話の内容について    寺嶋真一 (琉球大学)  terasima@med.u-ryukyu.ac.jp            20030216

 

「善いと悪いの区別は難しい」と日本人は言うが、英米人の答えはその逆である。この現象は、それぞれの言葉の持つ性質によるものと考えられる。

日本語には時制がない。従って、未来形もなく、意思 (will) もない。意思は、善意(good will) と悪意 (ill will)に別けられる。善意を示す人は善人、悪意を示す人は悪人である。善人と悪人の区別ができないと、犯罪 (crime) と事故 (accident)の区別も難しくなる。したがって、刑事裁判の信頼性も低くなる。日本人に陪審制度は可能であろうか。

 

何事も比較の問題で、より確からしい説明を採用する。より安全な船に乗り換える。これらは、我等の生活向上の手段である。

より確からしい説明もなく、より安全な船も手に入らない場合には、現状維持で、建設的な生活への望みは断念せざるを得ない。

有意義な議論をするには、より良い選択肢の提供が必要である。我々は、この地上において必ずしも完全無欠なものを求めているのではない。地上の最高は、天国の最高とは次元が違う。地上では、ただより良きものを望んでいるのである。より良い選択肢が見つからない場合には、現状維持にならざるをえない。それでも、なお現在ある他人の提案にケチをつける人は、無いものねだりをしている子供のようなものである。不毛の議論ということで、議論本来の意義は失われる。時間の無駄ということである。

「今ある姿」、つまり実況放送・現場報告の正しさは、事実関係を調べてみなくては判断できない。事実認定をして行くと、正しいことも事実誤認も発見される。誤認は間違いであるから、訂正しなくてはならない。そうでなくては、人は信用を失う。発言を正しく保つためには、記憶力が必要になる。暗記力の競争も起こる。

 

「あるべき姿」は、事実ではない。一種の構想であって目の前には存在しない。ちょうど分子の手のようなものであって、誰も見たことがない。それを信じるには理屈に頼るしかない。それ以外に、個人の名誉なども「あるべき姿」である。これは哲学である。人間本来の姿として「あるべき姿」の考えに属している。「あるべき姿」を考えることは、英米人の教養であり、高等教育により育成される。

「今ある姿」の発言の中には、個人の構想もなけれぱ信念も含まれていない。だから、この種の話の内容にも、またその延長線上にも人間性がない。例え事実の誤認が含まれていなくとも、この種の話の内容には、希望を託すことのできない空しさがある。

"Everyone needs a philosophy." (各人が一つの哲学を必要とする) は、英米人の常識である。かくなる社会的要求から、大学は哲学博士 (Doctor of Philosophy) の牙城をなしている。日本人も英米人から、直接、哲学を学ばなくてはならない。 1162 文字  この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。

 

 


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