宮本政於のこと
10. 嘘を許容する日本流配慮
宮本政於の<お役所の掟>の中に「嘘を許容する日本流配慮」という項目(*を付けた段落)がある。没個性の社会を批判していて興味がある。
*「みんなに迷惑をかけるようなことだけはしてくれるな」。私に好意を持ってくれている幹部からの、この注意にも、興味深いものがある。組織の責任体系がすべて長のところにいくシステムのもとでは、「私に迷惑をかけるな」との声は決して聞かれない。その代わり、「みんな」という代名詞が使われる。
滅私の世界では、個人が出ないように努力している。その代わりに、「みんな」という代名詞が使われる。個人が出ないところが、「世の中は、、、、」と似ている。滅私であるから、「私に迷惑をかけるな」はありえない。飼い犬の責任は、全てその飼い主のところに行く滅犬のようなものか。
*日本の組織では、組織を構成する人々に「一心同体」を求める。その結果、個人の見解が「みんな」という言葉にすり替えられ、相手に無言の威圧感を与える仕組みになっている。組織にとってマイナスとなりそうな考え方は「『ひとりよがりで、わがままだ』とみんなが言っている」と断罪される。日本では、みんなと異なることは、即「わがまま」と非難される。欧米諸国では、きちんと論理立てて自己主張ができる者は、少数意見の持ち主としてむしろ尊重されているのに、である。
子供には、恣意(私意・我儘・身勝手)がある。恣意(self‐will)は、ばらばらの単語であり、意味をなさない。だから、論理立つこともない。英米人は、大人になると、恣意の代わりに意思を持つ。意思(will)は、未来構文の内容であって、意味がある。だが、日本人には、恣意と意思の区別ができない。日本語には、未来構文がないからである。たまたま宮本政於のような論理立つ人が現れても、発言の意味を評価できない。日本人はその対応に困る。意思は、恣意と同等に捉えられている。そこで、「『ひとりよがりで、わがままだ』とみんなが言っている」と断罪して決着を計る。
*「迷惑」しいう言葉もくせものだ。迷惑とは相手(個人の単位でも集団でもどちらでもよい)に失望、不満、不快、不安、怒りを与えることである。もちろん、「迷惑」を感じる側には個人差があり、ある人によっては迷惑でも、違う人にとっては迷惑でないこともある。
この場合、「迷惑」の意味するものは、「irritation (いらだたせること、苛立ち、激昂、立腹)」であろう。それは、しかけられた議論には対応不能だからである。これは、わが国の伝統ともいうべきものである。
*ところが、「みんなに迷惑がかからないようにせよ」となると、自分を抑えざるをえない部分が圧倒的に多くなり、「個人」の意見を主張することはたいへん難しくなる。「個」を主張することは、必然的にだれかの失望、不満、不快、不安、怒りなどを引きおこす。結果として誰かが「迷惑」を受けることになる。「みんなに迷惑をかけない」ようにするには、人々の感情を刺激しないレベルの発言内容にとどめるしかない。そればかりか、嘘を強要されることもある。真実を言わないでいれば、迷惑をかけなくてすむような状況の場合、真実のほうは隠せということにもなりかねない。極論すれば、迷惑をかけないためには嘘をついてもよい、ということにもなる。
個性は、未来構文の内容に表れる。日本語には、未来構文はない。だから、「個」を主張することは難しい。個人がなければリーズン(理由・理性)もない。だから、理性判断(rational judgment)には縁がなくなる。「本当にバカな戦争をしたもんだ」ということにもなる。
*このような対応は、なにごとも勇気をもって真実を直視すべきだ、というキリスト教文化を基礎としている欧米諸国との、文化摩擦の原因のひとつになっているような気がする。なぜなら、「多少の迷惑がかかると思っても、嘘だけは言うな」「真実を直視できないものは、人間としての弱さの露呈である」というのが欧米流の考えであり、嘘を許容する日本流の「配慮」など通用しないからだ。
現在の地球は、英米の世の中である。欧米諸国との文化摩擦は根絶しなくてはならない。裏と表、義理と人情の世界では、現実直視の意味もあいまいになる。これらは、どちらも現実構文(現在構文)の内容になりうるからである。「嘘だけは言うな」「現実を直視せよ」は、現実ではない。我々の努力目標である。だから、それらを実際に行う人は尊敬されるのである。日本人は、こうした努力目標を保持することが難しいので、時流に流される。信頼も薄い。
1878文字
9. 不思議なこと
宮本政於は、<お役所の掟>の原稿を投稿したことが、厚生省内で問題になった。以下は、K局長と宮本政於(私)のやりとりの一部である。
私「いずれにしても、私が言うことに不満を持つ議員先生がいたら、直接、僕に回してください。責任を持って対処します。」、K「君が責任を取ってもどうしようもない、こういう話はトップが責任を取ることになるのだ。」、私「でも局長が書いた内容でないのに、どうして責任を取らなければならないのですか。」、K「君は厚生省では技官グループに属する。その長は私なんだ。技官グループで問題がおきたら、私が責任を取ることになるのだ。」、私「しかし、それは変な話ですね。たとえば、部下の決定事項で、上司が直接関与したものであれば、上司が責任を取るのは当然だと思いますが、今回のように、知らないところで運ばれたことに対して、上司が責任を取るなんて、理解できません。」
このようなやりとのがあったのだが、私の上司たちはえらく立腹している。反論するべき点は反論したことがなおさら火に油を注いだ結果となってしまった。だが、いかにも不思議なのは、私が書いた本質についての議論に入ることが不可能であったことだ。
本質についての議論がないことを宮本政於は指摘している。本質とは、「あるべき姿」のことで、「著者が責任を持って対処する」のが宮本政於の主張である。局長のKは、宮本政於の「あるべき姿」に賛成でも反対でもない。「今ある姿」に精通していて、それだけを述べる。だから、議論に接点がない。あらかたの日本人は、「あるべき姿」の内容に焦点を合わせることが出来ない。それで、議論が無駄になる。これが、宮本政於の不思議である。「あるべき姿」は、未来構文の内容である。そして、日本語には、未来構文がない。実況放送・現状報告のための言葉、すなわち日本語を使ってでは「あるべき姿」の内容に焦点を合わせることは難しい。わが国の有識者・知識人は、英語に基づいた考え方をも習得すべきである。これが日本病の原因療法である。
843文字
8. 「生活大国」の道
宮本政於は、自著<お役所の掟>のなかで、以下のように述べている。
「仕事は個人の生活を豊かにするための道具」と考える生き方のほうが、「個人の生活を犠牲にしても組織のために頑張ろう」という意識より、よほど人間的と思える。それこそが政府の掲げる「生活大国」の道ではないのだろうか。
個性は、未来構文の内容に表れる。日本語に未来構文がないので、個人は日本人の注意の外にある。それで、わが国では、個人主義(individualism)が理解されにくい。個人主義は利己主義(egotism)と誤解されることも多い。逆に序列(hierarchy)に基づく組織はこの国の伝統である。序列は、日本語の階称(言葉遣い)によりあまねく理解され、親の血を引く兄弟よりも強い団結力を示すことが理想とされている。
世界に誇れる「生活大国」の道には、階称無視と未来構文の活用が必要である。有識者・知識人の英語による考え方の理解が必要である。
403文字
7. 建て前・本音の文化
宮本政於は、自著<お役所の掟>の中で、建て前・本音の文化について以下の如く述べている。
「欧米諸国は本音と建て前の使い分けなど行わない。小さいときから、論理立った対応に慣れているため、怒り、妬みの感情を制御する手法を習得している。NOを言われても動じず、相手にも堂々とNOを言う。この対応ができてこそ大人の社会へのパスポートを手に入れることができる。反対に、日本ではできるだけNOを言わないように努力する。日本人は自分の中にある「攻撃的な感情」の制御に慣れていない。そのため、いったん出はじめると、止めようがなくなる。そういう習性を無意識のうちに理解しているからこそ、建て前・本音の文化が形成されたのだろう。お互いに甘えあうことができるという認識が存在するからこそ建て前・本音が成り立つのだ。だが甘えの文化から発祥する建て前・本音の行動形態は、欧米から見れば幼児的ととられてしまう。」と。
「あるべき姿」は未来構文の内容であり「今ある姿」は現実構文(現在構文)の内容である。日本語には未来構文はないが、英語を話す民族で未来構文が使えなければ、その人はまだ子供である。「あるべき姿」は哲学者、「今ある姿」は歌詠みの考えることである。自己の「あるべき姿」と「今ある姿」を比較すれば、その差の有無をYESとNOに置き換えて答えることが出来る。「今ある姿」のみでは、YESしか出ない。現実を否定することはできないから、現実肯定主義となる。どうにもならないのに虚勢を張っているのを「引かれ者の小唄」というが、これが日本人のおかれた立場である。建て前も本音も現実構文の内容であるから、現実を変えることにはつながらない。
701文字
6. 国民に選ばれた人たち
宮本政於(宮)は、三権分立についての意見を厚生省の幹部(幹)たちとの会食の機会に述べた。以下は、宮本政於の著した〈お役所の掟〉のなかに出てくる、そのときの会話の一部である。日本の現状を反映していて興味がある。
幹「国会なんてそんなもんさ。俺がお前みたいに初めからバカにした態度をとらないのは、程度の悪い議員でも、いちおう国民に選ばれた人たちだからだ。だから形だけでも尊敬の念を表すことにしている」、宮「ところで、官僚の中から、権力一点集中の問題点を指摘するような人が出ても、いいのではないですか」、「君は世の中の見方が甘い。せっかく権力を手に入れた人間が、簡単に手放すような真似をすると思うか。政治家が努力して解決する問題なのだ」、「でも、現状を見ていると政治家が自分たちを改革するのは不可能ですよ。選ばれる人も選ばれる人なら、選ぶ人も選ぶ人ですからね。しかし、局長の理論だといつまでたっても官僚絶対主義は変わりませんよ」
410文字
5. 官僚絶対主義
宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。
宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」
著者は、日本人の知的低水準の問題を指摘している。官僚もそれを確認している。官僚にすがらなくてはならない事情もよく説明されている。無哲学・能天気では、英米流の政治は成り立たない。有識者・知識人は、英語に基づく考え方をも理解しなければならない。これが日本病の原因療法である。役人が日本をしょって立つのは対症療法でしかない。
654文字
4. 不毛の議論
宮本政於は、〈お役所の掟〉のなかで、本省に呼び出しを受けた折の審議官(A)および直属の上司(J)とのやりとりを記している。
A「君には、組織の中で生き残ろうという気持ちがまったく見られない。普通は生き残ろうと努力するものだ。」、J「朝日にあんな投稿をして、恥ずかしいと思え。」、私「あなたは恥ずかしいと思うから書かない。私は恥ずかしいと思わないから投稿したのです。あなたの考え方を私に押し付けないでください。」J「今後、あのような行動は慎んでほしい。」、私「投稿するかしないかは、私自身が決める問題で、あなたにあれこれ言われる筋合いのものではありません。」、A「きみは、我々とは別世界にいるんだよ。」、私「残念ながら、そのようですね。」、J「君のような考えで行動をとられては、えらい迷惑だ。」、私「異なった考え方を、とり入れてゆくだけの包容力を持つことが、民主主義の基本ですよ。」、A「君と我々は価値観がまったく違う、まあ、外国帰りだから、多少の違いはあると思っていたが、こうまで違うとは。世界が離れすぎている。」、J「我々と同じ考えでないものは去ってもらうしかない。」
日本人には、個人にリーズン(理性・理由)を求める習慣がないのであるから議論にならない。違った意見の持ち主に対しては手の施しようもないので、「辞めてもらうしかない」となる。だから、これは不毛の議論である。
585文字
3. お役所のいじめ
宮本政於は,<お役所の掟>のなかに「お役所内のいじめ」について以下の如く書いている。
「いじめ」は入省してから一年間執拗に続いた.ところが二年目に防衛庁に出向するとなくなってしまった.知りあいの課長はその理由を,「出向組は、「お客様」なのだ。だからこそ「いじめ」がないのだ。それだけ、気を引き締めて相手から後ろ指を刺されないようにしなければならない」と説明してくれた。「お客様」でいる限り「いじめ」にあうことはない。「ムラ」を訪れた「お客様」には外面(そとずら)だけのニコニコ対応となる。が、けっして「ムラの内」には入れてくれない。「いじめ」という通過儀礼を受けてはじめて「ムラ」社会の一員になれるのだ。だが、このような前近代的な儀式が、官僚組織という国際社会にいちばん近いところにいる人々の中でまかり通っていること自体、日本の国際化のレベルがどの程度なのかを物語っている。と。
「いじめ」は恣意(私意・我儘・身勝手)あって、理に合わない。恣意は、ばらばらな単語で構文がないので、意味を成さない。それで、「あるべき姿」に関する議論にもらない。社会の責任者は、かような理不尽の行為に説明責任を果たすわけにも行かない。これが、前近代的なのである。「ムラ」社会は序列社会である。日本人は理のない「いじめ」に精を出して、構成員の序列作法の獲得を目指している。没個性の序列に統一された一糸乱れぬ社会の気分・雰囲気を得たいと考えているためである。こうした理不尽な気分・雰囲気を大切にする態度が、国際社会に通じないのである。日本の有識者・知識人は、英語による考え方をも理解する必要がある。
685文字
2. 今の国情
ある晩、宮本政於(宮)は厚生省の幹部(幹)たちと会食する機会をえた。そのときの会話の一部は<お役所の掟>に記されている。今の国情を反映していて興味がある。
幹「うがった見方といわれるかもしれないが、国会議員はいまのままでいてほしいのだ」、宮「法案作成能力に欠けた立法者にしておく、ということですか」、「まあ、そんなところかな。法律に基づいて国を運営する。これもひとつの権力かだよな。でも、法律を作るということは、もっと大きな権力を持っていることなのだ」、「それは私もそう思います。権力はいったん手に入れたらだれも手放したくない。これはひとつの真理ですよね。官僚がいつまでも権力を握っていたい、が本音なのですね」、「穏やかな発言とはいえないが、そういう見方もある」
330文字
1. 嫌み
宮本政於は、<お役所の掟>のなかで、「嫌み」について下記の如く書いている。
「横並び」の発想は、休暇に限ったことではない。厚生省に就職して間もないころ、私は同僚・先輩たちとともに元大臣と会食する機会があり、フランス料理に招待された。私は自分の好みの料理を注文したのだが、私以外は全員が元大臣と同じメニューを頼んだようで、私の前だけ、みんなと異なった料理が出てきた。それは、ちょっと異様な雰囲気をかもしだしたようで、元大臣こそなにも言わなかったが、みんなは「宮本さんの料理はおいしそうだね」とか、「その料理はなんですか」とか言ってきた。嫌みとわかっていたが、気にしないで「僕は兎(うさぎ)が大好きなんですよ」と答えたときの彼らの困惑した表情は、とても印象的であった。
時制がなければ「あるべき姿」の考えは利用できず、「今ある姿」対「今ある姿」の比較になる。これは、横並びの比較といわれて、やきもち焼きの原因になる。子供は、言語が未発達のため、見たもの乞食でこの感情に苦しむ。そして、日本人の大人は嫌みを発する。個性は、「あるべき姿」の内容にある。「あるべき姿」のない社会には、個人主義に対する理解もない。
499文字
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