中教審のこと      寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021116

 

中央教育審議会(鳥居泰彦会長)は11月14日、同法の全面改正を求める中間報告を遠山敦子文部科学相に提出した。

 

この報告は現代の我が国の社会を批判しているが、実は日本語・日本人に関する批判と考えることができる。

 

「自由と責任」については、日本人の場合には、意思の自由にあらずして、恣意の自由になる。意思があれば説明責任 (accountability) はとれるが、恣意ではとれない。とかく、この世は無責任となる。

日本語には、時制がない。意思(will)は、未来構文の内容である。文章構文がない場合には、個々の単語はばらばらのまま存在し、小言・片言、和歌・俳句となる。ばらばらの単語により表されるものは、恣意(私意・我儘・身勝手)である。このような状態は、言語の未発達な子供の状態である。

現実形(現在形)では、その内容に個人差は出ない。だが、未来形なら、個性が出る。

その内容に貴重な意味が存在する。だから、個人主義の存在も可能になる。

「権利と義務」については、日本人の場合には、権利は私利、義務は義理である。英米人の求めている「あるべき姿」とは無縁な考えである。義理は、伝統的な序列観念で、日本語の階称「言葉遣い」に基いている。だから、日本人の頭の中では、権利と義務は対をなさない。

「個と公」については、「公」の対立概念は「私」である。個人は、公においても私においても生活の中心でなくてはならない。

実況放送・現状報告の発言しかない人間には個性が見られず、個人という言葉は行きどころが無い。我が国においては、個人選びを通して公人の指導者を選出する段階で問題が発生する。それは、個人主義 (individualism) と利己主義 (egotism) の見分けが困難なことによる。

英語の概念は、日本語においてはバランスが欠如したものになる。が、これは、当然ともいえる現象である。

「倫理観」について、個人が軽視されている社会では、個人の倫理観は育たず、人々は形式主義に陥っている。

 

現行法の中の「個人の尊厳」について、個人主義の理解が得られない社会には、個人の尊厳は得られない。人間は、単なるモノとして取り扱われている。

「真理と平和」について、真理は「あるべき姿」(things-as-they-should-be) 即ち哲学の中にあり、「今ある姿」(things-as-they-are) における「嘘、本当」の中にはない。平和は、単に争いのない状態を意味するものではなく、個人が「あるべき姿」の中において生活することである。

 

国を愛する心は、個人意見の尊重を通して行なわれるべきものである。他人の号令の下に行なわれる筋のものではない。

国づくりに参加する態度の養成は、個人意見を尊重することにより達成されなくてはならない。意思のない個人は、とかく、受身形の態度をとりがちである。

道徳心や伝統・文化の尊重も、個人の価値観・意見を尊重することにより達成されなくてはならない。

1220 文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。

 

 

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