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理性の獲得           寺嶋眞一    沖縄 無職 2003/04/14

 

小学校を開設し、識字率を上げても戦争はなくならない。理性判断のできることが必要である。リーズナブルな答えを出すことが求められている。

個人は考える。自分自身の基準を考える。基準に外れた状態は自分自身の問題となる。当然のように世界中の国、全てが問題を抱えていることになる。自分に基準・信念のある人は、現実肯定主義者にはなれない。

戦争は力の行使である。12年間も話し合って所定の目的が達成されなければ、イラク戦争のような武力行使となる。この世は地上であって、天国ではない。戦争は手段であって、目的ではない。力の行使は、万やむをえない場合の開腹手術のようなものである。真面目な話し合いがなくては、この地球が動かない。だが、力をかければ動く。だから、アメリカには一国覇権主義が必要なのである。戦わずして勝つことが目的であるが、現実にはなかなかそうはならない。

地上には、人種・宗教・家柄・学歴等に関わる数々の偏見や差別があり、戦争・紛争が生まれている。自己に基準がないならば、紛争当事者のどちらの側に立つべきかを判断できない。能天気の人は、その時「我、関せず」と言う。隠遁生活でもするか、この人は一国平和主義者になるしかない。我々の行くべき道を指し示さない個人は、我々の社会の指導者としては適当でない。

545 文字

 

 

没個性の影          寺嶋眞一    沖縄 無職 2003/04/14

 

ゆとりある教育は、日本人にとって手の届かないところにある教育である。横並びの教育には暇がない。没個性であるので、すぐに他人に自分の領域を犯されるから、目が離せない。ちょうど低価格と没個性を売り物にしている製造業のようなものである。いかにしても個人的価値を認められることはないというわびしさがある。他人の知っていることのみを争って頭に詰め込む競争の先には、試験地獄が待ち受けている。190 文字

 

 

憲法改正論議      寺嶋眞一    沖縄 名誉教授 2003/04/04

 

そもそも、今まで憲法改正の議題をタブー視していたことが、我々の大きな問題である。アメリカから与えられた内容であるとされているが、本家のアメリカはすでに30回ぐらい憲法修正条項を通過させているはずである。憲法といえども法律で金科玉条ではない。人間が神の教えを書き変えようとしているのではない。人間同士の取り決めを現場に合わせようとしているだけである。時代に取り残されないように努力するだけのことである。改正論議に何の躊躇もいらない。現状に照らして、矛盾のないように改憲できないのは、己の向かうべきところを知らないからである。自分自身に信念・哲学がないからである。279 文字

 

 

平和的では極めて出来にくい事      寺嶋真一    沖縄 大学教授 2003/03/30

 

「日本は平和憲法を持ち原爆投下された国である。米国に対し、武力行使は絶対反対の意思表示を早めに全世界に向け、声を大にして訴えるべきだ。二十一世紀の日米関係は対等に物が言える関係にすべきである。」という町の声がある。

日本は、敗戦・占領の後に民主化された。アメリカとの話し合いでも、平和的にでもなかった。其の後も、我が国は自由の履き違えによる後遺症に悩まされつづけている。個人主義が理解されなければ、民主主義も言論の自由も、その真価を発揮することはない。それでも、我が国民はアメリカに感謝している。

英文和訳も挨拶程度なら差し支えない。たが、翻訳作業を介しては知的な会話を行なうことは無理である。基準 (未来形) と事実 (現在形・過去形) が無くては、納得される「イエス オア ノー」(yes or no) の理性判断 (rational judgment) はできない。だから、我々には英語の習得が必要である。「日本人は、フィーリングで話をするからな」と誰かさんが言った。そういえば感情論というのもある。感情により意見ができるのであろうか。歌詠みのようなものか。468 文字 

 

 

日本の対応・賢明な対応               寺嶋真一    沖縄 大学教授 2003/03/29

 

我が国は、かならず英米と共に歩まなくてはならない。かつてのヒットラー、東條、スターリンのようになって、英米に反発してはならない。英米の指導者は全知全能ではないが、彼等の背後には理性判断の可能な有権者がついている。理性ある有権者は国の宝である。英米の指導者には崇高な目的があり、介入には始めから犠牲を覚悟している。だから、地球を動かす事が出来る。現今の我が国の有権者は歌詠みの有権者で、政治哲学を披露するにはなお力不足である。英米は、後から付いてくる日本を助けるが、国連は日本を助けない。国連内にはいろいろな考えがあるからである。サダム・フセインも、金正日も、世界の歴史をじっくりと学ばなくてはならない。301 文字 

 

 

話の内容について    寺嶋真一 (琉球大学)  terasima@med.u-ryukyu.ac.jp 20030216

 

「善いと悪いの区別は難しい」と日本人は言うが、英米人の答えはその逆である。この現象は、それぞれの言葉の持つ性質によるものと考えられる。

日本語には時制がない。従って、未来形もなく、意思 (will) もない。意思は、善意(good will) と悪意 (ill will)に別けられる。善意を示す人は善人、悪意を示す人は悪人である。善人と悪人の区別ができないと、犯罪 (crime) と事故 (accident)の区別も難しくなる。したがって、刑事裁判の信頼性も低くなる。日本人に陪審制度は可能であろうか。

 

何事も比較の問題で、より確からしい説明を採用する。より安全な船に乗り換える。これらは、我等の生活向上の手段である。

より確からしい説明もなく、より安全な船も手に入らない場合には、現状維持で、建設的な生活への望みは断念せざるを得ない。

有意義な議論をするには、より良い選択肢の提供が必要である。我々は、この地上において必ずしも完全無欠なものを求めているのではない。地上の最高は、天国の最高とは次元が違う。地上では、ただより良きものを望んでいるのである。より良い選択肢が見つからない場合には、現状維持にならざるをえない。それでも、なお現在ある他人の提案にケチをつける人は、無いものねだりをしている子供のようなものである。不毛の議論ということで、議論本来の意義は失われる。時間の無駄ということである。

「今ある姿」、つまり実況放送・現場報告の正しさは、事実関係を調べてみなくては判断できない。事実認定をして行くと、正しいことも事実誤認も発見される。誤認は間違いであるから、訂正しなくてはならない。そうでなくては、人は信用を失う。発言を正しく保つためには、記憶力が必要になる。暗記力の競争も起こる。

 

「あるべき姿」は、事実ではない。一種の構想であって目の前には存在しない。ちょうど分子の手のようなものであって、誰も見たことがない。それを信じるには理屈に頼るしかない。それ以外に、個人の名誉なども「あるべき姿」である。これは哲学である。人間本来の姿として「あるべき姿」の考えに属している。「あるべき姿」を考えることは、英米人の教養であり、高等教育により育成される。

「今ある姿」の発言の中には、個人の構想もなけれぱ信念も含まれていない。だから、この種の話の内容にも、またその延長線上にも人間性がない。例え事実の誤認が含まれていなくとも、この種の話の内容には、希望を託すことのできない空しさがある。

"Everyone needs a philosophy." (各人が一つの哲学を必要とする) は、英米人の常識である。かくなる社会的要求から、大学は哲学博士 (Doctor of Philosophy) の牙城をなしている。日本人も英米人から、直接、哲学を学ばなくてはならない。 1162 文字  この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。

 

 

 各人の方策     寺嶋真一    2003/02/16

 

民主党の菅代表は、査察追加報告に触れ、「米国のお先棒を担いで、武力行使を認める国連決議を作る方向で日本政府は動いている。日本人の大多数の気持ちと反する行動をとっており、容認できない」と語った。菅代表は、米国のお先棒を担ぐつもりはないのか。それで、自国を守れる方策をお持ちなのか。 

自由党の小沢党首は「(新決議採択に向け)コンセンサスが得られるように日本が努力をすること自体はいいことだ」と評価したうえで、「無原則、無定見に、ただ米国がやるからという話では政府の主体性も何もない。政府が国際平和の理念をまず持つことが先決だ」と語った。日本人政治家の世界観欠如がこの国の昔からの大問題なのである。哲学がなければ力もでない。308 文字

 

  

温故知新  寺嶋真一 (琉球大学)  terasima@med.u-ryukyu.ac.jp         20030216

 

戦前は「付き合いが悪いぞ」と言われ、いろいろなことに狩り出された。「何事もお付き合いが大切」で、私は「本土決戦」「一億玉砕」することになっていた。他人と同じであるならば、たとえ死んでも安全と思っていた。が、思いがけない原爆投下があって敗戦となり、生き延びることができた。イラクや北朝鮮の人たちも、これと同じ考えでいるのであろうか。

あの時は、ルーズベルトとチャーチルが話し合っていた。今回は、ブッシュとブレアである。英米人の指導者が話し合うと世界が動く。ヒットラーも東條も動かされた。

 

現在の地球は、英米の世である。そこには、中核となる人たちがいる。白人で新教徒である。彼らの言語は英語であって、民族の名前をアングロ・サクソンという。略してWASP (White Anglo-Saxon Protestant) という。彼等の数はそれほど多くはない。

その他大勢が圧倒的であるが、WASPには力がある。民主主義も彼等の仲間内であれば支持されている。有意義な話し合いができるからである。だが、何事も頭数のみで決着するとは限らない。他の民族の出身者である我々は、彼らの用意した舞台の上で、踊りを踊らなくてはならない。

アメリカにおいては、アイルランド人の子孫が大統領になったり、ユダヤ人やアフリカ系黒人が政府の高い地位に付くこともできる。が、それは、彼らがWASPの用意した舞台の上で、器用にもそれ相当の踊りを踊ることができたからである。哲学も科学も、政治家も学者も、こうしたことは皆同じである。

そうでなくては、問題を起こす。中でも大切なことは、リーズナブルな提案をすることである。何事も比較の問題であるが、個人のリーズンが少なくなるにつれて、その人の信頼度も落ちる。

イラクのサダム・フセイン (Saddam Hussein) も、北朝鮮の金正日 (Kim Jong Il) も、アングロ・サクソンの用意した舞台の上で踊りを踊ることができれば、長生きすることができるであろう。

 

我が国民は、日本語の恩恵を受けている。我々の国語は、こまやかな気遣いを表現できる言語である。目の前の事柄に注意を集中させて技術開発を促す。これにより品質の良い日本製品が生産され、販路も世界規模で拡大している。かくして、日本語は我々の生計を大きく助けている。

私は、英語と比較したときの日本語の特性・個性を述べてみたいのである。日本語をネタにして「上と見るか、下と見るか」の話をしようとしているのではない。更に知的な能力を身につけたいと望むならば、それを可能にする優れた言語の特性・個性についても考えてみたいのである。

私は、英語推進論者であるが、我が国民は日本語・日本文化を捨てなくてはならない、といったような荒唐無稽な話をしようとする意図はない。ただ、科学者のように、教科書も英語、論文発表も英語、学会講演も英語といったような学術的仕事をする大学人は、英語に堪能である必要があると述べているのである。いくら翻訳を盛んにしてみても、考え方の差は埋めることはできない。だから、その解決策を考えている。

逆に、大学へ行く必要も無い人は、小中学校で英語の授業を受けても、徒労に終わるであろう。それは、英語を話す必要というものがないからである。要は、挨拶程度の英語の必要性ではない。

英語を使った考え方に習熟する必要のある職業人が、英語を習得しているかどうかを問題にしているのである。是非、我が国の大学でも英語に堪能な人を育てたい。

 

「今ある姿」(things-as-they-are) は現在形、「あるべき姿」(things-as-they-should-be) は未来形の内容である。英語には時制があるが、日本語には、時制がない。それで、日本語は「今ある姿」のみを語る言語と考えることが出来る。

「あるべき姿」の内容を「今ある姿」の内容に変換できれば、それは創造である。「今ある姿」の内容を「今ある姿」としてこの地上に再現すれば、それは模倣である。

「今ある姿」を「あるべき姿」と比べて、その違いを指摘すれば、それは現実批判である。「今ある姿」を「今ある姿」と比べて、その違いを指摘すれば、それは格差の検出・横並びの発想になる。同次元序列の没個性的な争いも起こる。

何事も比較の問題であるから、「あるべき姿」の内容を考えることができないならば、善悪の判断も難しくなる。神様の言葉も信じることができない。

「今ある姿」に関するチマチマしたことも大切であるが、それしか喋らない人間は異様である。能天気なのであろう。

未来形の内容には、個人的な違いが見られる。だから、未来形の内容に興味を抱く人には個人主義が理解できる。

現在形 (現実形) だけを使って考える考え方を、未来形や過去形をも使って考える考え方と比較すると、民族性の違いの一端が明らかになる。日本人と英米人の違いも理解できる。 1995文字 この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。

 

 

能天気の変り方  寺嶋真一さん 公務員 200329 投稿 

 

能天気の変り方  日本の戦前と戦後の歴史は、ルーズベルトとチャーチルの意思により大きく変りました。ここで問題にしたいのは、その急激な変り方です。その後の変り方の特徴は、時系列に沿って、だんだんに、少しずつ変ってきたことです。私はそれを「なし崩し過程」「流される過程」と言っています。指導者個人の意思が作用していないので、急には変らない。だんだんに、少しずつ、しかし、常に英米の意図する方向に変ってくるのですね。あるところで急に変れば、「賛成か、反対か」ということになります。今回は、ブッシュとブレアの意志により、イラクと北朝鮮は急激な変り方を余儀なくされています。はっきりした計画も明示されずに少しずつ変ると、反対する人も賛成する人も、変わり方がわずかだから、「まあ、大したことではない」ということになります。30年後には、30年前に言っていたことと今言っていることは、唖然とするほどちがう、ということになります。それが「なし崩し」・能天気の変りかたなのです。国会議員の各々は、世界観を持たない面々である。本質を離れたチマチマした事柄が気になって、話が世界の本質論にまで至らない。自己利益の違いは、個人の数だけあるので、徒党を組む。世界観を除外して、自己利益の違いを基にすれば、二大政党にはならない。英米人から、考え方の基本を学ぶ必要がある。日本人であって、未来指向の人間であることは難しい。未来のことを語るのは、取らぬタヌキの皮算用に見える。実感が湧かない。鬼も笑って、相手にしない。未来の世界の有様について胸を膨らませて語る名演説というものは、日本人には存在しない。日本式の物言いでは、英米人とは議論できないことを困った問題と捉える必要がある。現実構文を使っていては、自己の世界観の上に立っての主張にならないからである。人格が定まらない。未来形がない、希望がないということは、こうしたところからも影響を及ぼしてくる。だから、我々には英語に基いた英米式の教養が必要であるのです。 831文字

 

 

人類の歴史とは   寺嶋真一    2003/02/04

 

小泉純一郎首相は、靖国神社参拝に関連して「死者に対して最後まで生前の罪を着せ、死んでもなおかつ許さないという気持ちはあまり日本人になじまない」と述べた。

生前の罪を着せたのは、我々国民ではない。A級戦犯は極東軍事裁判により連合国が決めたものである。人は死ねば裁きを受ける。「柩を覆いてその名定まる」という。こうした諺は日本人に馴染まないものではなかろう。首相の言うように、死ねば罪が許されるのであるならば、歴史上の人物の行為に価値判断を下すことはできない。誰が罪を認めたのか。誰がその罪を許したのか。このようなことを曖昧にしていては、日本人には人類の歴史書は書けないのではないか。  289 文字  

 

  

 

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