現代意識潮流を探る、その深層には?
129618 > 真の意味での「学問」
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/31 PM09 【印刷用へ】
> 現代意識潮流を探る、その深層には?
> 62811 真の意味での「学問」
> 雪竹恭一 ( 38 大阪府 営業 ) 03/10/12 AM00 【印刷用へ】
> 改めて「学問」て何だろう?と考えさせられます。私自身を振り返ってもそうでしたが、「大学の授業がつまらない」と感じている学生は多いと思いますし、「何のために大学に行くのか?」という疑問に対して明確な答えを持ち合わせている若者は少ないのではないだろうかと思います。
「何のために大学に行くのか?」は、文明開化のためでしょう。128240
> 大学の授業がつまらない理由は、教授が「講義」をするという一方的な授業方式が殆どで、「問答」や「議論」を通じて考えるという機会が少ないということが挙げられますが、それ以上に、「その学問がどのように社会の役に立っているのかがわからない」という理由が大きいのではないかと思います。
学問は、見栄と外聞のためにするのでしょう。102309
> 近代の大学は、高度に専門分化されて、身なりも立派になりましたが、その一方で、「現実の問題をどう考えるか」という本質的な役割からはどんどん遊離していったのではないでしょうか。実際、現実に起こっている問題に、大学は殆ど答えることができていないし、普通の人からみるとどうでもいいような「学会」の身内の議論に終始し、自己満足に陥っている学者も多いと思います。
大学人が無哲学・能天気では万事休すです。84032
> 大学改革が叫ばれて久しくなりますが、先ず何より「現実の人々の必要に答える」という原点に立ち戻る必要があると思います。当り前のことかも知れませんが、「学問」の目的は、「現実の問題に答えを出す事」であり、「そのために追究すること」が学問というものであると思います。大学キャンパスの原点は、教授や学生の下宿、街の広場や路上など、現実に人々が生活し、行き交う場そのものものであったといいます。路上は人々の生きる現実の場であり、現実の真っ只中で問答をして考えるという露店の在り方は、「学問」の本来の在り方を問い直すものだと思います。
「学問」の目的は、「現実の問題に答えを出す事」との発言に同感です。82251
「今ある姿」に対して「あるべき姿」からの答えを出す必要があります。83300
その目的には、未来構文が必要です。が、日本語には、未来構文がない。82285
教授や学生の下宿、街の広場や路上など、現実に人々が生活し、行き交う場そのものもがあっても、頭の中に未来構文の内容が無ければ、知的活動に支障をきたすと考えられます。82320
それで、猿真似によって知的な英米に追いつくことは難しい。83415
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その他(若者と老人)
129584 > 序列の組換えと制度の切り売り
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/31 PM06 【印刷用へ】
> その他(幼・少・青・壮・老)
> 71285 序列の組換えと制度の切り売り
> 佐藤英幸 HP ( 41 新潟 塾長 ) 04/05/01 AM01 【印刷用へ】
> 外圧=上の学校(中学)→上の学校(高校)→上の学校(大学)→上の学校(大学院)という単純な仕組みで大学院進学率は伸びてきた。学校内でも授業→テスト→通知表→上の学年という仕組みである。要するに「上の」何かがあってそれが絶対的な外圧として働いてきた。
向上心が刺激されたのですね。104420
> 理科系の学生はともかくも、大多数を占める文科系・文理系の大学は教養部である。だから大学院進学率はそれほど高くない。そこで学ぶ知識が現実問題なにも役立たないことを知っているからである。
実学 (技術) 以外は、虚学なのでしょう。83415
日本人には、英米流の教養がない。だから、日本人は、それを求めない。98872
大多数を占める我が国の文科系・文理系の大学は無哲学・能天気の役に立たない。105530
だから、大学院進学率はそれほど高くない。128896
> この間、外圧を高める為に、ロースクール等を設立。次は何を作ろうかと頭を悩まし日夜議論を繰り返している官僚機構の姿が目に浮かぶようだ。最後には国民に生涯通知表でも付けるつもりだろうか。その動きも無くはない。
知的な職業人になるには、大学院の教育は必要ですね。95609
>>教育の放棄か、資格志向への迎合か? (71196 井草さん)> は、教育の放棄と表現されたが、社会の人すべてに序列をつける動きと見るべきではないだろうか。
横並びの比較に狂奔すれば、その結果として生ずる格差の検出により縦の序列が定まる。個人はこの枠からは出られない。82942
この現象は、序列人間の閉塞なのであろうか。103009
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現代意識潮流を探る、その深層には?
129548 > 可能性を感じながら充足
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/31 AM03 【印刷用へ】
> 現代意識潮流を探る、その深層には?
> 25993 可能性を感じながら充足
> 村上靖佳 ( 20代 愛媛 技術者 ) 02/03/07 PM11 【印刷用へ】
>>そんな若者達に「欲しいものはなにか?」と聞くと、根性、やりがい、目標、夢、希望、親友などの答えが戻ってくる。21世紀を生きる若者達は、もはや物質的豊かさよりも、「自分らしい生き方」を求め、社会に対して役立ちたい願望も強い。(日経)
> 「根性、やりがい、目標、夢、希望、親友」からなぜ「自分らしい生き方」が導き出されるのか甚だ疑問ですね。「根性・やりがい・親友」からは親和充足、役割充足(期待応望充足)を求めていることがわかります。
> では、「目標・夢・希望」、彼らは一体何を求めているのか?少し前に「新しい統合NW」で議論されていた「可能性先」を探しているのではないでしょうか。
「目標・夢・希望」は、未来社会に関する内容ですね。82242
自分自身の「目標・夢・希望」を持つことが、「自分らしい生き方」をする第一歩になると考えられます。83415
> 「未来が見えない」というもやもやした状態では親和充足も役割充足も中途半端で煮え切らないでしょう。やはり、何かしら「可能性」を感じながら仲間の中で充たされたい。現状は、その「可能性先」がほとんどないということだと思います。
日本語に未来構文がなくては、未来の内容は考えられないでしょう。それで、「未来が見えない」のでしょう。81994
未来の内容が脳裏に保持できるようになれば、それを実現する方策もまた考えられるようになるでしょう。93835
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その他
129546 > 「あんたらまだましやで」と伝え続けるマスコミ
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/31 AM02 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 73136 「あんたらまだましやで」と伝え続けるマスコミ
> 澤井英次 ( 52 大阪 塾講師 ) 04/06/07 PM02 【印刷用へ】
>>貧困の消滅以後もわずかに残った、(自分たちの商売道具=旧思想が歓迎される)限られた「一部の」「困っている」人々の不全や欠乏をこれ見よがしに取り上げ、それがあたかも社会全体の統合課題であるかのようにスリカエを始めた。そして「一部の」人々の権利だけが声高に主張されるようになった。(72740)
> 「困っている人々」をネタに報道されることによって、視聴者は「こんな人もいるんだ!」と感じ現状に甘んじてしまう。
横並びの比較ですね。82942
現実肯定主義ですね。82615
> 「あんたらまだましやで。」と感じさせられているだけなのに、またスイッチをいれてしまう。
「上と見るか、下と見るか」の判断ですね。自分が上と判断されることは、気持ちの良いことですからね。97858
> 現実と自分の眼の間にマスコミがフィルターとして入り込み、誤魔化されてしまう。
マスコミが誤魔化すのには、やむをえない事情があります。127662
日本人には、「あるべき姿」の内容を脳裏に保持することができない。それで、現実を見ても理性判断が下せない。94416
つまり、日本のマスコミには理性判断を下だす役割がない。82504
> 最近テレビに登場する評論家やキャスターの眼に力が無いのを強く感じる。
> 「こんな話題で議論しても何も変わらんやろ!」と思いつつ登場してくる彼らの「後ろめたさ」が伝わってくる。
賽の河原の石積みのようなものですね。109578
> 彼らが「ネタ探し」に疲れ果てるのを待つしかないのだろうか?
疲れ果てても、どうにかなるものではない。
「そのうち、何とかなるだろう」という台詞は、迷信のようなもの。103932
正しい言語の勉強が必要ですね。99076
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中央集権と封建制
129440 > 「世間」という現実肯定観念@
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/29 PM10 【印刷用へ】
> 中央集権と封建制
> 21331 「世間」という現実肯定観念@
> 山澤貴志 ( 36 鹿児島 建築士 ) 02/01/18 AM01 【印刷用へ】
> #本音と建前 ──「世間」の中で生きる個人・「世間」の代表としての個人──
日本人は元来、世間に依存し、つまり世間に拘束されると同時に世間によって存在を保証されて生きる存在だった。よって世間の代表としての発言(建前)が、個人としての本音と分離して存在している。建前のコミュニケーションは言葉によって成立しており、互いに他者である世間(=世間の代表としての個人)同士で行われる。それに対して本音のコミュニケーションはしばしば身ぶりによって成立し、一つの世間の内部で行われることを前提としている。日本の世間の内部にいるとき必要とされるのは建前よりもむしろ本音の方である。
伝統的社会では、コミュニケーションは世間同士には建て前で、世間の内部は本音で成立するのですね。とかく、この世は無責任。98352
> #明治以降の教育
明治維新と共に、西洋的な自我を持った個人という概念が教育にも積極的に取り入れられた。しかしこの概念は、絶対的な神が存在する西洋に特有のものであり、世間と共に生きる日本の個人の姿の実際を無視するものだった。この点において明治以降の日本の教育は、実質にそぐわないものとなってしまったと言えよう。
同感です。82320
神は未来構文の内容であるから人さまざまで、他人に譲歩する筋合いのものではありませんね。82180
日本語には未来構文が無いから、自我を持った個人という概念は日本の個人の姿の実質にそぐいませんね。92653
> #教養人とは? 阿部先生によると、教養には、個人の教養と集団の教養がある。個人の教養とは、西洋的個人の存在を前提としたもので、「いかに生きるか」という問いを起点としている。多くの分野の知識に通じ、的確な判断が下せる人間が教養人と呼ばれる自覚を有する。それに対して集団の教養とは、常に社会を念頭に置いており、自分の社会の中での位置を知り、社会の中で何が出来るか知っている、又は知ろうとしている状態をさす。
英米の教養人は、大学の出たてでも、一人で我が国にやってきて、教師の立場 (ALT=assistant language teacher) から我が国の子供の教育に当たる。128614
それとは対照的に、海外にいる若い日本人の末裔は、単純労働者として我が国に多数就労している。現地での経済力を掌握しているのでもない。108777
我が国の集団の教養は、かの国においていかに生かされているのか。82476
> 日本人の認識は世間の見地に立脚しているものであり、時代を超えた枠組みとして存在する世間をはっきりと認識することが求められている。そのような日本においては、西洋の近代的個人を目標とするのではなく、世間の存在の上で個人がもっと闊達に生きる道を探すべきであろう。個々の人間の尊厳は1人では守れないし、個々の人間が完全な教養人になることもできない。人間は他の人々の中でのみ教養人たり得、集団的教養の中でのみ教養人になれるのだ。
他力本願ですね。それとも、馴れ合い、もたれ合いですか。93613
> (西洋的な)教養主義は、阿部先生が日本にそぐわないと批判していらっしゃる西洋的な個人の存在を前提としています。そういう意味で、阿部謹也先生は(西洋的な)理念と対立する教養像を掲げている方であると言えます。今回のシンポジウムは、21世紀に必要とされる教養人とはいかなるものか、大学による教養教育とはどうなるべきなのかを、改めて問い直す良い契機となることでしょう。(HP リンク より一部修正して引用)
我が国は「世界にあって、世界に属さず」ですかね。 100847, 98123
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宗教って、どうしてできたの?
129406 > 中国思想と中国仏教(現実志向の背景)
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/29 PM03 【印刷用へ】
> 宗教って、どうしてできたの?
> 68715 中国思想と中国仏教(現実志向の背景)
> 吉国幹雄 HP ( 51 鹿児島 講師 ) 04/03/07 AM00 【印刷用へ】
> 『インド仏教』は後漢初期には経典が中国に伝わったと言われていますが、中国の思想と対立する異質なものとしてなかなか受け入れられず、中国的なものに少しずつ変化したようです。隋から唐の初めに成立した宗派仏教がインド仏教とは違った独自の学問的対象となったのもそのためのようです。
> 何が人々に受け入れられず、なぜ受容されなかったのか。中国の現実(序列原理)と仏教を初めとする宗教との関係は、これまでの議論と相違点があるのか。
> ところで、諸葛孔明という中国史上有名な軍師がいますが、その諸葛孔明が15歳の時に敵の大将にとらわれた時の話。なぜ逃げなかったかを問われた時に以下のようなやりとりがあったらしい。(陳舜臣の『諸葛孔明』のお話なので、歴史的事実かどうかは定かではないですが)
> 「出家の身なので…。今は、『道行般若経』を学んでいる」と孔明。>「ほう。ではここでそれを講義してみろ。なまなかな講義をすれば地獄に落としてくれよう」> 「私たちがこの目で見ている、もろもろのものは実は実体のあるものではありません。すべて空しいのです…」> 「待て!」「わしの目にはおまえが見える。十五にしては大きな体だ。それも空しいものじゃな? 実体がないものじゃな? さお、どうだ?」> 「はい」> 「それではその通りにしてやろう。おまえという実体はない。この世に生きていなかった。空しい屍にしてやる」
> 私は、上記の例が当時の中国の思想(大衆共認内容)と仏教(インドにおける大衆共認内容)との相違点を的確に示しているのではないかと思います。
同感です。128704
インド人の言語は、インド・ヨーロッパ語に属し、時制があるそうです。48321
一方、中国語は日本語と同様に、時制はありません。95629
だから、日本人には、『中国仏教』なら受け入れられるが、『インド仏教』は受け入れられないのである。本源は無理で表層である。
まっとうな英語よりも日本人に訳された和製漢語の方が中国人に分かりやすいようなものでしょう。83354
日本人や中国人には、現実と非現実の内容を取り扱う哲学という学問は歯が立たない。123837
それで、明治の開国政策の時の方便と同じようにして、仏教という難物を自分勝手な解釈により処理しようとした。84909
フランク・ギブニー (Frank Gibney) は、自著<人は城、人は石垣>の中の<義理と人情のクモの巣社会>で、我が国の仏教について、以下の如く述べています。
「しかし、日本人は、彼等に仏教を初めて教えた中国人や朝鮮人よりもインド仏教を根づかせた。キリスト教より寛容な仏教は、大体において日本の宗教制度に組み込まれることを受け入れ、いわば大地に降りた。いわばまるで、道路輸送にだけ使われる飛行機のように翼を飾りのように縮小し、モーターを変え、地上運行に都合よいように余分の車輪を加えた。」127883
同じアジヤ人と称される日本人よりも、アングロ・サクソン族のほうがインド哲学に対する理解が深いのではないだろうか。12373
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素人に、何が、どこまで創造できるか?
129394 > 顕在観念と潜在思念
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/29 AM11 【印刷用へ】
> 素人に、何が、どこまで創造できるか?
> 6938 顕在観念と潜在思念
> 矢ヶ崎裕 ( 26 長野 経理 ) 01/07/27 PM09 【印刷用へ】
>>素人の創造の新たな黎明期に(それをどの様にして顕現させるかを議論している時に)、いきなり最終的な制度・システムの欠如を持ち出すのは、単にマト外れであるだけでなく、私権制度やそのプロたちの存在を正当化することになりかねないのではないでしょうか?(岡田氏、6741)
> 同感です。潜在思念を温め、豊かにすることが第一であり、そのためにも、潜在思念に危害を及ぼしかねない顕在的な観念(諸観念・システム)の取り扱いには、十分な注意が必要です。
素人の創造性は、英米型の大学にて養われるのが適当であると考えられます。82320
> 阪本さんが投稿6762で、現代日本の哲学の不毛を指摘されていましたが、哲学が生み出す諸観念は、岡田氏の言われる潜在思念の正反対に位置付けられるものでしょう。
正反対といえば正反対、同側といえば同側でしょう。外から見れば、無から有を生ずるようなものでしよう。だから、空理空論か。102335
哲学が生み出す諸観念は、現実と鏡像の位置にあります。99987
> 人の認識は、さまざまな「潜在思念」に支えられていますが、拡大し複雑化した社会に対応すべく、「潜在思念」を顕在化(=明文化)しようと試みたものが、古代の宗教や哲学であり、また近代の科学だったのではないか、と思います。
潜在思念を顕在化(=明文化)させるのが、考える人の働きでしょう。101052
> 「潜在思念」を顕在化させることは、日常の認識しいては生活の手助けとなるはずでしたが、結果はそうなりませんでした。奇妙なことに、「顕在観念」はさまざまに歪められたり捏造されたりしました。それだけでなく、「顕在観念」は不当に高い地位に登りつめてしまったのです。逆に「潜在思念」の価値は、徹底的におとしめられてしまいました。
日本人は観念 (idea) に馴染めないですね。125150
観念の内容を日本語で話せば、空理空論となる。125564
一方、潜在思念は人畜共通ですね。107515
> しかし顕在的な観念がどれも説得力を失いつつある今日、それら諸観念に惑わされない、当たり前の感覚・認識(潜在思念)を呼び起こすことが、切に求められていると思います。閉塞を打ち破るためのさまざまなヒントが、そこには隠れているはずだからです。
考える人の育成が最重要課題ですね。106805
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その他
129307 > 新概念は未来形
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/28 AM10 【印刷用へ】
> その他(社会統合)
> 39624 新概念は未来形
> 小西彰 ( 52 京都 塾講師 ) 02/09/08 PM03 【印刷用へ】
> これまでの議論で、旧観念は文字通り過去の形骸として完結したと思われます。対して、新概念は、現実直視から未来普遍に生起するあらゆる事象への認識に至る道具(方法論)として、はっきり位置付けされました。
過去は、水に流すことなく、過去構文の内容として保存する必要がありますね。128172
観念は、未来構文のない日本語では役立たないですね。127450
雑念を廃して、現実直視を実現させなくてはなりませんね。90895
無哲学・能天気から脱却して、未来の普遍を大切にしたいですね。82144
> 現実は、未来に向けて絶え間なく展開するものである以上、この新概念を更に未来形の概念として捉えたいと思います。未来に向けては、固定的な価値観念などが無縁であるのは自明ですが、仰るような新人間関係の可能性には、認識形成への探求者として、又、同志としての期待と喜びがあります。
真理の探究ですね。85516
未来構文の内容を考える必要が出てきますね。128081
> 道具も使い様や対象次第で、適不適も錯誤もありうるでしょう。しかし、この後は、それをいかに使うかが日々の試金石となるのでしょう。楽観は禁物ですが、その切れ味を試しつつ、磨きをかけ、生活、闘争、認識営業の場に生かしたいと思います。
情報の収集能力も、アンテナの張り方により変わってきますね。82057
楽観はできませんが、希望は持てますね。82242
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共認運動をどう実現してゆくか?
129170 > 携帯メールに比べて、ネット投稿は何故広まらないのか?
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/28 AM06 【印刷用へ】
> 共認運動をどう実現してゆくか?
> 322 携帯メールに比べて、ネット投稿は何故広まらないのか?
> 岡田淳三郎 ( 60代 大阪 経営 ) 01/09/25 PM05 【印刷用へ】
> ●携帯には、連絡を取るという、実関係に欠かせない(その補強手段としての)必要性と利便性がある。> ●その上、簡単なメッセージを発信するだけで関係を保てる(従って広くつながれる)という、思わぬ利便性もある。> ●そして、あくまでも1:1の私信なので、日常の私話と同レベルで(特に構えることもなく)発信できる。> ●それに対して、ネットでは生活情報や知的情報を得られるが、それらは欠かせないものではなく、必要性も利便性も低い。> ●しかも、それらの情報は読めば足りる。そこには、連絡を取る為と云う様な発信の必要性(必然性)が、全くない。> ●その上、ネット上に発信すれば、多数の目に触れる。多数に向かって発信するという経験自体が日常生活にはない。> ●従って、ネット上の発信者=投稿者は、出会い欠乏が強いとか訴えたい思いが強いとか、発信必要の高い一部の人に偏る。しかも、私信ではなく公開で、かつ非日常的な行為なので、文章に慣れた者しか(or素人なら構えた文しか)発信できない。
> ☆普通の人に(皆に向けて発信するという非日常性の壁を越える)発信必要性を作り出すことが不可欠。
> ⇒☆それは、社会変革⇒社会参加=ネット発信(つまり、投稿は社会人の責任課題)という課題共認しかない。単なるつながり・広がり欠乏では、発信必要までいかない。MLであっても発信の課題共認が不可欠である。
同感です。100729
堺屋太一さんは、ご指摘の情報の広がりについて、わが国は対面情報社会であるのにたいして、世界は通信情報社会である。だから、日本の情報は世界に届かず、国際社会におけるわが国の地盤沈下は避けられないと述べておられます。
フランク・ギブニーさんは、英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。日本語は「私とあなた」の言語であると述べておられます。106718
私・寺嶋の考察では、このような英語と日本語の現象の違いは、時制のある無に深く関係しているということになります。102080
日本人も英語の長所を生かして、発信必要性のある情報を作り出す必要があります。82285
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閉塞の元凶は、個人主義
128983 > 開き直る「自己中」
寺嶋眞一 ( 69 静岡 無職 ) 06/08/25 PM07 【印刷用へ】
> 閉塞の元凶は、個人主義
> 128950 開き直る「自己中」
> ひろいち ( 23 大阪 会社員 ) 06/08/25 AM07
> 「自己中」といわれると、少なからず誰もが嫌な気分になったり、へこんだりするようだ。> これは既に「自己中」という言葉が、仲間や社会といった集団において、煙たがられる存在であると言うことが共認されているからであろうと思う。
見栄と外聞ですね。これらを判断の基準とするのは心もとないですね。84743
> しかし、それにも関わらず、誰かに自己中と言われると、「そうやで、俺(私)は自己中やし!」と言って開き直る人がたまにいる。> 「自己中」という烙印を押されれば、誰もが周りから煙たがられるという意識が根底にありながら、そこで開き直れる人がいるのは何故なのか。> 思うに、そういった人たちが自己中的な言動を起こした際、その人を取り巻く周りの仲間や親が、「自己中」の何が悪いのかを教えていないからではないかと思う。
それは恣意 (私意・我儘・身勝手) 的な人ではないでしょうか。84027(正誤表:でしなくて→でなくて)
> そもそも誰もが意識的に「自己中」な行動を取っているとは考えにくいし、みんな「なんとなく」とっている行動が、結果的に周りにとって迷惑になっているのであろう。> 「なんとなく」自己中的な言動を行っているのであれば、自分では何が悪いのか全く理解していないだろうし、そこで「お前は自己中だ!」と言われたり仲間はずれにされるだけで、「自己中」の何が悪いのかを教えなければ(若しくは、曖昧に教えれば)、何となく周りに迷惑をかけたような気はするが、どうすればいいのか分からず、結局「自己中の基準は人それぞれで、自己中と言う方も自己中じゃないか!」と反発したり、「俺(私)は自己中ですけど、何か?」と開き直る人を増やしていくだけのように思う(また、圧力に耐えられず集団から離れ引きこもる人を増やしていくだけ)。
同感です。この場合の「人それぞれ」は、何か可笑しいですね。定義に問題があるのではないでしょうか。127905
自己中心主義 (egocentrism) の権威であるピアジェ (Jean Piaget 1896-1980) によれば、直感的・自己中心的な認識は、2−7歳 (前操作的段階) の子供に起こるとされているのですが、我が国では大人に起こるのでしょうか。21237
> これまで、るいネットにおいて何度も投稿があるように、「自己中は人類の敵」であり、絶対排除しなければならない存在である。> そして、「自己中」を排除する為には、絶対的な排除圧力を「自己中」に与え続けると共に、「どうすればいい」という課題を与える(期待する)必要がある。> 絶対的な排除圧力と課題を与えるというセットがあって初めて「自己中」を排除する可能性が生まれるのではないか。
恣意の人は、何処の国でも受け入れられませんね。94775
恣意の代わりに意思を持つことが必要ですね。100529
ところで、あなたは絶対的な排除圧力と課題を与える具体的な内容をお持ちですか。82057
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