寺嶋眞一の意見 39

イザヤ・ベンダサンのこと

10.  イザヤ・ベンダサンは、<日本教徒>の中の<序にかえて----ハビヤンの思想---->で「自己を語るの際、常に、自己の思想にそぐわないものを破すという表現になっても、積極的に自らの思想を語るという形にはなっていない。」と述べている。

日本人は、未来構文を持っていないので、自己の考えた「あるべき姿」を語ることはできない。だが、相手の批判ならできる。実況放送でも、現状報告の内容でもないからである。丁度、小さな子供が、親から与えられたものを「気に入らない」といって、絶えず首を振り続けるようなものである。建設的な態度ではない。日本人が子供じみて見えるのは、このときである。

9. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<日本教徒・ユダヤ教徒>で下記の如く述べている。

言外を悟るということは、日本語が完全にできるようになって始めて出来ることなのだ (この点、日本語を学ぶということは、言語の習得だけではだめで、言外の習得まで入るから、これを完全にやれるようになることは、私でも不可能。ましてや宣教師にできるわけがない)。そして実にこまったことに、日本教の根本理念を形成する「人間」なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされていることである。従って日本教の世界に外国人は絶対に入れないし、外国の宗教も日本には絶対に入れないのである。

考えは、必ず文章になる。文章にならない考えは、考えではない。「人間」の定義は、いまだなされていない。そして、私の「人間」定義は、「日本語で考える人間」である。日本語を使うと、即物的な情報のみが伝達可能となる。形而上の話はできない。それは、日本語には未来構文がないからである。「あるべき姿」を語ることの出来ない人間は、無哲学・能天気となる。日本人とって、「あるべき姿」の領域は言外領域となっている。そこでは、勝手な解釈が行われている。これは、上等の言語機能とはいえない。宣教師は、この精神状態を理解できないのである。

英米人は、未来構文の中に「あるべき姿」である真理を見つけようとしている。が、日本人は、「今ある姿」(現実構文) の中に真理を見つけようとしている。その為には、現実世界に住む人びとの異口同音の発言が必要となる。これにより、事実誤認は避けられるものと信じている。このような事情で日本人の真理はご唱和の方式により得られる。この方式により内容は、これより外には考えられない内容となる。現実の内容と自分の考えを区別する術がない。「日本は勝つ」という内容が現実構文の中に入れば、「日本は負ける」は消えて見えなくなる。そうでなければ、自己の発言に矛盾があることになる。この消失は、実に日本人の精神力によるものである。日本人が気合を入れたら、現実無視が起こりかねない。未来構文のない言語で考えれば、自分の意見を確保するという個人主義にたどり着くことも難しい。

8. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<全員一致の審決は無効>で下記の如く述べている。

ユダヤ人だけでなくアメリカ人も、日本人から見れば少々ばかげたことがある。裁判では、陪審員がまず有罪か無罪かをのべる。有罪ときまればあとは全く法律が自動的に作用するから、さまざまの犯罪を重ねたものには「懲役二百五十六年」などという判決がでる。日本人の目から見れば、百年だろうが、一五〇年だろうが、二百年だろうが、人間がそんなに生きているはずはないから、こんな数字は無意味であろう。しかしアメリカでは、それはあたりまえのことで、法は法として百パーセント適用されねばならないからであって、その人間がその期間の全部を服役できるかできないかは問題外なのである。

法の内容は、「あるべき姿」の内容である。現実は、「今ある姿」であって、「あるべき姿」の内容とは別次元である。日本語の現実構文の中には、「あるべき姿」の内容は入らない。考えの内容を現実構文に入れたら、それは現実の中の嘘になる。おまけに、現実構文の中に「今ある姿」の内容は入れられなくなる。その結果は現実を無視したことになる。これが、日本人の考えである。現実構文しかない日本語の考えにおいては、話にうつつ (現) を抜かしてはいけないのである。ところが、ヘブライ語のことは私には分からないが、英語では現実無視にはならないのである。それは、現実 (現在構文) と考え (未来構文) は別次元の内容だからである。

7. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<プールサイダー>で下記の如く述べている。

教育という面からだけみても、まず無意識的教育における会話教育などは、あれば不思議である。といえば反論も出ようが、その反論を仔細に検討してみれば、それは会話における言葉の問題でなく、むしろ態度、語調、礼儀の問題であることがわかる。母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリヤーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中で組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。

「上と見るか、下と見るか」の判断は、日本人の常に行うところである。
それは、日本語に階称 (言葉遣い) があるからである。
閉鎖的タテ社会に入って序列修行をする。
言葉遣いにより序列的発想を覚える。
序列作法 (礼儀作法) を覚え、おとなしい序列人間となる。
これは、教育基本法からは出てこない人間像である。

6. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<プールサイダー>で下記の如く述べている。

日本人が、少しもおっくうがらずに数を扱うことは、一つの事実である。だが、一方、言葉の訓練となると、これの比重は非常に軽い。というより「ない」と言った方が良い。大体、数の訓練といえば、日本人にはすぐにピンと来るが、言葉の訓練などといっても、さっぱりピンと来ないのである。特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟さす伝統は日本には全くない。従って、正面切った会話を主体とした文学作品は日本にはない。

「雨が降ります」と「雨が降る」は、同じ意味である。
日本語には、時制がないので、未来構文の’I will go.’(私は行きます)と現在構文の‘Igo.’ (私は行きます)の区別は難しい。
「月が出た出た」と歌うのは、「月が出る出る」と同じ意味ではない。同じ目の前のことであっても、前者は後者の完了を意味している。基本時制だけでは話の後先が区別出来ないので、ぜひとも完了時制が必要である。「出た」が「出る」の現在完了とすれば、過去はないことになる。もしも「出た」が過去であるとするならば、その過去完了は存在しないことになる。これでは、過去の話をするのに不便である。要するに、日本語には過去時制はないものと考えるのが適当である。そして、日本人は過去の話はしない。が、現在完了を流用して、きわめてナウな感じの過去らしきものを語っている。

未来構文の内容である「あるべき姿」と、現実構文 (現在構文) の内容の「今ある姿」の内容を比較して結論を出せば、現実批判ができる。
この批判は、根拠ある批判であり、リーズン (理性・理由) に基づく批判である。
根拠とは事実ではなく、個人の頭の中で考えた「あるべき姿」の内容である。
「つめこみ教育」の反対が「ゆとり教育」である。「ゆとり教育」の意味は、「詰め込まない教育」である。
生きる力は、理性判断 (rational judgment) により得られる。だが、日本語では理性判断はできない。それは、未来構文がないからである。
英語教育といえば、英文和訳である。我が国が外国文化を取り入れるための大切な手段である。
先人は努力して、英語の全てを日本語に訳した。だから、わが国は日本語だけで英米流の教育が可能な国といわれている。
日本語解釈を主体とする英語教育も真の意味での教育にはならない。
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5. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」>で下記の如く述べている。

原著者とその読者の世界と、訳書とその読者の世界とは、はっきり別なのである。この二つの世界が、どうやってお互いに理解するか、考えれば考えるほど、むずかしくなる。だが、その第一歩は、お互いに、非常に理解しがたいことを、まず率直に理解することであろう。これをいい加減にごまかしていては、真の理解は永久にできないであろうから。

判断の基準になるのは、未来構文の内容である。
日本語には時制がなく、未来構文はない。現実構文 (現在構文) ばかりの言語である。
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。階称 (言葉遣い) の使用に習熟するためには、序列判断が欠かせない。
基準 (未来構文) がないので、理性判断がなりたたない。それで、盲目の判断 (序列判断) に陥りやすい。
基準 (未来構文) を立てることが出来れば、理性判断も可能になり、日本人は盲目の判断 (序列判断) からの脱却も容易になる。
この目的には、未来構文のある英語を使用すればよい。

現実構文 (現在構文) の内容は、実況放送・現状報告の内容である。
気分・雰囲気も心の中の実況放送・現状報告である。
現実構文 (現在構文) の内容は「今ある姿」であり、感性に通じている。未来構文の内容は「あるべき姿」であるので、理性に通じている。
日本人は感性を重んじ、感想を綴るのが得意である。
英米人は理性を重んじ、理想を語るのが得意である。
我が国の有識者・知識人は、英語のみで考える力をも養うべきである。


4. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<日本教徒・ユダヤ教徒>で、次のように述べている。

漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対蹠的である。猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この二つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。

現実構文の内容に基づいてこの世の中を観察すれば、その答えは「人の世を作ったのは人だ」になる。この話を読んで、私は、ふとある黒人の冗談を思い出した。彼は言った、「アメリカを作ったのは、実は我々黒人なのだ。白人は、ただそれを傍で見ていただけなのさ」と。

3. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<プールサイダー>で、我が国のインテリに関して次のように述べている。

さる高名なファッション・モデル嬢は、ハイヒールをはいて生まれてきたように見えたという。これはこの人びとの特技で、すべての衣装を、まるで自分がうまれながら身につけていたかのように優美に着こなす。だがしかし、率直にいえば、彼女らは着せられているのであって、その衣装を考案し作成したのは別人であり、彼女らにそれを生み出す力はない。日本における知識人とか文化人とか言われる人びとも、多くはまさにそれで、主として西欧で流行している思想を、実に巧みに自分の脳細胞にまとうから、それがまるで、生まれるときからそういう思想をもっていたかのように見えるのである。

日本人には、自己の「あるべき姿」に関する内容を持たない。それで発言に際しては他所にある「今ある姿」を自分の脳細胞にまとうことになる。また、それをまとうしか方法はないと思い込んでいる。脳細胞は自分のものであっても「今ある姿」は、自分固有のものではない。それで、自分はこの世の真理に到達したと思い込み大威張りでものを言う。自己がないので、発言は傍観者的となる。こうした受け売りを恥ずかしがることはしない。


2. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<プールサイダー>で、「評論家」に関して下の段落のように述べている。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。

評論とは、物事のよしあし・優劣・価値などについて論ずることである。自分自身の基準を立てて、それを現実と比較して結論を得るのは難しい。基準なくして良し悪しを言っているのでは議論にならない。それでは根拠なしである。英語には、時制があり、現在構文・過去構文・未来構文の内容が考えられる。「今ある姿」は、現在構文の内容であり、「あるべき姿」は、未来構文の内容である。「あるべき姿」と「今ある姿」の比較により、物事の根拠ある批判ができる。だがしかし、日本語には時制が無いので、現実構文 (現在構文) の内容しか文章に盛り込めない。日本人の書く内容は、「今ある姿」の連続であるから、書き物は容易になるに違いないが、結論に到達せずにエンドレスとなりやすい。批判が無ければ現実は改革できず、評論自体の意味も失われる。

1. イザヤ・ベンダサンは、<日本人とユダヤ人>の中の<クローノスの牙と首>で、「待つ」ことに関して下の段落のように述べている。

日本にも聖書の読者がいる。聖書には「待つ」という言葉があるが、日本人にとっては「まだか、まだか、まだか・・・・・」といらいらしながら待つこと (すなわち、期待の成就と、迫り来るクローノスの首を二つながら絶えず意識していること) だが、遊牧民にとっては、時の流れに乗っている状態にすぎないのである。

私は、遊牧民の言語は知らないが、日本語の方は分かる。それで、日本人の心理状態も理解できる。日本語には時制がない。だから、日本人の頭の中には現実構文 (現在構文) だけがある。待つ内容は、未来構文の内容である。が、これは見えていない。これが現実構文の内容に変換されるのを待つのである。だがしかし、未来構文が無ければその内容もない。心もとなく不安である。それで、その内容が現実へ変換されるのを「まだか、まだか、まだか・・・・・」と待ちわびるのである。日本人は、「世の中よ、変われ、変われ」というけれど、変わった内容が良くなるものか悪くなるものかをあらかじめ議論することに興味を示さない。それも、未来構文の内容が思い当たらないからである。
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