上下思考
日本人は、物事の上下を考える癖を持つ。この考えの癖を僕は名づけて上下思考と呼ぶ。それから、この上下判断を世の中のすべての物事に当てはめて世界を把握するやり方を、上下主義とか上下思想と呼ぶことにする。
日本人の考え方を知るためには、日本語文法を研究するのが手っ取り早い。日本人は、相手を目上・同等・目下に分けて、また、さらにそれらを細かに分けて言葉を選ぶものである。目上に対する言葉は、特に同等・目下へのものより区別されている。「死ぬ」は「お亡くなりになる」、「来る」は「お出でになる」、「食べる」は「お召し上がりになる」である。現今の日本の文法学者のやり方は「お亡くなりになる」の「お」はどういう役目をし、「亡くなる」の活用形はどのようであるかの分析であるが、これらは白人流の目の付け方なのである。このような分析の仕方は不可能ではないけれども、このようなやり方だけでは日本人の心などつかめない。
湯とは熱い水 (hot water) のことである。「湯は、熱い水のことである」との認識のない日本人はいないのであるが、日本人は湯のことを決して熱い水とは呼ばない。この湯と熱い水が同じ物を指すとの理論をヨーロッパ語とアルタイ語の比較のすべてに押し拡げることは危険である。「死ぬ」は、「お亡くなりになる」のと同じ事実を指すというのでは「言葉遣い」を問題にするわれわれの心はつかめない。日本人が言葉遣いを問題にするというのは「亡くなる」の活用形の話ではなくて、上下思想に沿った動詞の正確な選び方のことだからである。日本人とアメリカ人では学ぶ国語が違うだけではなく、その焦点までが違うといえる。
小学校で子供に「横断歩道は、手を挙げて渡りましょう」と教えれば「それではいけない。『横断歩道は、手を挙げてわたりなさい』と教えるべきだ」という日本人がいる。アメリカ人の教えでは、これらはどちらでも同じことなのであるが、日本人が「、、、、渡りなさい」を主張するのは「子供は、そのように、あまやかしてはいけないからだ」ということである。
このような考え方をする日本人には、理性の教育に限界がある。「それをした方が良いか、しない方がよいか」を考えるところで、「やれ!」と言われてはやるが、「していただけますか」と言われればやらない人間を作り出すからである。日本人は、対人関係において、理性・理由といったものが成り立たない。自分の意見を言うことなく、ただ相手の出方をじっと見守る人たちである。日本は、米国人に友好国の筆頭にも挙げられる国柄でありながら、一面、米国にとっては対敵取引法 (Trade with Enemy Act) をちらつかせながら交渉するもやむをえない国民なのである。
戦前、海軍兵学校で講義の内容を理解できない学生が「先生、分かりません」といったら、その教官が「分かれ!」と怒鳴って出て行ったという笑い話があるが、戦前の教育はとりわけお粗末なものであったらしい。ある朝鮮人の自伝によれば、日本の教師は、小学生の彼らに、打つ・蹴るの暴力沙汰で服従を求めたようだ。理性なき世界では、人間の教育はさながら牛馬の調教のようなものになる。規則・規則・服従・服従で全てが事足りたようである。
人間関係を人称で区別する英語的な思考形式は、個人が理性的な言動をする上で何ら障害にはなりえないが、上下思想ではこうはいかない。上下思想では、「個人は、目上の考えに従う」と決められており、このやり方が世俗的基準に拠るがために、目上の者の発言と自分の理性判断が食い違うことがあるからである。昔の日本人ならば「やってはいけない」と思うことをして「これは避けられなかった」と言って泣く。そして、浪花節のたねとなり庶民の共感を呼ぶ。今の大学生がこのジレンマ (dilemma) に立たされれば、ゲバ棒を振るうことになるであろう。いずれにしても「世の中は、、、、」という形式でしかしゃべることのできない日本人は、泣くか、あばれるかしか、仕様のないものである。
孔子は、「いくら知識を頭の中に詰め込んでみても、(個人)判断ができなければ無意味である」といっているが、自分個人と他人とを区別して語る形式を持たない日本人は、判断といえば社会的判断のこととなる。そして、この判断の基準を頭に詰め込むことに狂奔する。「上官の命令は天皇陛下の命令だ。あそこのニワトリを盗んで来い!」という台詞を何かの兵隊映画で聞いたことがあるが、日常このような形式で語られる日本人の言いがかりを手際よく反論できる日本人が何人いるか疑問である。「世の中は、、、、」形式の発想法では、どう頭をひねっても批判などできないからである。「日本人は、一人わかったら、みんな分かりますよ」と外人が漏らすのも、日本人のこの「世の中は、、、、」形式のためである。「日本人は、全体主義だ」と言うのも、確かに当をえているが、日本人が全体主義であるのは、「個人主義か、それとも全体主義か」の選択をした結果ではない。「世の中は、、、、」形式でしか語ることのできない、このヤマト言葉が個人を抹殺し、全体を残したためである。
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寺嶋眞一 「日本人の世界 (III)」の一部より、ドクターサロン16巻8月号 (7. 1972) に掲載。