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教養のなさ

寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021019

 

時の流れに流されて、ああ言えばこう言うの発言を重ねていると、英米人から「哲学が無い」 (No philosophy!) と指摘されることになる。「哲学が無い」はさしずめ日本語の「教養が無い」に当たる言葉であろうか。英米人は、教養をつけるために大学に進学する。日本語の「教養がある」は、英語の「教育された」 (educated) ということである。哲学入門書「ソフィーの世界」に見られるように、西洋人は子供が思春期になれば哲学思考に興味を持ち始め、親許を離れて教育を受ける。高等教育機関はそのためにある。だが、日本人の場合には、大学において「あるべき姿」、すなわち哲学を学ぶことにはならない。現実形による「いまある姿」を学び続けることになる。この次元の勉強には際限が無く、詰め込み教育となる。つまり、哲学的考察は成り立たないので、大学の教養部はその意義を失い崩壊する。もしも教養部の崩壊が再編であるならば、日本軍の敗退もまた転進である。歌詠みの世界は、実社会に関する感想である。何処まで行っても皮相的であることに変わりがない。457 文字 (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

科学と技術、模倣と創造

寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021018

 

科学者・哲学者は、「あるべき姿」の追求をする人達のことである。英米においては、哲学博士 (Ph. D.) の称号がなければ、専門の科学者とは認められない。日本人は「今ある姿」しか考えることができない。だから、この国では、科学が伸びない。

日本人の得意な技術は、「今ある姿」に関する事柄である。技術は、科学を応用することにより付加価値を高めることができる。だから、日本人は、科学技術と二者を合わせて呼ぶことが多い。日本の大学には理学部があっても、科学部が無い。科学という概念が主体性を持つに至っていない為であろう。

未来構文の内容を現在の世界にコピーすれば、それは創造力を発揮したことになる。だが、現実 (現在) 構文の内容を現在の世界にコピーすれば、それは模倣となる。日本語には、未来形がない。だから、日本人は、専ら現実(現在)構文の内容を現在の世界にコピーすることになる。猿真似が得意といわれている。日本が技術立国として成功したのも、技術が現在の世界にのみ関係する事柄だからである。435 文字 (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

個人主義の難しさ 

寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021017

 

我々は、いわゆる、「嘘、本当?」の世界で育てられている。日本語には時制がない。国語の勉強において、現実構文の一本槍で鍛えられているので、発言の個人的内容における違いを容認することが難しい。個人的な発言の中に真理があるとは考えられていない。だから、個人は尊重されないし、個人主義も育たない。日本人の社会は未だにご唱和の世界である。164 文字 (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

くるくる変わる 寺嶋真一    2002/10/14        

 

国土の広さが大国の尺度ではない。政治力の強さが大国の威信を維持している。この国の有権者達は、目先の事しか注意を払う事はできない。話の内容がチマチマしていて、グローバルでもなければ、ユニバーサルでもない。たとえ目的は同じであっても、人・人により方策は全て違う。こうしたことをネタに、責任者達を突付き合って揚げ足とリを行っている。かような無作法も、我が国では意見の内に入る。このような状況では、責任者は長続きしない。失脚を責任者の席につく機会均等と見て有権者は政権短命を嘆かない。一人の人が10年くらい国政に責任を持つのでなければ、まともな事は成就できない。くるくる変わるようでいて、実は失われた10年が過ぎる。哲学など、くるくる変わるものではない。ただ無哲学で迷走するだけのことである。  342 文字  

 

 

英語力の違い   寺嶋真一    2002/10/14  

 

1901年に始まるノーベル賞は、今年で102回目になる。昨年までの受賞者は、医学生理学、物理、化学の3分野で478人に上る。

だがしかし、日本人は7人である。一方、米国の3分野の受賞者は200人で、英国も70人になる。米国では毎年恒例の出来事にすぎないのだが、3年連続のノーベル受賞が大ニュースとなる日本は、いささか時代がかっている。受賞者の学歴をよく見れば、その原因の違いがよく分る。英米人は英米の研究室で研究をしているのである。英語を基礎とする科学を、英米人と関わりなく進めることは不可能に近い。上記の受賞者数は、如実に英語力の違いを反映している。英米人と同じ研究室で研究する機会を与えられることの効果は、研究者にとって計り知れないものがある。英米での良い学習環境の機会さえ与えられれば、日本人の受賞者の数も急増するに違いない。わが政府も、本格的にわが国民の英米での留学・研究活動を増大させる必要がある。 403 文字  

 

 

洞察力のこと  

寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021016

 

科学は、「あるべき姿」(thingsastheyshouldbe)についての考えである。つまり、真理の探究である。日本人は、事実のことを真実と呼び、真理とも考えているが、英米人は、「あるべき姿」のことを真理と考えている。だから、科学は洞察力の結果である。

技術は、「今ある姿」(thingsastheyare)に関する考えである。つまり、目の前の事柄に関する考えである。技術は利用価値がなければその価値を失うが、科学は我々の生活の便利さとは直接関係がない。科学業績が不振な日本人に技術ができるのは、科学と技術は次元の違う考え方だからである。

日本語には、時制がなく、陳述の内容は全て目の前の事柄に関するものになる。

英語には、時制があって、陳述の内容は、日本語と同じになる場合 (現在形) と、ならない場合 (過去形と未来形) がある。技術の内容は前者に属し、科学の内容は後者に属する。だから、哲学博士 (Ph. D.) の活躍する科学の分野は、日本人には苦手なのである。433 文字  (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

哲学と積極性

寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021016

 

日本人社会の指導者は、床の間の置物のような人物が似合っている。無為無策であれば、人々は安心する。「あの人の一番の功績は、在任中に何もしなかったことだ」という賞賛の言葉もある。「あるべき姿」を考えることのない社会では、基準なるものを提案する個人は毛嫌いされる。彼は僭越であると考えられるからである。このような人々に囲まれて「言ってもだめだ」と諦観する人は多い。だから、次々と提案(proposition) を出して、相手に「Yes or no?」を求める個人は、危険人物ということになる。これが、基準作りに励む英米と我が国の姿勢の違いである。彼らの態度に戸惑いを感じるのは、我が国民だけではあるまい。

英米のやり方は、地球上いたるところに緯度と経度の線を引きまくるようなものである。グローバルであり、ユニバーサルである。でしゃばりのアメリカに、「イエス、イエス」と答える現実肯定主義の日本国政府を歯がゆく思う日本人は沢山いる。「政府は、言いなりになる」「弱腰」とののしる。主張するところもなければ、踏ん張るところも無い。ごまめの歯軋りである。そこで、当のアメリカ人に意見を求めると「抵抗は、常にある」と答える。これは、「悪人は、何所にでもいる」と答えるようなもので、彼らの哲学である。537 文字  (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

夢・幻でないならば

寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021016

 

夢は、幻と共に儚いものとされている。

夢は、未来の内容で、幻は過去の内容である。これらを現在の言葉 (現在形) で発言すれば、当てにならない内容になる。それは、実感が湧かないからである。

死後の世界は未来の世界である。未来形がなくては、死後のことを詳しく述べることはできない。第一、実感が湧かない。

死後のことでなくても、一般に未来のことを述べる時も、未来形が必要である。現実形 (現在形) で未来のことを述べると、鬼が笑いだす。だから、未来計画も信じてもらえない。話題にならない。かくして、わが国は、夢も希望もない閉塞感のある国になっている。

"You shall not kill." (殺すな) と言う神の言葉も未来形である。未来形のない世界においては「神も仏もなかりけり」である。無神論者の多い国となる。神学校から発展してきた大学とはおのずと違った雰囲気の大学が出来上がる。 378 文字  (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

理性と感性  

寺嶋眞一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021016

 

適当という言葉は、英語の reason-able (理性+可能) であるが、わが国では「適当(reasonable) にやれ」は、「不適当 (unreasonable) でもかまわない」と解釈される。してみると、英語のreason (理性・理由) は、日本語の内容にはなりにくい意味であると考えられる。「彼は理性的である」(He is rational.)との誉め言葉は、ほとんどわが国では聴いたことが無い。それに引き換え、感情を歌い上げる個人は、高い評価を受けている。だから、法治国家の顔をした情治国家となる。

基準に基づいた判断は適当 (reasonable) であるが、日本人にはこの基準の世界が頭の中に形成できないので、基準に基づいた判断 (二分法) ができない。二分法(dichotomy) の「イエスか、ノーか」の質問には強い反発を示す。だから「ノー」と言える日本人に成ることも難しい。383 文字 (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

とかく、この世は無責任

寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021013

 

外国人には、日本社会におけるしがらみがない。

それで、日産のゴーン社長のように、社内改革がうまく行く場合もある。

外国人に序列観念がないということは、職場に上下関係が無いということとは別儀である。

職場の上下関係は、責任の所在をあらわす。責任観念無く序列を作る日本人とはわけが違う。

日本人に責任観念がないのは、説明責任がとれないからである。

日本人に説明責任が取れないのは、判断結果に根拠がないからである。

判断結果に根拠が無いのは、判断の基準が無いからである。

判断の基準を持たないのは、日本人に「あるべき姿」を考える習慣が無いからである。

「あるべき姿」が考えられないのは、その内容が未来構文の内容だからである。

日本語には、時制が無い。従って、未来構文、現在構文の区別が無い。

未来構文の内容は、無い事。現在構文の内容は、有ることである。有ることと無い事を一つの構文で喋ると頭の中が混乱する。そこで、日本人は、目の前のことばかりを話すということになる。

ナウな感じのする話であり、その場限りの話である。現実肯定主義の態度である。

未来のことを話せば、鬼も笑う社会である。

いくら話しても、哲学的な話にはならない。暇つぶしである。

日本人は、昔から、今様踊りをする国民であったらしい。531 文字  (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。) 

 

 

 


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