、当人が対岸の火事を見ているようなもので、本人の直接行動を期待することはできない。意思のあるところに方法があるといわれているが、意思の無いところには、方法もない。それで、無為無策といったところか。日本の政治はその表れである。

意思は未来構文の内容で、日本語には、その未来構文が無い。だから、日本人は未来のことを組織的に考えることが難しく、この国には何でもそろっているにもかかわらず、ただ夢・希望だけが無い。未来社会の内容をはっきり描いて励むのでなければ、現実対応にも矛盾が生じて建設的なものにはならない。
298文字
-----------------------------------------------------------

2008年08月23日(土) 16:39 434 上下のこと

私の祖母は明治10年の生まれであったから、江戸時代の生活をした人ではなかった。だが、当時の年寄りから話を聞いていて、封建時代のことをいろいろと話してくれた。家の前の道は往還といって、殿様が通った道であったということである。殿様が通るときは、あらかじめ道に浜砂をまいてきれいにしておくのだそうである。殿様の行列は、「下におれ、下におれ」と掛け声を掛けて通り、民は土下座して行列を見ることもなく通り過ぎるのを待っていたそうである。
今の世の中では、「下におれ、下におれ」は、誰にでも通用する言葉ではない。
人の上に立つためには、リーダシップが必要である。だが、従来型の「下におれ、下におれ」との掛け声を掛けるだけでは、リーダシップ (主導権) は得られない。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といわれている。だが、「人は人の上に人を造る」のである。オリンピックの競技においても、点 (数) は人の上に人を造る。民主主義の世の中であっても、人民の上に立つ大統領は選出される。
我が国では、「上と見るか、下と見るか」の相対論が盛んである。「どうせ人間のなすことだ。どんなにがんばっても高が知れている」というような絶対論的見地からの発想は出ない。だから、個人格差の検出は微小の程度にまで及びがちである。
「上と見るか、下と見るか」という伝統的な世俗的判断力ばかりでは、日本人社会の衰退はまぬがれない。未来に関する発展的な発想に欠けているからである。これが、向上心あふれる日本人の悩みである。
相対的な比較により、勝負に勝ったら大きくなって見せ、勝負に負けたら小さくなっている。その態度が自惚れと自虐の間を行ったり来たりしている。こうした上下感が我が国の歴史の解釈にも反映されている。日本語と階称 (言葉遣い) の関係をもっと気をつけて追跡する必要がある。
772文字

-------------------------------------------------------------

2008年08月23日(土) 03:36 433 日本人の意識改革

日本を覆う閉塞感は、事実と構想を分離できないわが国民の考え方に起因している。
過去の体験を過去構文の内容として語る一方、自分の考えを現在構文の内容として表現するとか、
現在の内容を現在構文の内容として語る一方、「あるべき姿」としての自分の考えを未来構文の内容ととして表現すれば、自分の考えと現実は分離できる。
時制のある英語を使うと、この操作が可能になる。
だが、時制のない日本語では、こうした考えの操作は難しい。
現実の内容と考えの内容とは殆ど一致しないにもかかわらず、考えと現実の内容を同次元の構文で述べたら区別が難しい。
そして、現実の内容と考えの内容とは殆ど一致しないから、発言者の内容が自己矛盾する。
内容を矛盾させないためには、発言内容を現実の事柄だけに限るしかない。さすれば、自分の考えは排除される。
かくして、日本人は、無哲学・能天気の人となる。
日本人には、英語の習得を義務化したメンタリティの変革が必要である。
415文字

--------------------------------------------------------

2008年08月12日(火) 14:52 432 教育改革の必要性

目の前のことは、大切である。目の前を良く見て車の運転をしなければ、交通事故は避けられない。
だが、当面のことばかりに気を取られていては、ナウな感じのするその日暮らしの生活は避けられない。
我が国には何でもあるが、ただ希望だけがない。この国を覆う閉塞感の暗雲を取り除く必要がある。
人生には、遠い未来のことを考える時間も必要である。
そして、未来の内容を考えるには、未来構文が必要である。
日本語には時制がないので、いうなれば、現実構文ばかりの言語である。
だから、日本語は、ナウな感じのするその日暮らしの生活の源でもある。

感性の内容は感覚器を通して得られる。だから、実感がある。子供でもわかる。誰にでも信じられる。
理性の内容は、感覚器を通して得られない。だから、実感がない。子供にはその理解が難しい。
原爆で死んだ人の数は、目で見ればわかる。だから、日本人は原爆の威力を見て戦争をやめた。
もしも戦争をやめることなく続けた場合の死ぬ人の数は、目で見てもわからない。
「理屈などは、どうでも良い。現実を見ればわかる。」という人には思慮がない。歌詠みには、その限界がある。
だから、我が国の伝統的な教育を改革することには意義がある。理性判断なくして生きる力を育むことは難しい。

アメリカ人のフランク・ギブニーは、自著 <人は城、人は石垣> の中で、「英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行う言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。」と述べている。だから、同じ原爆に対する評価も日本人と英米人では質的に違ったものになる。我々には、国際的な理解の可能性を探る必要がある。
何故、英語が絶えず論理的な価値判断を行う言語であるかといえば、次元の違った二通りの文章 (たとえば現在構文と未来構文の内容) を並べて、その優劣を判断できるからである。現実構文である日本語で考えると、全ては事実のみであるはずで、個人構想・内容の優劣を判断できない。
837文字
--------------------------------------------------------

2008年08月10日(日) 21:33 431 原爆の日

私の高校時代の社会学の教科書には、「物言えば、唇寒し秋の風」という俳句を引用して、我が国の封建時代の言論の自由のなさを説明していた。
西洋のように異端者を火あぶりの刑に処したことはないが、我が国の為政者は住民を十字架にかけて殺した。歴史的なことばかりでなく、今日でも、誰も知らぬ間に何者かに頚動脈をかき切られて暗殺されたり、ライフル銃で頭に風穴を開けられて殺されることは、何処の国でもありうることであろう。同じ宗教に属していても所属する会派が違えば、お互いに殺し合いをしなければならない国もある。
私の妻は、「そのようなことを書くと、自分に良いことはありませんよ」と忠告してくれる。

原爆の被害は悲惨である。日本人は、ただ熱心にそれを歌にして詠む。それが人間に与えられた義務であると考えているからであろう。
必勝祈願しても、我が国はアメリカに勝てなかったのであるから、日本人の精神主義も当てにはならず、言霊の効果も期待できない。
我々には、戦争状態を平和な現実に導く具体的な道筋が必要である。
経済力を背景にした軍拡競争は、ついにベルリンの壁を崩した。核の超大国となり核戦争の脅威を明らかにすることも、その答えの一つである。
日本人が悲惨さを説明しなくとも、各国の政治家たちは、その馬鹿さ加減をよく理解できているはずだ。さすが軍国主義の日本人も、原爆の威力を見て戦争をやめた。
今不足しているものは、核兵器の威力による精神的重圧である。核爆発の悲惨さは子供にも理解できるが、核兵器の威力による精神的な重圧は子供には理解できない。威力は理性により捉えられ、悲惨は感性により捉えられる内容である。
世界平和への道筋が見つかったら、各国の首脳に理性に訴える圧力をかけて、現実を世界平和の方向に動かすことができる。経済大国の我が国には、その可能性がある。
我々には、世界平和への強烈な圧力手段を持つ道筋を組織的に探求する努力をしなければならない。そして、現実の圧力を実行に移す固い決意をすることが必要である。
いずれにしても、平和念仏主義では、現実は動かない。
865文字
---------------------------------------------



最近の作品