2008年05月31日(土) 09:31 > 英語教育
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> 英語教育
> 2008/05/30 17:20
> 英語を小学校からでも学ばせるべきだ、という。
極端な提案。言語の習得を効率的に行うには、必要性は欠かせない。
我が国で日本語を使って活躍している外国人たちも、小学校から日本語を学んだ人たちではない。
> しかし、語学というのは必要性が最も確実な誘因(インセンティブ)となる。
たとえば仕事で外国に行かなければならない、という状況が生まれてはじめて真剣に学ぶようになる物だ。あるいは外人を恋人にする時、とかも。
まつたく同感。
> 外国の、たとえばフィリピンやインドなどで、英語教育がしっかりしているとか言うが、これらはみな植民地時代、宗主国の言葉を使わなければならないという必要性があったからだ。インドなどでは多民族国家で言語も統一されていないので英語を公用語にしたという事情もある。
同感です。我々にとっては、個人的な経験の小さな範囲が世界のすべてですね。我々は、別の考えかたも知らないし、知ることもできない。また、知る必要もない。外国語を知らない人は、自国についても何も知らないということでしょうね。
> 日本ではそういった不自由は無い。生まれて死ぬまで、基本的に英語を使用しなくても生きていける。
だから、必要性の無い英語を10年学んでも使えないのは当然だ。
それが小学校から始めるからと言って状況が変わるわけはない。
そんなに英語を話させたければ、小学生を英語圏に留学させる事だ。そうなれば子供の頭の柔らかさは直ちに英語を習得させるだろう。日本語はおぼつかなくなるだろうが。
(以前テレビで、不法残留していた女性が”日本語しかしゃべれない子供”とともに強制送還された後、数ヶ月たって現地へ取材に行くと、子供はしっかり現地語をマスターしていて、日本語を忘れ始めていた、というのがあった)
同感です。必要性の無い英語を戦後の半世紀以上教え続けても使えないのは当然ですね。これ以上、玉砕戦法の繰り返しは避けるべきですね。我々は、必要が学習の母になることを歴史から学ぶべきです。
> と、ここまで書いて、もしかしたら、と思うのは。
「やはり、日常で英語を使わないから習得できないのだ」とか言って、日本を英語圏にしようという魂胆があるんじゃないだろうな。
ちゃんとした日本語を話す人々の国が東洋にあります。文化の保存が大切です。
我が国は、日本語と英語を公用語にすべきです。
>戦後すぐに、そういう話があったそうで、ひらがな禁止でアルファベットにしようとしたそうだが。(「現代仮名遣い」やら「常用漢字」はその話の中で決まったとか)
漢字などを縦書きにしているのは、我が国だけではないでしょうか。漢字の国・中国は横書き。
外国人に日本語を話させるには、アルファベットを使ったほうが早いですね。
>「日常会話で日本語禁止運動をしましょう」なんて真っ平御免だぞ。韓国の学校のように、「日本語を使ったら刑務所だ!」とか。
民族の伝統を守りましょう。
日本人が良い考えを出せば、日本語を英語に翻訳したい人は大勢現れるでしょうね。
>で、”保守”勢力は力が無いのでどうするかと言うと、「何を言うか、世界で最も使われている言語は北京語だ」とか言って、親中派を引き込まないといけないとか。
中国語にも時制はないので、中国語脳の持ち主は理性判断が出来ませんね。
> あーあ。どっちにしろ属国、とか。
我々は、首を縦に振る練習しか受けてこなかったのですから、当分の間は属国的であっても仕方ないことですね。
しかし、我々の未来は違う。
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2008年05月29日(木) 06:21 『危機感駆動型ニッポンの危機!?【続編】日本人の“無謬信仰”こそが閉塞の元凶だ』
NBOnline 『危機感駆動型ニッポンの危機!?【続編】日本人の“無謬信仰”こそが閉塞の元凶だ』2008年3月21日 金曜日 竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080319/150553/
の一部についてコメントを述べさせていただきます。
『無謬信仰が御上の論理に過ぎないのであれば、様々な失敗、失策の結果、とっくに信仰は瓦解しているだろう。ところが、政府や大企業の過ちを批判するマスコミや一般国民にも「御上(公共の責任を担うような大企業を含む)は本来無謬であるべきだ」という信仰があり、無謬信仰を根強いものにしている。』
無謬信仰の「あるべき姿」(未来時制の内容) と政府や大企業の「今ある姿」(現在時制の内容) が考えの中でごっちゃになっていますね。これは大変なことです。
政府や大企業に関する内容は、現実の内容です。
信仰の内容は我々の到達目標であって非現実の内容です。遠未来の内容です。
現実と非現実の内容が頭の中で峻別されていないと、その人の考えも発言も空理空論となります。
表があれば裏もある。「御上は本来無謬であるべきだ」は表向き (口実) で、裏 (現実) では間違いだらけである。
表と裏のある社会では、無謬信仰は生き続ける。
日本人の考察の範囲は、この世の中に限れている。だから、表も裏も現実の中にある。決して現実と非現実に分かれることはない。
そして、わが身は現実に流されている。だから、我が国には夢 (未来) も希望 (未来) もない。
ちなみに、日本人の夢は見ることは出来ても決して実現できないもののたとえとなっている。
英米人の考察の対象には、現実 (現在) と非現実 (過去と未来) がある。
非現実 (努力目標) を基準にとって、現実を批判して、現実を改革する。
西洋では、不可謬性 (infallibility) は、ローマ法王にしか認められていませんね。これが現実の世界です。
つまり、誰もが信じていることからは、この世に住む人でだれも絶対あやまちを犯さない人はない (No man is infallible here on
earth.)、ということでしょう。
『無謬を前提に作られたシステムはいかに精緻でも、1度失敗が起こると脆く、混乱する。システムの動揺に直面してどうしたらよいのかわからなくなるので、危機感が強調される。「危機を乗り越えるために総員必死になって頑張れ!」という展開になってしまう。無謬信仰と危機感強調カルチャーはこうして並存しているのではなかろうか。』
無謬性が想定され、想定外の事態が発生したら呆然自失の状態になるのが我々の歴史の常ですね。
思考を停止した人たちが、お上のありがたいお題目をご唱和して行動に出ると、このような状態になる。極めて危険な国民性である。
一億一心の次が一億総懺悔で、国がひっくり返っても責任者は出せない。とかく、この世は無責任か。
人々の思考停止により生ずる危機感は、終わることがない。
『丸山眞男は『現代政治の思想と行動』(1946年)で次のように書き、日本的政策決定プロセスにおける主体的意識の不在を批判している。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの事態は何を意味するのか」』
日本人には意思がないので、「我こそ戦争を起こした」という意識はないでしょうね。
意思 (will) は未来時制の内容で、日本語には未来時制がない。
日本人に考えられるのは、実況放送の内容と現状報告の内容しかない。だから、ただ「苦しい立場に立たされた」としか説明できない。
この世の「あるべき姿」を滔々と述べる語法・文法を持っていないから、日本人は、世の中に流されているのですね。
「あるべき姿」の内容を引き合いに出す語法・文法があるならば、「あるべき姿」により「今ある姿」を批判して、改善に踏み切ることが可能です。
何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの事態は、とりもなおさず日本人に理性判断が欠如していることを意味していますね。
現実と非現実を分けて考えることのできない日本語脳の持ち主は、知的労働には適していませんね。
だが、これも日本語そのものが悪いのではないらしい。日本人の言葉の使い方がわるいのである。
その証拠に、英米人は日本語で話しても、その内容が空理空論になることはない。
それにしても、考える人には、性能の良い考える道具が必要です。日本のインテリには英語が必要ですね。
幼少の頃から英語を習う必要はない。英語の勉強は、英語圏の高等教育を受ける程度でよいのでしょう。
我が国において日本語を使って活躍する外国人も、幼少のころから日本語を習っていたのではないでしょう。
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2008年05月28日(水) 15:06 『危機感駆動型ニッポンの危機!?ネガティブなニュースの濁流に流されるな』
NBOnline 『危機感駆動型ニッポンの危機!?ネガティブなニュースの濁流に流されるな』 2008年3月12日 水曜日 竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080310/149475/
の一部についてコメントを述べさせていただきます。
『要するに米国人は相手のパフォーマンスを評価する立場にある場合、ポジティブな表現に気前が良く、日本人は極めて禁欲的である。その反対にネガティブな表現を米国人はあまり使わない。最悪でも「OK」であり、それ以下の表現は相手と喧嘩する(あるいは部下ならクビにする)つもりでなければ普通は使わない。 、、、、、一方、日本人の方が職場や教育現場でもネガティブな表現を気軽に使う。学校の先生が勉強の足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句だろう。表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか。』
「どうも根がもっと深い」に同感です。
日本人には、個人意見がない。
現実肯定主義あって、現実を目の前に突きつけられれば、ただ首を縦に振るしかほかにない。諦観である。
英米人の考えの内容には、未来時制の文章もあって、それ相当の目標がたっている。
現実の問題は、現在時制の内容を未来時制の内容に近づける方策にかかっている考えている。
だから、現在の内容が未来の内容に近づいていればポジティブな表現になる。
『 日本のメディアは「危機」や「崩壊」などのネガティブ用語を多用して世間の雰囲気を悲観的な方向に傾斜させている──などと言うつもりはない。私はメディアの編集者らが日本人読者の強く反応しそうな用語を選んでいる結果に過ぎないと思う。
日米を問わず、一般にメディアは良いニュースよりも悪いニュースに紙面を割き、センセーショナルに報道する傾向がある。これはメディアの偏向と言うよりも、ある程度までは、良いニュースよりも悪いニュースにより敏感に反応する傾向が人間(読者、視聴者)にある結果だと思う。』
同感です。
『 日本の歴代首相や政治家は、まず危機感の強調から始まるタイプが多い。「日本はこのままではダメになる!」方式だ。一方、米国の大統領、政治リーダーたちはどんな困難な状況でもまず希望を語ることから始める。「私のリーダーシップを受け入れるならば、難局は打開できる」と、まず希望を語るのが米国のリーダーの資質だ。
』
危機を察知して、それを回避するのは、人畜共通の行動である。
希望の内容は、未来時制の文章の中にある。だが、日本語には時制がなく、和文には未来時制の内容もない。
「リーダーシップを受け入れる」ということは、その人物の意思を容認することである。
意思 (will) は未来時制の文章内容であり、英米人は言語を通して自己の意思の内容を大衆の前に明らかにすることができる。
日本語には時制がなく、日本人には言語を通して自己の意思の内容を明らかにする能力に欠けている。
我が国においては、国民が指導者に意思の内容を明らかにすることを求めることもなく、指導者が自ら意思の表明を行うこともない。
『 「日本は天然資源の乏しい小さな島国。だから資源を輸入して高品質の製品を製造、輸出して外貨を稼がなくては経済が立ち行かなくなる」 これは戦後の日本人の多くが共有した一種の「教条化された危機感」である。「臥薪嘗胆、富国強兵」は「輸出振興、高度成長」に代わったが、下地にあるエートスは同じ「危機感」である。
一方、米国は欧州で食いはぐれ、あるいは宗教的に迫害された人たちが「新大陸での希望」に賭けて移民してできた社会だ。16世紀には北米の植民者の半分ほどが最初の厳しい冬を越えることができずに死んだと言われるが、それでも彼らを突き動かしたのは「危機感」ではなく、「希望」だった。
』
希望は、言語により考えとして作られる。だから、言語がなければ考えもない。
だが、危機感は言語とは直接関係がない。危機感は、人畜共通である。私は、動物たちの悲しげな鳴き声を何回も聞いたことがある。
危機を察知する力は、動物に備わった本能である。適者生存の原則に沿っている。
『 アプローチを切り替えて希望駆動型にシフトし、個人レベルでは各人の弱点を強調、矯正するよりも、強みを伸ばす姿勢を取るべきではないだろうか。組織や社会のマクロレベルでは長期的な将来の目標を掲げて牽引する方策の方がよいのではなかろうか。そのようなビジョンを持った国政レベルのリーダーシップが不在であることは困ったことだが、各層でできることはあるだろう。
』
「強みを伸ばす姿勢を取るべき」に同感です。
それには、考え方の根本を正す必要がありますね。
我々は、言語を使って考える。だから、日本人の考えには、日本語の特性が表れます。
希望は、未来の内容である。未来に関する内容は、未来時制の文章により語られる。だが、日本語には、時制がなく、未来時制もない。だから、我々日本人には、未来の内容を未来の内容として考えることも、また表現することも不可能と考えられる。このような事情により我が国が希望のない国になっているといえるでしょう。
未来の国を求める国民もなく、未来の国に国民を導こうとする指導者もいない。これが、我が国の現状です。
だが、言語の問題は、言語の改善により解決できるものと考えられます。
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□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2006/04/17 10:04
日本語には、時制がない。したがって、現実構文 (現在構文) ばかりで、未来構文がない。
そして、危機は未来構文の内容であるので、日本人には危機感が足りないとよく言われます。
原因は時局に合わせた正しい情報をマスコミ報道がしていない事に大きな欠陥が有るのでしょう。
テレビ報道の影響力はその国を左右しかねませんが、残念なことに、国民の心を引き締めるも砂糖漬けにするも恣意的 (我儘・身勝手) なメディアの匙加減一つで決まるようです。
一日中ワイドショウ的な能天気番組が多い報道は猛省すべきですが、視聴者の要求がその水準にあることが更に大きな問題です。
無哲学・能天気の報道は、国の堕落に繋がり百害有って一利なしですから、理性的な判断により報道の質を高める事が大きな柱であると考えます。
332文字
□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2005/11/22 05:11
ひと事のようなもの
英米人は、自己の行為を理性で制御する。だから、自己の行為に自信が持てる。
日本人の考えは、「今、此処」に根ざしている。日本人は、ナウな感じの人である。
日本人には、理性がない。別次元の世界の有様が考えにない。
そして、「理屈は必要ない。見れば分かる」といった世界に住んでいる。
だから、行為にブレーキがかからない。気分・雰囲気に身を任せることになる。
そして、行為の主体である自分自身のことを恐れている。
気分・雰囲気は、「まことのこと」と考えられているに違いない。
国歌も国旗も恐ろしい。君が代・日の丸の気分・雰囲気が恐ろしい。
とはいえ、新しい国歌・国旗のアイディアもない。
日本人の行為はブレーキのない乗り物のようなものである。一旦走り出したら止めようがない。
だから、日本人は自分自身が恐ろしい。自分自身の行為がひと事のようなものになる。
ひと事であっては、行為の改善は容易でない。
384文字
□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2005/11/07 15:42
いつか来た道
日本語には、未来構文がない。
意思 (will) は未来構文の内容である。
それで、日本人には意思がない。
自己の発言内容が他と違うことを認められるのは、未来構文の内容においてである。
意思というものの存在が容認されていないのでは、個人に属する考え方の個性も認められない。
そして、我々の社会の意思決定を誰が行うかを考えることもない。
この国の指導者は、国としての行為という社会的責任に対応できないでいる。
小沢一郎さんは、自著<日本改造計画>の中の<いま、政治の改革を>で、以下のように述べています。
「政治のリーダーシップの不在が、結局、軍部の暴走を許し、その結果、我が国が犯した大きな失敗こそが、あの第二次大戦であった。世の中には、我が国が世界に人的貢献をすることは「いつか来た道」を繰り返すことになる、と批判する声が一部にある。しかし実際は、リーダーシップのない、決断できない政治こそ「いつか来た道」にほかならない。もし、決断できないまま、世界に対する人的な貢献もできないで時間だけが流れるのなら、日本は世界から孤立しかねない。「いつか来た道」とは、戦前の日本が英米を中心とした世界の国々との強調に失敗し、国際社会の中で孤立してしまったことである。そのことを忘れてはならない。」
533文字
□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2005/11/06 11:45
実践(実際に履行すること)の難しさ。
計画的実践は、我々にとって難しい。
潜在思念・雑念・不定形な思想・どろどろしたものを顕在化することが実現である。
潜在思念を英米人のように一旦未来構文の内容にして、その後に現実構文の内容に変換するか、
それとも、日本人のように一挙に雑念を現実構文の内容に変換するかの違いがある。
アングロ・サクソンは、未来構文の内容を用意して、その適用時の到来を待ち構えている。
日本人は、一挙に雑念を現実構文の内容に変換するその場の機転を誇らしげに思う。
だから、我が国では、マスター・プラン (基本計画) のない国づくりが行われる。
252文字
□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2005/11/05 20:31
日本人の非論理性
英米人は、「あるべき姿」を未来構文の内容にする。
そして、「今ある姿」を現在構文の内容にする。
未来と現在では世界が違うので、たとえ一人の人が話しても話す内容に矛盾は生じない。
「あるべき姿」は彼らの努力目標であり、「今ある姿」とは切り離されている。
ところが、日本人の場合は、日本語には現実構文 (現在構文) しかないので、
「あるべき姿」らしきものを現実構文の内容にすると、建前となる。
「今ある姿」らしきものを現実構文の内容にすると、本音となる。
どちらも、真実である。が、内容が正反対で両立しない。
これが、日本人の非論理性である。
260文字
□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2005/09/26 09:42
仕方のないこと
日本語には、未来構文がない。だから、日本語は実況放送・現状報告のための言語になっている。
「あるべき姿」の内容を持たない人たちには、天国のような究極の生活目的を考える余地がない。天国にも電気洗濯機が必要なのか、ロボットが必要なのかを考えたことがない。目先のことをしか考えられない。だから、手段が常に目的化している。
日本人の頭の中には遠い先の未来が存在しない。そして、目先のことを近未来と呼ぶ。どのような未来に行き着くためでもなく、ただ「世の中よ、変われ変われ」と大合唱している。だから、この国の政治は常に迷走する。
日本は先の戦争に負けたばっかりに、アメリカの同盟国となった。だから、木に竹を接いだ考え方や、無哲学・能天気であることもやむをえないことかもしれない。
330文字
□寺嶋眞一 静岡 無職 60才代 2005/09/20 23:06
国の使命と戦没者
先日、米国の国立アーリントン墓地を訪ねた。この墓地を訪れる外国人も少なくない。故ケネディ大統領の墓に敬意を表するためであろうか。
緑の芝生の上に白い墓標が整然と並んでいる。毎日、新しい墓が建てられている。
墓標はヘッド・ストーン (headstone) と呼ばれ、遺体の頭の位置を示しているのだそうである。 棺おけ以外の代金は、墓地の管理費など全て国の費用でまかなわれているのだと言う。永代供養とでもいったものか。
我が父親は、昭和17年2月にフィリピンにて名誉の戦死を遂げた。父の墓標 (石塔) は、家族とは別に建てられている。長男の私が、個人的に墓守をしている。外国からの参詣はないが、同病相哀れむといった形式の遺族会会員の参拝があるので、父を家族とともに葬ることもできない。老いた私に、墓守がいつまで続くのやら。墓守の居なくなった戦没者は、どのように祀られているのであろうか。墓には意味がないものか。国は、自国の戦没者のことをどのように考えているのであろうか。
425文字
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