山本七平のこと
10. 現実離れ
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で、「多田参謀次長は陸軍の統帥部の最高責任者である。この最高責任者が『負けるから戦争はやめろ』と言っていたのである。不幸にして戦争はすでに始まっている。この場合に最も大切なことは、それに対する最高責任者の判断であろう。そして新聞に『知らせる義務』があるなら、この場合には、この最高責任者の判断こそ、全日本人に知らせる義務があったはずである。なぜこれらの最も重要なことを知らせずに、『戦意高揚記事』を書きつづけて来たのか。」と述べている。
「負ける」という判断自体、縁起がよくない。「縁起でもない」とうことは、気分・雰囲気が良くないということである。一方、戦意高揚記事は読んでいて気分がよくなる。彼らは、心地よい気分・雰囲気を求めて社寺仏閣・キリスト教会を巡り歩いている人たちである。その判断とは、気分のよしあしに基づく判断である。気分・雰囲気の内容は、現実構文の内容である。日本人の脳裏に良く浸透する。この種の判断により、日本人は現実肯定主義者であるにも係わらず現実離れをするのである。
462文字
9. 勝ち組は常に正しいか
「今ある姿」は、現実構文の内容である。そして、「あるべき姿」は、未来構文の内容である。「今ある姿」を「あるべき姿」と比較すると、現実批判ができる。英米人とも、話を合わせることができる。
だがしかし、日本語には未来構文がなく、「あるべき姿」がない。それで、現実の中から比較のための (絶対) 基準を捜し出さなくてはならない。
実況放送・現状報告の内容からは、絶対基準は得られるはずもない。
こうして「今ある姿」対「今ある姿」の横並びの形式の比較にすれば、日本人の頭の中にも抵抗なく入る。
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で、「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べている。
それにつけても、マッカーサーも、帰国後に行われた上院軍事・外交合同委員会の証言で、「日本人はすべての東洋人と同様に、勝者に追随し敗者をさげすむ傾向を持っている。」と興味ある発言をしている。自己の「あるべき姿」の内容を持つことのない我々は、勝者は常に何事においても、比較の絶対基準になると信じているのであろうか。判断が世俗的であること限りが無い。
652文字
8. 自らの意思の難しさ
意思 (will) は、未来構文の内容である。だが、日本語には、未来構文がない。意思の内容が明らかにならなければ、善意も悪意も判定できない。だから、英米人の考え方による『自らの意思に基づく言葉と行為』を判定する裁判は、日本人には難しい。そして、敢え無い最後を遂げる危険性がある。
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で以下のように述べている。「『自己批判シロ』『ハイ私は、、、、』『まだ自己批判がタリン』、、、、 こういった方法、すなわち反省の強要という形で判断を規制されていくと、最終的には、自らの判断もそれに基づく自由意思もなくなってしまうわけである。したがってその言葉はすべて『強制された自白』に等しく、その行為はすべて『強要された自主的行為』になり、『命令された』に等しくなる。それがいざ戦犯裁判となると、すべて『自らの意思に基づく言葉と行為』とされる。確かに、上官は彼に反省は強要したけれども、『命令は、していない』のである。」と。
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7. 未来のこと
山本七平は、「『空気』の研究」の中で「公害問題が華やかだったとき、『経団連』をデモ隊で囲んで、『日本の全工場をとめろ』といった発言に対して、ある経済記者が『一度やらせればいいのさ』と投げやりな態度で言った例にその実感がある。これは、臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。」と書いている。
彼の言う「臨在感的把握」は、私の言う「現実構文による理解」に相当する。未来の自分にどう響くかは、未来構文の内容であるから、日本語では把握しがたい。われわれの理解能力を超えているから、日本人は、未来に関する考察には投げやりの態度をとるのである。この事実は、歴史的に見て、わが国の未来にきわめて重要な意味を持つと考えることができる。
358文字
6. 危険の到来
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「事実を事実のままのべても、それは事実であるからそれをそのまま口にするだけのこと。口にすること自体は別に大変なことではありますまい。大変なことは、私が口にしようとしまいと大変なことです」と書いている。
宮本政於は「お役所の掟」のなかで「私は理論だったものごとの展開はするが、けっして頑固ではない。メンツだとか、プライドにはこだわらない。すくなくとも自分ではそう思っている。しかし、そのような私の性格が役所ではどうも災いの原因になっていることに気がついた。」と書いている。
こうしたしごく当たり前の態度が、日本人には当たり前とならないのは、日本人の求めるものが感情に基づいた発言だからである。 日本人は、英米流の議論をするために問題を持ち込むのではないようだ。議論をさけて問題を解決したいと願っているかのようである。これは、問題を抱えた時のきわめて危険な態度である。
398文字
5. 上下内外に関する差別の道徳
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。
非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりになるな」ということになる。
この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のまま知らせる必要がある。
それをしないなら、それを克服することはできない。と言っている。
「そんなこと、絶対に言えませんよ。第一、差別の道徳なんて、、、」と相手は言った。
山本七平は、非常に興味深い事実を指摘している。日本語には、階称 (言葉遣い) があって、上下と内外を区別して表現することになっている。上下を区別する (絶対敬語) のは韓国人も同じであるが、内外を区別する (相対敬語) のは日本人独特。だから、日本人の判断もそのようになっている。
408文字
4. 中庸の不徳
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである。」と書いている。
日本語には、現実構文 (現在構文) しかない。
現実は、不確定要素で絶対化できない。
絶対化できるものは、現実ではない。
現実の対象を臨在感的に把握するには、現実構文が必要である。
現実構文の内容は絶対化できない。
そこで、比較のために、絶対化できないにも係わらず絶対化できるものと信じる対象を現実の中から捜し出す必要が生じてくる。
それが、現人神のようなものである。つまり、実況放送・現場報告の内容は、絶対神のようなものにはなりえない。
そして、この世のものであるにも係わらず完全無欠と無理にも信じることにより、比較の困難を切り抜けようとする。
かくして、戦時中の新聞は「強大な武器を持つ、無敵の精鋭日本軍」の虚像を作り上げた。
「あるべき姿」と現実を見比べて、その中庸を選ぶ方法は、日本人にとってきわめて信頼が置けない。
というのも、「あるべき姿」は未来構文の内容であり、日本人からすれば、現実構文に載っている未来の内容は虚言に等しい。
そして、ペテン師のような話をする人は、不純な人間と見えるのである。
「虚像」と「不確定要素」を比較して判断する思考形式は、わが国民を限り無く無能に近づけた。
この種の判断は、日本人に関する非常に困ったことである。
622文字
3. 大人の自由
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「『やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ』で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の ”空気” に支配されて、「時代の先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。」と書いている。
日本人は、大人になることが難しい。それは、日本語に未来構文がないからである。「未来においては、あなたは人を殺さない」(You shall not kill.) という教えがあるが、これが現実の話でないと考えている日本人は少ないのではないか。この教えの内容は、いうならばわれわれの努力目標であって、現実における調教の為の掛け声ではない。
わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
467文字
2. 気分・雰囲気による決定
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「わたくしは二十年ぐらい前に、千谷利三教授の実験用原子炉導入の必要を説いた論文を校正したことがある。先日その控がでてきたので、何気なくよんでいて驚いたことは、「実験用原子炉は原爆とは関係ない」ことを、同教授は、まことに一心不乱、なにやら痛ましい気もするほどの全力投球で、実に必死になって強調している。今ではその必死さが異常にみえるが、これは、「原子」と名がついたものは何でも拒否する強烈な「空気」であったことを、逆に証明しているであろう。この論文をもって、当時の反対者の意見を聞きにいったら、その返事はおそらく「当時の空気から言って、ああ主張せざるを得なかった」であろう。こうなると、たとえ「空気の決定」が排除される場合でさえ、一人の学者がそれに使う無駄なエネルギーは、実に膨大なものであろうと思う。」と書いている。
われわれの求める正しい道、即ち「あるべき姿」は、未来構文の内容である。そして、日本語には時制がないから、未来構文はない。かくして、日本語は実況放送・現状報告のための言葉となっている。「空気」は気分・雰囲気で、現実構文 (現在構文) の内容となる。だから、日本人は受け入れざるをえないのである。このことが、わが国民を知的低水準に押しとどめている。わが国は、戦前も戦後もきわめて危険な状態にあることに変わりない。わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
613文字
1. 空気の影響力
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
指摘のとおり、日本人に関する非常に興味深い事実である。われわれの求める正しい道「あるべき姿」は、未来構文の内容である。そして、日本語には時制がないから、未来構文はなくその内容もない。かくして、日本人には哲学が難しく、日本語は、実況放送・現状報告のための言葉となっている。「空気」は、現実構文 (現在構文) の内容である。だから、無哲学・能天気の日本人は感情理論を受け入れる。このことが、わが国民を昔ながらの知的低水準に押しとどめている。わが国は、戦前も戦後もきわめて危険な状態にあることに変わりない。わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
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