日本人の観察した日本人
私を含めて、日本人が日本人を観察するとどの様なものになるかを以下にまとめてみた。
1. 時制・構文のこと/ 「雨が降ります」と「雨が降る」は、同じ意味である。日本語には、時制がないので、未来構文の’I will go.’(私は行きます)と現在構文の‘Igo.’ (私は行きます)の区別は難しい。
「月が出た出た」と歌うのは、「月が出る出る」と同じ意味ではない。同じ目の前のことであっても、前者は後者の完了を意味している。基本時制だけでは話の後先が区別出来ない。ぜひとも完了時制が必要である。「出た」が「出る」の現在完了とすれば、過去はないことになる。もしも「出た」が過去であるとするならば、その過去完了は存在しないことになる。これでは、過去の話をするのに不便である。要するに、日本語には過去時制はないものと考えるのが適当である。そして、日本人は過去の話はしない。なかったことにして水に流す。過去にこだわりを持たないナウな感じの人間である。淡白な人柄か。
山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」にその事例を以下(■をつけた段落)の如く掲げている。
■私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。
日本語で考えると、未来と過去のことは文章構文がないので、考えの内容にならない。夢と幻になる。
未来と過去の内容は雑念と呼ばれ、この考えにならないことが脳裏をよぎる。
現在構文の内容で考えをまとめるためには、現在の一点に神経を集中せざるをえなくなる。だが、これも難しい。
これらの雑念を打ち払って目の前のことのみに神経・精神を集中る努力は、日本人の精神修行の中に入る。
さすれば、刹那は永遠に見えてくる。
古池や蛙飛びこむ水の音 松尾芭蕉
2. この世をどのように理解し納得するか。英米人は、現実の現象について真実を使って説明する。探偵物作家であるアガサ・クリスチーのようなものか。現実に見えるものは、真実ではない。一方、日本人は世の中の現象を事の成り行きを使って説明する。事実の説明するときに裏と表を使い分ける。だが、「あるべき姿」が念頭にないので、どこまで行っても正邪の判定は出て来ない。説明に関する個人的意義にも言及できない。
何事も比較の問題である。英米人は「あるべき姿」と「今ある姿」を比較して、現実批判をする。これは、異次元間の比較だから、「あるべき姿」の究明が大切である。そのために英米流の高等教育がある。日本語には、未来構文がないので「あるべき姿」の内容が究明されない。そのために、英米流の高等教育が形骸化する。
「あるべき姿」が得られない時には、「今ある姿」と「今ある姿」を比較して格差を検出することになる。
「あるべき姿」は絶対基準であるが、「今ある姿」の間の格差は横並び(同次元)の比較の結果であるので、実はこの比較は「どんぐりの背比べ」になる。
「50円盗んだのが悪いか」「500円盗んだほうが悪いか」の判断になる。序列的観点に終始していて、ドライに割り切ることは難しい。日本人は、「良いと悪いの区別は非常に難しい」という。これは同次元の比較である。英米人の「良いと悪いの区別は誰にでもわかる」という考えとは対照的である。日本人の間のランキングは、日本語の階称(言葉遣い)により固定化されるので、現実構文の内容でありながら絶対化される傾向が強い。他人は自分をどう見るか、つまり「上と見るか、下と見るか」か、が常に問題となる。そして、序列の中に自分を見出すのである。だから、序列あっての自分なのである。これは、考えの内容にもとづいて自己を意識したものではない。
3.日本語には、階称(言葉遣い)がある。日本人の国語の勉強は、これを学びに学校へ通うようなものである。話し方に関する注も、断然、言葉遣い関係のものが多い。「上と見るか、下と見るか」の判断は、序列社会(タテ社会)の基礎をなしている。礼儀作法を習得しなければ、序列社会に加わることができない。
司馬遼太郎は、<革命と大衆をどうとらえるか>と題する座談会の中で、「大東亜戦争の前の秩序だって、軍人も含めた官僚社会が秩序整然たるものですね。たとえば、軍人なら、士官学校、何期で何番というのが、最後まで、任官の秩序になっていきますね。陸軍大学何番が、中将になるか、大将になるかのメドになっていきますね。どんな重要な会議をやっても、官僚的配慮 ------ こんな過激なことをいうと昇進がおくれるとか、あるいは過激なこと、戦争をやろうということをいわないと、昇進がおくれるとかいうことだけで進んでいきますね。そんな官僚社会のままで、あれだけの大戦をやった国は、世界史にないんじゃないですか。」と発言した。
日本人の礼儀作法は、序列人間の序列作法である。「者の上下」をその姿勢を使って表している。だから、外国など序列のないところでは、礼儀正しい日本人も礼儀なしとなる。ムラは、序列社会(タテ社会)の別名である。序列人間を育成するための強制も必要である。それが、いじめである。「出る釘は打たれる」だが、「出すぎた釘は打たれない」という。あくまでも状況による良し悪しであって、正義の問題とは関係がない。
序列は、同次元の比較結果であるから横並びである。その横並びの人が序列の順に並ぶとタテ社会ができる。
宮本政於は,<お役所の掟>の中で「お役所内のいじめ」について以下(■を付けた段落)の如く書いている。
■「いじめ」は入省してから一年間執拗に続いた.ところが二年目に防衛庁に出向するとなくなってしまった.知りあいの課長はその理由を,「出向組は、「お客様」なのだ。だからこそ「いじめ」がないのだ。それだけ、気を引き締めて相手から後ろ指を刺されないようにしなければならない」と説明してくれた。「お客様」でいる限り「いじめ」にあうことはない。「ムラ」を訪れた「お客様」には外面(そとずら)だけのニコニコ対応となる。が、けっして「ムラの内」には入れてくれない。「いじめ」という通過儀礼を受けてはじめて「ムラ」社会の一員になれるのだ。だが、このような前近代的な儀式が、官僚組織という国際社会にいちばん近いところにいる人々の中でまかり通っていること自体、日本の国際化のレベルがどの程度なのかを物語っている。
4. 意思(will)は、未来構文の内容である。日本語には、未来構文がないので、自己の意思を尋ねられても、Yesと No がはっきりしない。未来構文があるならば、その内容は自己にとって明らかである。質問と同じであればYes、そうでなければNoと答えればよい。未来構文を持たないならば、意思を表明するのは非常に難しい。黙っていれば、暗黙の同意ということで前にすすむ。
森田昭夫は、<「NO」といえる日本>の中で「上下の序列関係というタテの線では、下は上に「ノー」と言うことが失礼にあたると考える。上も下の「ノー」を生意気と捕らえるような雰囲気がまだ根強く、身分制度の残滓のように存在しています。上下関係のないヨコの線の場合でも、「ノー」ということで事をあらだてては損だという感じから抜け出ていない。」と述べている。
さらに、森田昭夫は、<「NO」といえる日本>の中で以下(■を付けた段落)の如く述べている。
■ひとつには子供のときから同質社会に住んでいて、まったく異質な文化を持った人間とのせめぎ合いをほとんど経験していないせいでもあるでしょう。黙っていてもわかってもらえるという期待感が多くの日本人にはあるわけです。要するに自分を理解してくれることを非常にエクスペクト、期待するわけです。アメリカ人なら納得できないことがあると、すぐボスのところへ言って、何であなたは私のことがわからないのかとはっきり自分の意見を主張する。ところが日本人の場合は、これくらいのことはわかってもらいたい。また仮に今わかってもらえなくても、いつかわかってもらえると思ってすませてしまうわけです。だから外国の社会に入っても、ここまで言わなくてもわかってくれると考えてしまうのです。そんな感覚が通用するのは日本国内だけで、欧米諸外国では、まず誰もわかってくれないのです。以心伝心なんて絶対にありえない。
意思を表現できない人は、相手の察しを期待している。わが国においては、以心伝心が高く評価される。これは、甘えの構造にも関係がある。
宮本政於は、自著<お役所の掟>の中で、建て前・本音の文化について以下(□を付けた段落)の如く述べている。
□欧米諸国は本音と建て前の使い分けなど行わない。小さいときから、論理立った対応に慣れているため、怒り、妬みの感情を制御する手法を習得している。NOを言われても動じず、相手にも堂々とNOを言う。この対応ができてこそ大人の社会へのパスポートを手に入れることができる。反対に、日本ではできるだけNOを言わないように努力する。日本人は自分の中にある「攻撃的な感情」の制御に慣れていない。そのため、いったん出はじめると、止めようがなくなる。そういう習性を無意識のうちに理解しているからこそ、建て前・本音の文化が形成されたのだろう。お互いに甘えあうことができるという認識が存在するからこそ建て前・本音が成り立つのだ。だが甘えの文化から発祥する建て前・本音の行動形態は、欧米から見れば幼児的ととられてしまう。」と。
英語の未来構文の内容を、未来構文のない日本語に訳すのは難しい。‘You shall not kill.’ を私流に訳せば「未来において、あなたは人を殺さない」となる。‘I shall return.’, ‘We shall overcome.’, ‘You shall not kill.’ などの未来構文の内容は、話者の意思を絶対化できる。英米においては、個人の信条は保護されている。個人主義なのである。意思 (will) があれば、悪意 (ill will) と善意 (good will) に分けられる。悪意に基づく行為をする人は悪人である。善意に基づく行為をする人は善人である。未来構文の発達しない段階では、悪意と善意の区別は不可能である。だから、子供には罪がない (innocent)。日本の大人にも罪が無いのであろうか。自分の意思の存在が意識されるようになれば、他人の意思の存在も認めることができる。神の意思の存在も理解できるようになる。あかの他人に自分の善悪の判断を任せる陪審制度は、よほどの性善説を信じる人でなければ受け入れ難い。
5.日本人は、馴れ合いを良しとしている。これが和の精神であろうか。不自由な日本語を使いながら、何事もつーかーの状態であることを人間関係の理想としている。しかしながら、この考えには行き止まりがある。全ての人間が均等な馴れ合いを獲得する機会はないからである。それよりも、人を遇するときは他人行儀がよい。他人行儀であっても受け入れられる「あるべき姿」を提案すれば、それで相手に納得されるようであるならば、我々は自己の提案を地の果てにまで及ぼすことが出来る。他人は、地の果てにまで住んでいる。
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で「読者は安心したいのですよ。その人 (新聞社の人) は答えた。二つの相反する論説を比べて自分で結論を出す過程の不安に耐えられない。そして自分が出した結論にも安心できない。従って自分で考えず、考えることを新聞に白紙委任して、世の中はこうなのだと断定してもらって、それを信じて安心していたいのですよ、と。」と書いている。
なにしろ、自分には意思がないのであるから、自己の行為はすべて受身によるものと解釈される。意思がなく、させられ体験があるのだから責任感はない。問題が発生すれば「責任者を出すな」は合言葉である。責任者・加害者が見当たらなくて、被害者ばかりが出ることが多い。「自ら進んで難関に立ち向かう」のではなくて、「苦しい立場に立たされた」が一般的である。だから、奉仕活動・勤労奉仕の推進も滅私奉公となりやすい。政治による被害は、自然災害による被害と同じであろうか。「とかく、この世は無責任」である。日本人には意思はないが恣意はあり、日本人の頭の中は、恣意(私意・我儘・身勝手)ばかりである。恣意には構文がなくて意味がない。小言・片言・独り言により表現される。だから、恣意は理由・言い訳にはならない。そして、説明責任はとれない。子供じみていて、腹芸自発の動機になる。「あるべき姿」を明かすことのない日本人は相手の判断を信頼していないし、自ら信頼されることもない。
宮本政於は、自著<お役所の掟>の中で、個人の責任について以下の如く述べている。
たまたま組織の庁にいるだけで、部下の言動、行動の責任を取るなど不思議な話だし、責任を取らされる上司だって、たまったものではないと思う。トップが責任を取り、部下は責任を取らなくともすむ、という責任体系は、必然的に組織に減点主義を導入することになる。だれも上司から睨まれたくない。だからできあがってくるものはかなり完成度の高いものとなる。日本人が高品質のものを作り出せる秘訣の一部はここに存在しているように思える。しかし、マイナスの面もある。それは、まちがいを恐れるあまり、前例を重視するようになり、結果として現状維持の姿勢を貫くことになってしまうからだ。
この責任の取り方のもうひとつの特徴は、個人としてはだれも責任を取らないという部分だ。責任は、組織体の長という「ポスト」が取る。そのポストに就いている個人の責任はうやむやにされてしまう。集団による責任回避体制いや、無責任体制が作られている。だから一応の責任をとったトップだって、ほとぼりの冷めたころ、その人に見合ったポストに就いている。つまり責任といっても、単なる「形式」、さらに言うならば実質の伴わない「型」なのだ。
先進民主主義国家とされる国々で、日本のように責任の所在が明確にされず、また個人がその責任を取らなくてもよいようなシステムが構築されている国はない。これだけでも、日本は異質なのではないか。
6.「今ある姿」は、実況放送・現状報告の内容として伝えられる内容である。技術・実学の内容もこの中に入る。「あるべき姿」ではないから、個性がない。「今ある姿」に関する個人的な違いは、事実誤認と考えられる。事実関係の教育は、自己に主体性のない詰め込み主義となる。詰め込み教育の出来具合が個性そのものの表れであると考えられているふしがある。個人の「あるべき姿」に照準を合わせた教育と試験をすれば、入試地獄は解消される。それから、主観としての気分・雰囲気の表現は、伝統的な歌詠みの道となっているが、主観的なことを議論しても時間の浪費にしかならない。傍から見れば暇人にも見えるが、当の本人たちは手詰まりの状態にあって閉塞感に満ち満ちている。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。というのは、おそらくわれわれのすべてを、あらゆる議論や主張を超えて拘束する『何か』があるという証拠であって、その『何か』は、大問題から日常の問題、あるいは不意に当面した突発事故への対処に至るまで、われわれを支配しているなんらかの基準のはずだからである。」と書いている。
小松真一も、<虜人日記>の中で似たようなことを書いている。「負け戦は負け戦として発表出来る国柄でありたかった。調子の良い事ばかり宣伝しておいて国民の緊張が足らんなどよくいえたもんだ。もっとも今度の戦争は百年戦争だなど宣伝されていたのだが、どう考えても本当のことを発表する可(べ)きだつたと思う。外国をだますつもりの宣伝が自国民を欺き、自ら破滅の淵に落ちたというものだ。いずれにせよ「転進」という言葉が出来てから日本は一回も勝たなかった。今度の戦争を代表する言葉の一つだ。」と。
7.「あるべき姿」は、未来構文を使って自己の絶対基準とすることができる。たとえ未来には天国に行けるという話でも、現在を基にとって、それを嘘と決め付けるわけには行かない。未来は、現在とは異なる次元の世界だからである。学問における真理の発見もそのようなものである。だから、真理は変わり進歩する。科学・哲学は、英米人に高等教育の必要な理由となっている。
司馬遼太郎の<翔ぶが如く・ニ>という小説の中で、その中で木戸孝允は、明治元年三月二十日に伊藤博文へ手紙を書いた。西郷隆盛の無血開城を非難したのち、その追伸に、「日本には海外にも通用する普遍的な道理がないために右のようにいろいろ混乱するのである。もっとも日本には武士道とか申す道理はあった。しかしこれは武士だけの流儀で、愚民たちは何ももっていない。万国共通の道理というものを立てねば今後こまるのだが、兄(伊藤)などはこれを考えておいてもらいたい」と書き添えた。万国共通の道理というものは哲学であろうが、日本人にそれが必要であることは、彼らも知っていた。武士道という序列人間の道理も通用範囲はごく限られた狭い範囲に限られていたことも知っていた。とはいえ、日本人にはそう簡単に哲学を用意できるものではない。その解決を見ないで今日に至っている。
しかし、「あるべき姿」を持つことのできない日本人は、「今ある姿」の内容を裏と表に分けてこの世を解釈する。それで、諦める。そうでなければ、絶対基準は立てられないので、事実の方を絶対化する。没個性の絶対がこの地上に出現することになる。日本人は、この現実を知るために高等教育が必要であると考えている。日本人は、来世の天国と地獄の内容よりも、この世の地獄と地上の楽園の話に興味がある。だから、新しい社会の建設にも熱心になれない。そして、物まねになる。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べている。
戦時中は天皇を絶対化し、戦後は新憲法を絶対化した。そして、日本人はその度毎に世の中に遅れをとった。「今ある姿」ばかりを考えていたのでは、自らの改革は難しい。日の丸・君が代についてはどうなのか。新しい旗と歌は用意してあるのか。
8. 無哲学・能天気 / 哲学者と歌詠み/ 哲学のないわが国に英米の哲学が持ち込まれるのは、一体どうしたわけか。それは、歌詠みが英米の「今ある姿」として、その内容を気分・雰囲気としてこの国に導入するからである。外来語が大量に導入されるのは、単に日本語の語彙が少ないからではない。良い気分・雰囲気を求めて大量に導入されている。より良い気分・雰囲気を求めて神社仏閣・キリスト教会を熱心にめぐる無神論者と同じ心根である。この国には、哲学者の「あるべき姿」対、歌詠みの「今ある姿」の戦いがある。「我思う、ゆえに我あり」(I think, therefore I am.) の「思う」は、英米人の「考える」であり日本人の「感じる」である。「だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか」とは、感じに関する事柄である。日の丸・君が代の問題について反対派と議論をするのは、哲学者が歌詠みに議論を仕掛けるようなものである。ようするに、歌詠みの説明によれば、日の丸・君が代を持ち出すことにより気分・雰囲気が悪くなるという感情論である。’There is no accounting for tastes.’ (趣味に論拠なし) という諺がある。個人に関することがらは「あるべき姿」ではなく、英米流の議論により決着を計ることは出来ない。理性のないものは、取り除くしかない。この英米流の判断は、日本人にとって銘記すべき極めて重要な事柄である。日本人は、常に「話し合いで」というが、エンドレスの話し合いを好む暢気な人であっては意味がない。この国の有識者・知識人は、英語による考え方を理解しなければならない。
私の専門である科学の場合には、報告書(report)はresults(実験結果)と discussion (考察)にわかれる。実験結果は「今ある姿」の内容であり、考察は「あるべき姿」の内容である。報告書は、優れた「あるべき姿」を発表することが目的であるが、「あるべき姿」と「今ある姿」の内容は次元が違うから、実験結果をいくら積み上げても考察の内容に達することはない。日本人は概して科学・哲学が苦手であるが、それは考察の内容の組み立てが日本語では難しいからである。これは、実況放送・現状報告をどんなに繰り返しても、「それで、どうした」の問いには答えられないのと同じである。
司馬遼太郎は、「この国のかたち・ニ」<無題>に以下(■をつけた段落)の如く書いている。
■明治憲法もまた他の近代国家の憲法と同様、三権(立法・行政・司法)が明快に分立していた。ただし、天皇の位置は哲学でいう空(くう)に似ていて、行政においては内閣が各大臣ごとに天皇を輔弼(ほひつ)(明治憲法の用語)し、輔弼者をもって最高責任者とした。が、昭和初年、軍とその同調者は、憲法について異常な解釈をしたのである。三権のほかに統帥権(とうすいけん)があるとし、この魔法によって 、、、、、 三権を無視しつづけ、ついには統帥権によって日本国そのものを壟断(ろうだん)した。そのあと国そのものをつぶした。
官僚は、実務家である。だから、「あるべき姿」に関する質問には答えることが難しい。残念ながら、わが国においては、政治家や有権者にもそのような人が多い。
宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。
宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、宮「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、幹「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、宮「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、幹「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」。
宮本政於(宮)は、三権分立についての意見を厚生省の幹部(幹)たちとの会食の機会に述べた。以下は、宮本政於の著した〈お役所の掟〉のなかに出てくる、そのときの会話の一部である。日本の現状を反映していて興味がある。
幹「国会なんてそんなもんさ。俺がお前みたいに初めからバカにした態度をとらないのは、程度の悪い議員でも、いちおう国民に選ばれた人たちだからだ。だから形だけでも尊敬の念を表すことにしている」、宮「ところで、官僚の中から、権力一点集中の問題点を指摘するような人が出ても、いいのではないですか」、幹「君は世の中の見方が甘い。せっかく権力を手に入れた人間が、簡単に手放すような真似をすると思うか。政治家が努力して解決する問題なのだ」、宮「でも、現状を見ていると政治家が自分たちを改革するのは不可能ですよ。選ばれる人も選ばれる人なら、選ぶ人も選ぶ人ですからね。しかし、局長の理論だといつまでたっても官僚絶対主義は変わりませんよ」。
ある晩、宮本政於(宮)は厚生省の幹部(幹)たちと会食する機会をえた。そのときの会話の一部(■をつけた段落)は<お役所の掟>に記されている。今の国情を反映していて興味がある。
■幹「うがった見方といわれるかもしれないが、国会議員はいまのままでいてほしいのだ」、宮「法案作成能力に欠けた立法者にしておく、ということですか」、「まあ、そんなところかな。法律に基づいて国を運営する。これもひとつの権力かだよな。でも、法律を作るということは、もっと大きな権力を持っていることなのだ」、「それは私もそう思います。権力はいったん手に入れたらだれも手放したくない。これはひとつの真理ですよね。官僚がいつまでも権力を握っていたい、が本音なのですね」、「穏やかな発言とはいえないが、そういう見方もある」。
戦前も戦後も日本人の考え方はちっとも変わっていない。だから、英米流の政治制度は常に借り物の政治になる。
日本人の知的低水準を説明するときに、時制を使うことなく行えば、下記に掲げた山本七平の説明のようにひどく難解な文章となる。
山本七平は、<「空気」の研究>の中で、日本人は、「情況を臨在感的に把握し、それによってその情況に逆に支配されることによって動き、これが起こる以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的」であると述べている。
だが、私が時制による構文の違いを使って説明すれば以下のよう簡単になる。
日本人は、「情況を現実構文(現在構文)の内容として実感を持って把握し、この過程によりその気分・雰囲気に呑み込まれて酔っ払い、逆に情況に支配される結果となる。この動きにより起こる結果の到来を事前に未来構文の内容として論理的体系的に論証してもそれでは動かない。それは、日本語に未来構文がないから、その話には実感が伴わない。が、現実構文の内容に対しては瞬間的に対応できる点では天才的」である。
中根千枝の説明では「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、それが熱いといくら説明しても受け付けない。しかし、ジュッといったときの対応は実に巧みで、大怪我はしない」となる。
だが、英文を使えば、このような現実構文と未来構文の内容の違いは、最初から自明のことであり、一方の未来構文が不在ということもあり得ない。
9. 最後になったが、私は感性が理性に劣るとは考えていない。日本人の感性は日本製品の質を高め、国際市場においてその存在を認められ、この国を世界第二の経済大国に押し上げた。感性の高さは、我々に幸運をもたらした。この国には、感性を追求してやまない人たちが多数いる。私は、感性を無視しているわけではない。日本人の感性の高さを評価する人たちの話は山ほどあるから、私は、誰もが知っている自己慶賀の内容をあえてこの場で繰り返すことはしなかった。そして、経済的な豊かさは、どの国の人たちも望むところであることは、今さら述べるまでもない。だがしかし、(1) 感性で理性を置き換えることは不可能であるであることと、(2) 「あるべき姿」は「今ある姿」で置き換えることができないこと、さらに、(3) 英語の助けを借りればこれらの問題は解決するということ、を特に申し上げたい。だから、我々は、感性と理性の両立を考えて今から行動しなければならないということである。
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