山本七平のこと
20. 基礎なき妄想
山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」の中で「徹底的に考え抜くことをしない思想的不徹底さは精神的な弱さとなり、同時に、思考の基礎を検討せずにあいまいにしておくことになり、その結果、基礎なき妄想があらゆる面で「思想」の如くに振舞う結果にもなった。それは、さまざまな面で基礎なき空中楼閣を作り出し、その空中楼閣を事実と信ずることは、基礎科学への無関心を招来するという悪循環になった。そのためその学問は、日本という現実にそくして実用化することができず、一見実用化されているように見えるのも、基礎から体系的に積み上げた成果でないため、ちょっとした障害でスクラップと化した。」と書いている。
徹底的に考え抜くということは、「あるべき姿」を考えることであり、これは未来構文の内容である。未来構文のない日本語を使っての考えでは到達しがたい。現象論・現実論を「あるべき姿」の哲学にすりかえれば、現実は思い込みにより妄想らしきものになる。その空中楼閣は現実構文の内容として語られるため、事実であると信じられることもある。基礎科学は事実ではないので、人々の関心の外にある。科学技術は、科学を応用した技術であり、あくまでもその本質は技術であるので、「今ある姿」の内容である。技術は事実関係で日本人にも受け入れられる。「今ある姿」は時々刻々変化するが、同じ次元の応用技術はその後追いにしかならない。それで、そのうちに現実を見失った技術になる。太平洋戦争は、ああ空しい。
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19. 自己規定のこと
山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」のなかで、「兵器部長は閑職、従ってアメリカのように一種の兵器至上主義とはいえない。といって、兵器の劣弱を補うゲリラ戦でもない。まことに中途半端であり、軍事思想において、何一つ徹底したものがなく、結局、基本的には無方針としかいえず、そのための計画らしきものはすべて空中楼閣になる。」といっている。
徹底した考えは、「あるべき姿」の内容であり、未来構文により表現される。日本語には未来構文がないから、徹底した考えはまとまらず、中途半端になる。空中楼閣ができる。
山本七平は、さらに続けて「いわゆる『精神力』という言葉は、この不徹底さをごまかす一種の“粉飾決算”的自慰行為にすぎないから、ひとたび『戦い不利』となると、一切の自信ある対策は生まれず、『一枚看板の大和(やまと)魂』も『さっぱり威力なし』ということになってしまう。」といっている。
大和魂は、恣意(私意・我儘・身勝手)である。それらは、小言・片言・独り言により表現され、構文の内容にはならない。従って、辻褄を合わせることも難しい。ただ、その意気を示すだけである。
山本七平は、さらに続けて「このことは、明確に自己を規定し、その自己規定に基づいて対者を評価し、その上で自己と対者との関係を考えるという発想がないことを示している。そしてこれは軍事だけでなくすべての面に表われ、技術ももちろんその例外ではありえない。小松氏の記す『日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する』という言葉は、単なる印象批判でなく、技術者として日米の技術を比較して得た結論である。」と書いている。
英米人は、英語を使うことにより、自己の「あるべき姿」に関する考えを未来構文の内容として確保できる。だから、学問ができる。日本語のような実況放送・現状報告のための言語では、どこまで行っても学問としての結論には達しない。捉えどころのない人間の発言となる。英語は、まことに便利な言語である。恣意を述べる相手は、「シェイム オン ユー」(Shame on you!)の一言で葬り去ることが出来る。わが国の有識者・知識人も英語による考え方に慣れ親しむ必要がある。さすれば、この国にある考え方の混乱は避けられる。
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18. 物量のこと
山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」の中で、以下のK氏の文章を引用している。
「今度の戦争は、日本は物量で負けた、物量さえあれば米兵等に絶対負けなかったと大部分の人はいっている。確かにそうであったかもしれんが、物量、物量と簡単にいうが、物量は人間の精神と力によって作られる物で物量の中には科学者の精神も農民、職工をはじめその国民の全精神が含まれている事を見落としている。こんな重大な事を見落としているのでは、物を作る事も勝つ事もとても出来ないだろう。」と。
日本人は勝負には力を入れるが、勝つことを目的として物量を合理的に配置することは苦手である。技術や勝負は現実構文の内容で組み立てられるが、戦勝計画は未来構文の内容である。そして、日本語には現実構文 (現在構文)はあるが、未来構文はない。日本人には、合理的な未来構文の内容に従って、現実の世界に物量を配置してゆくことが難しい。精神主義の日本人には精神がないということか。平和愛好の国民が、平和念仏主義に陥るのもこうした事情による。だから、この地球は英米の世の中になる。
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17. 日本人の錯覚
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で「宮本武蔵が、客観的制約を剣に限定されているなら”百人斬り”も可能であろう。ただし、武蔵の術は、機関銃の前には役に立たない。われわれは、非常に長い間、この一定制約下に「術」乃至 (ないし) は「芸」を争って優劣をきめるという世界に生きてきた。この伝統はいまの受験戦争にもそのまま現れており、ちっとやそっとで消えそうもない。そしてこの「術・芸」絶対化の世界に生きていると、この「術・芸」が、それを成り立たせている外部的制約が変わっても、同様の絶対性を発揮しうるかの如き錯覚を、人々に抱かすのである。」と書いている。
日本語には、階称 (言葉遣い) があるので、上下判断に基づいてこれを使用する必要がある。同次元で優劣を争い格差を検出して序列観念を形成することは、わが民族の伝統である。「飛道具は卑怯」であり「銃砲軍・攻撃機・戦車も卑怯」である。上下判断に基づいて序列社会を眺める癖がつくと、これより抜け出すことは難しい。そこには個性がなく絶対性がある。外部的制約が変わった場合には、それらが錯覚となることは致し方がない。
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16. 手段と目的
山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」の中で、「陸軍の“芸”至上主義は、戦後の受験戦争と非常によく似ている。すなわち、学力評価の手段である試験が逆に目的と化し、学問はその試験突破の手段となる。といった形である。そうなれば、試験に「アメリカ人にもわからぬ英文」が出題されて不思議でないように、戦場では絶対に起こり得ぬ情況を想定した訓練といったものがあっても不思議ではない。」と書いている。
英語では、目的は未来構文の内容で、手段は現実構文 (現在構文) の内容である。日本語には、未来構文がないので、現実構文の内容で目的をも言い表さなくてはならない。だから、手段と目的を分けて考えることが難しい。教育があって、教養がない。日本語に時制のないことは、わが国民の知的低水準の主原因となっている。
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15. 淡白な仕事振り
未来構文の内容に個性が表れる。だが、日本語には、未来構文がない。だから、日本人は、個人の把握がおろそかである。人は、自分のアイデアよりも、「どう見られているか」が気になるところである。個人無視は、自分個人の判断をなおざりにする。山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」にその事例を以下の如く掲げている。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。
自己の正当化が必要となるのは、結局、自分にとって任務は根本的に頼まれた仕事だからである。個性による人選がなされていれば、自分の判断にも自信が持てて、人目をそれほど気にすることなく仕事にも粘りが出る。
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14. 改まらない態度
日本語には、未来構文がない。未来構文の内容のない人間の営みがどのような結果になるかは、山本七平の書いた「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」の中に出ている事例が参考になる。
「当時日本を指導していた軍部が、本当は何かを意図していたのか、その意図は一体何だったか、おそらくだれにもわかるまい。というのは、日華事変の当初から、明確な意図などは、どこにも存在していなかった。ただ常に、相手に触発されてヒステリカルに反応するという「出たとこ勝負」をくりかえしているにすぎなかった。意図がないから、それを達成するための方法論なぞ、はじめからあるはずはない。従ってそれに応ずる組織ももちろんない。そして、ある現象が現れれば、常にそれに触発され、あわてて対処するだけである。 、、、、、 従って何の成果もあがらない。」
戦争は終わった。だが、日本人の営みは変わることなく、今日も延々と続いている。身をもって体験した地獄の苦しみも教訓として役に立っていないとは、このことである。わが国の有識者・知識人は、英語による考え方をも習得すべきである。
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13. 結論を出す過程の不安
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で「読者は安心したいのですよ。その人 (新聞社の人) は答えた。二つの相反する論説を比べて自分で結論を出す過程の不安に耐えられない。そして自分が出した結論にも安心できない。従って自分で考えず、考えることを新聞に白紙委任して、世の中はこうなのだと断定してもらって、それを信じて安心していたいのですよ、と。」と書いている。
日本人は、文法的制約により、自己の基準を内容として脳裏に保持できない。つまり、自分の意見を持つことが難しい。だから、他人を批判することもまた難しい。誰であっても、不得意なことをする時には、自信なく不安を伴うものである。長年の懸案も、先送りと積み残しによりやり過ごそうとする。不安なしで世の中のことを知りたい。日本の新聞がこの要求に応えている。こうしたことから、日本人の勉強も世の中のことを丸暗記する不安のない勉強になる。そして、いつまでたっても、教育も初等教育の段階に留まっている。
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12. 日本人の思考の型
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で、無条件降伏という惨憺たるたる現実に関して「私だけでなく多くの人が、事ここに至った根本的な原因は、『日本人の思考の型』にあるのではないかと考えたのである。 、、、、、日本的思考は常に『可能か・不可能か』の探求と『是か・非か』という議論とが、区別できなくなるということであった。 、、、、、そんなことを一言でも指摘すれば、常に、目くじら立ててドヤされて、いつしか『是か・非か』論にされてしまって、何か不当なことを言ったかのようにされてしまう、ということであった。」と書いている。
「可能か・不可能か」は、「今ある姿」(things-as-they-are) に関する考察である。「是か・非か」は、「あるべき姿」(things-as-they-should-be) に関する考察である。英語では、前者は現在構文の内容で、後者は未来構文の内容である。日本語には、時制 (grammatical tense) がないので、これらの区別は難しい。日本語は、前者のための言語といえる。前者には技術論が含まれ、後者には科学・哲学が含まれる。わが国の有識者・知識人は、英語による考え方をも理解する必要がある。
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11. 事実と判断
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」のなかで「彼が見た映画 (だったと思う) では『敵が来た』と報告する場面があったのだそうである。『バカにしてやがる、そんな報告するわけネージャネーカ』といつものように彼は憤慨した。確かにその通りで、こういう場合は『敵影らしきもの発見、当地へ向けて進撃中の模様』という。確かに彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応『敵影』らしいと判断し、こちらへ来ると推定したにすぎないわけである。そして対象はこの判断とは関係がないから、味方かも知れないし、別方向へ行くのかも知れない。しかし、だからといって一般の社会で、『女の人が来た』といわずに『女影らしきもの発見、当方へむけて歩行中と判断さる』などといえば、それは、逆に頭がおかしいと判断されることになろう。そしてそのことは逆に『事実』と『判断』とを峻別しなければ生きて行けない世界とはどんな世界なのか、さらに現実にその世界に生きるとは、一体どういう状態なのかが、今の人には全く理解できなくなったことを示しているといえよう。しかし少なくとも外国で何かを判断する場合、また外国を判断する場合は、この心構えが必要であろう。」と書いている。
著者の言うとおり「外国で何かを判断する場合、また外国を判断する場合」には、英米人の判断が必要である。英米人の判断は、リーズナブルである。リーズンは理性・理由で、リーズナブルとは、理由ある・理性あることである。何事も比較の問題で、「あるべき姿」としての判断基準 (理性・理由) を示し、この基準と比較した上で判断する必要がある。だがしかし、日本人には、この絶対基準を考えることが難しい。日本人の比較は、「今ある姿」対「今ある姿」のいわゆる横並びの比較になっていて、「あなたは5円盗んだ」といえば「彼は10円盗んだ」と答えるようなものである。「それで、どうした」の問いには、答えが出せない。盗みそのものの適・不適に言い及んでいない。だから、英米の世の中で責任者になっても説明責任を果たすことは難しい。
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