英語教育法の間違いから               寺嶋真一(琉球大学) terasima@med.u-ryukyu.ac.jp    20021221

 

私が残念に思うことは、この国の英語教育においては、英米人の考えを日本語を通して理解しようとしていることである。「英語を外国語として学ぶ場合には、、、、」という特別の前提条件には、致命的な危険が伴っている。このやり方は、あくまでも便宜的なものであって、英米人の主張の根拠を理解することが難しい。

英語の助動詞shall は、ジョーン・バエズ (Joan Baez) WE SHALL OVERCOME (勝利を我らに) のように固い決意を表すときに使う。マツカーサー(Douglas MacArthur) は、日本軍に追われてフィリピンを去るとき”I shall return!(私は、必ず帰ってくる)と固い決意を示したと言われている。私のこの発言に対する理解は「未来において、私は帰る」である。これで、私には彼の意思が理解できる。モーゼ (Moses) の十戒(Ten Commandments)の中には、shall ばかりが出てくる。出てこないのは、"Respect your father and mother." (汝の父母を敬え) 一つである。これは、命令形になっている。命令形は、日本人に理解しやすい。

 

厚生省検疫課長であった宮本政於の著した「お役所の掟」は考えさせられる本である。高官達は、will (意思) も示さなかったし、 shall (あるべき姿) もなかった。個人の意思でもなければ、神の意思でもない。成るに任せた自然体である。Willのない言語を話す人は、自発性に欠けている。宮本政於には、willもあったし、shallもあった。しかし、それらは全て無視された。これが我が国の個人主義の無さと言うものである。日本人が自分の意志らしきものを示すことをためらうのは、周囲から、それがもとで徹底した意地悪をされるからである。Shall Willで構成される構文の内容を毛嫌いしているからである。本能的に目の仇にされる。「そんなこと、聞かされてもどうしようもない」というところか。なるほど、英語で考えなければどうしようもない。日本人に発展の期待が持てない原因がここにある。日本人は、個人を守る場合も、国を守る場合も、自己の意見を言わない方針で行く。これは、自己の守りの為であって、他人の助けにはならない。待ちの姿勢は、エンドレスである。わが国民は、日本の常任理事国入りを期待している。英米は、でしゃばりである。次々と提案してくる。果たして、この、自己の意見を言わない態度は、国際社会の指導者に相応しいものか。

 

物言えば唇寒し秋の空、とは、何も封建時代に限ったことではない。自由・民主のこの世の中にも通じる。日本人には、これを打破する勇気がない。裏づけとなる理屈が見当たらないからである。「理屈を言うな」「現実は、そんなものではない」という。これは、文法的な問題でもある。文法的に成立たないことは、考えの誤りでもある。「話にうつつ () を抜かしてはいけない」ということで、発言はあくまでも現実の次元に踏みとどまっている。現実のみを肯定するのは実況放送の形式である。ゆめ () の中で語る構文はない。未来の次元に軸足を定めた発想法がない。英米人とは、話が合わない。話の次元が合わない。現実の気分・雰囲気ばかりの改革運動ではテンポものろい。もっと理論に基づいた基本的な改革運動が必要である。英語を通した考え方の普及がこの国には必要である。1395文字 (この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。)

 

 

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