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思考パラダイムの逆転
128267 > 自省していて社会は捉えられるか
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/16 PM03 【印刷用へ】

> 思考パラダイムの逆転
> 19255 自省していて社会は捉えられるか
> 斎藤裕一  ( 37 東京 建築家 ) 01/12/24 AM00 【印刷用へ】
> 確かに始源人類は、自然の具象の背後に精霊を対象化した。しかしそこには、「職人」の例と同じように捉えるべき対象が己とは関係なく存在しているという特徴がある。

現世とは別の世界の内容ですね。103296

> 対して「社会」はどうか。実は「社会」というものが、これを捉えようとする我々からは完全に切り離せない、対象化しきれないものかもしれないという疑念が、現在の私の頭の中に渦巻いている。

同感です。91780
現実構文オンリーの言語で考えた場合には、我々の住む世界から我々は完全には切り離せない。95210

> その様に考えるようになった発端は、昨今のこの会議室での議論である。そもそもこの会議室は、「社会変革」を中心且つ最大の課題としている。とはいうものの、これを課題化出来る人間は現在では極めて稀であるのも事実であり、正直に言って、「社会」どころか、「何故人々は参加しないのか」「考えられないのか」といった、どちらかと言えば「捉える側の問題」に終始してしまっている。

日本語を使って課題を捉えるのは無理でしょうね。84116

> 確かに我々自身の観念の構造がどうなっているのかということが、社会そのものの有り様を規定する(と言うより同一の問題である)。しかしその際、社会の問題であることを忘れ、自身の怠惰だけを問題にしてしまうのであれば、後は単に心構えというような話にしかなっていかないであろう。問題は「社会」であり、「自分」ではない。その単純な意味合いにおいて自省には何の意味もない。

同感です。自省には意味がないですね。我々の頭の構造が問題ですね。127748

> この問題は、やはりある意味で、構造的に捉えられるべきであろう。感応観念・既成観念との指摘はその通りである。しかしそう言われて短絡的に自省に向かわせる構造そのものが、現在の「社会」には存在しいているのではないのかと思う。

無哲学・能天気では、短絡的にならざるをえませんね。自省は現実構文の内容ですから我々には考えやすい。128100

> つまり、「社会を捉えようとしたとき、そこには必ず自分が存在している。」という構造である。
> そして恐らくこのことが、我々自身の、そして現代社会の最大の幻想性なのであろうと思う。自省が自らの怠惰を明らかにすることであるならば、一方でそうした社会の当事者として半ば社会というものを認めてしまうことにもなりかねない。社会だけが悪いのではなく、自分も悪いのだと。

同感です。108182
自分のまだ行っても見ない世界のことを深く考えるべきですね。126878

> 始源人類や職人がそうであるように、対象に向かうということは、自らの思考を越えてその有り様を捉えようとすることなのであろうし、そうした努めこそが、新たな認識を生むのだと思うが、このことが決して精神論や自己の認識(の妥当性)の問題ではなく、あくまでも現代社会の構造的な問題として捉えるべきものであろうと感じている。

同感です。83662
目先・手先の事柄を乗り越えて、新たな世界の有様を考える (捉える) べきだと思います。82057
それには、日本語の構造的な問題を考察の対象から外すことは出来ません。85176
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その他(認識論・科学論)
128240 > 日本人の性質
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/16 AM04 【印刷用へ】

> その他(認識論・科学論)
> 24130 日本人の性質
> 田宮たかこ  ( 21 大阪 学生 ) 02/02/16 PM03 【印刷用へ】
>>問題なのは、そうした矛盾だらけできた教育理念を何も考えることなく受け入れきた現場にあるように思います。(24050)> 例えば、学校で学んできた「自己」「個性」は現社会システムに合致するのかと問われたとき、私は「ちょっとずれてるのではないか」と思ってしまいます。

我が国の教育理念は外来思想に基づいていますから、外国語を右から左へ翻訳した内容では日本人に通じないでしょうね。92653

> それは、日本の社会はどことなく「和」を基調とした性質がまだ残っていて、「自己」や「個性」を出す場が十分に与えられていないのではないか、と感じることがあるからです。

考えに関する「自己」や「個性」を表現するためには議論が必要ですが、個人が認められない社会においては、議論は不必要なものと考えられます。83459
「議論をすれば、喧嘩になります」という日本人もいる。94775
喧嘩をするために、議論が必要になるのかもしれませんね。106839
議論を通して相手の理性を求める必要はまったく存在しないからです。103794
そして、喧嘩は、「和」の精神に反しますね。だから、議論も敬遠されている。107155

> ではなぜ日本では「自己」や「個性」を教えるのか考えてみると、過去に成功を収めたアメリカやヨーロッパの教育を模倣して、日本人の伝統や性質を軽視してしまったことに問題があるのではないかと思うのです。

わが国民は、文明開化を求めました。アメリカやヨーロッパに追いつき、追い越したいと考えていました。88944

> 戦後の洋風化で下火になってしまった日本人独特の性質が、今になってあふれ出てきているのではないでしょうか。

英語の考え方は、日本語の考え方に載りませんね。そのことに日本人が100年以上経って気づき始めたのでしょう。127915

> 他国の教育を模倣するのではなく、日本人自身が新しいものを考え出していかなければならない時期がきているのではないかと思います。
 
外見だけを取り入れようとするから模倣になる。83201(正誤表:「あるべき姿」ない→「あるべき姿」のない;我が国フ言語→我が国の言語)
考えそのものを取り入れたら真の理解になる。104880
日本人自身が新しいものを考え出すのは、その後になるのではないでしょうか。83415
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その他(性と家庭)
128216 > 抽象的な「個人」、具体的な「男」と「女」
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/15 PM08 【印刷用へ】

> その他(男と女・性・婚姻)
> 25788 抽象的な「個人」、具体的な「男」と「女」
> 岩井裕介  ( 29 山口 再開発プランナー ) 02/03/06 PM01 【印刷用へ】
>>皆、人間なのだ。その一つの事実だけで充分ではないだろうか。

同感です。82879

> 男である、女であるまえに、一人の人間=個人であるという言葉をよく聞きますが、それは果たして本当なのでしょうか?> 卑近な例で申し訳ありませんが、私の場合、親しい友人との日常会話の場面で、「男であるまえに一人の人間として・・・」などと言うことは、まず想像しにくいです。また、男が数人集まれば、女の話題になるのが常ですが(これは逆もそうだと思いますが)、こうした、くだけた場で「男であるまえに一人の人間として・・・」という言葉を口にしても、座が白けるだけで、かえってその「人」を感じることができないのではないでしょうか。

実に神話時代から、日本人にとって性はあくまでも情緒の対象であるが、牧畜民は農耕民とちがって「性交あれど情交なし」だそうですからね。白ける。93729

> 「個人」という言葉は、教科書や新聞紙面等によく出てくる、学問・思想上の基本用語にあたりますが、そうした言葉が使われる場所は案外限られており、我々の日常語とは切り離されている、という印象を持っています。いわば、もうひとつの言葉(観念)の世界を形成しているような感じです。

観念の世界は、外国人の考えを翻訳した世界に形成されますね。82285
日本語は、実況放送・現状報告のための言語であるから、観念の世界を内容とすることはないですね。あれば、それはこの世の嘘になる。90820

> こうした言葉のギャップは自覚的に意識しておいたほうがよいと思っています。

同感です。英語と日本語の機能の違いですね。127915

> このギャップに関して私が感じていることは、一人の人間=個人という言葉の醸し出す意味内容が極めて『抽象的』であるということです。漂白された言葉とでもいいましょうか。

「理屈などどうでもよい。現実は見れば分かる」といったことでしょうか。100053

> つまり、あまりにもきれいごとすぎて、かえって空疎であり、人が持つ生々しさが全然感じられないのです。「個人」というものがあたかも存在するかのように語られていても、それは頭の中でしか(言葉・観念の中にしか)存在しないもののように思えてしまいます。(「個人」という観念の出自については、25563『自然法、基本的人権とは何か−2』をご参照ください。)

哲学には、実感 (現実感) がないということですね。哲学の内容は、実学 (技術) でないから学んでも実感がない。83415
実感のない考えを持たないということは、無哲学・能天気であるということではないでしょうか。82144

>>確かに、こういうものが女らしい、男らしい、というイメージはきっと誰もが心のどこかに抱いている。

「、、、、、らしい」は、気分・雰囲気に関する事柄ですね。83954(正誤表:「あるべき姿」関する→「あるべき姿」に関する)
気分・雰囲気に関する内容は、文化人の考える事柄に属すのでしょうね。103794

> 鈴木さんも上記のようにおっしゃっていますが、個人というよりは、男である、女であると捉えた方が、より『具体的』な姿がイメージできます。

具体的で分かりやすい。そして、偽りであろうとも信じやすい。92935
だから、現実直視も難しい。90895

> それは決して抽象的な観念(言葉)としてではなく、非常に人間くさい「男」「女」を想起させることは、誰しも経験上感じていることではないでしょうか。そうした生々しい「男」「女」のイメージは、よいもの、わるいもの、エロチックなもの、不可解なもの等々いろいろなものが、ないまぜになっているのが通常だと思いますが、こうのような感性、感情といったものを切り落としてしまうのではなく、もっと豊かに語り合う、共有することが重要で、かつそのほうが楽しいのではないかと感じる次第です。

豊かな感性、感情の中に個人が閉じ込められている。128127
現実の外に首を出して、全世界を眺めることも必要でしょう。128022
さすれば、希望の持てる未来社会の建設に必要な内容も理解できるものと考えられます。82057
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共認運動をどう実現してゆくか?
128188 > 素朴な疑問
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/15 AM09 【印刷用へ】

> 共認運動をどう実現してゆくか?
> 25373 素朴な疑問
> 仲西大輔  ( 24 沖縄 学生 ) 02/03/01 PM07 【印刷用へ】
> 前稿(25214)では、新しい認識を共認するには、“みんなで事実を追究し続ける”ことの大切さを述べました。しかし、素朴な疑問が残ります。> “みんな”とは具体的に誰を指すのだろう?

“みんな”とは、人類全体でしょうね。国別の学問は意味ないでしょう。128022

> まず、この「るいネット」に参加している人達は、今、現実的な“みんな”です。そして、これからこの“みんな”の輪(というよりむしろ網?)、つまり社会統合ネットワークは日本全体(日本人全体)に広がり、さらに地球全体(人類全体)へと広がるべきものだと思います(その上に、地球以外の知的生命体をも含む“みんな”があるのかもしれませんが)。

同感です。真理の探究ですね。85516

> このようにネットワークを広げていく過程で、日本人全体を“みんな”にすることは比較的想像しやすいと思います。それは、日本語という言葉を共認しているからです。しかし、現在では日本人どうしですら日本語に対する認識がズレてきています。そこで、地球全体に目を向けた時、思考の大きな壁にぶつかってしまいました。

日本人全体を“みんな”にすることには、行き止まりがありますね。104012
とくに、日本人全体は「世界にあって世界に属さず」ですね。先進国の中でも異常です。99782

> 国や文化、生活習慣などあらゆる環境が異なる人どうしが共認するにはどうすればよいのでしょうか。正直なところ答えが見えてきません。なんとか可能性を探ることができるとすれば、自然科学などは世界共通の言葉に少し近いのかもしれません。

国際語を使って考えることですね。82373
国際的な会議で、意見交換を行なうことですね。84361
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その他(マスコミ)
128172 < 平和記念日
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/14 PM11 【印刷用へ】

< その他(社会統合)
< 37742 平和記念日
< 東努  ( 23歳 大阪 プランナー ) 02/08/11 AM00 【印刷用へ】
< この時期「平和記念日」として、夏休み中に登校して、毎年戦争映画を見せられた。< 教材として取り上げられた多くの戦争映画が、強烈に戦争がどんなに悲惨なものか?を訴えかける映画でしかなく、戦争に至る経緯・歴史・経済などの「原因」に対する授業はぜんぜんやらなかったように思う。< やったとしても、何月何日広島に原爆が投下されて・・・とかの、「被害」に対する歴史しか学ばなかった。< 子供ながらに毎年こんなの見せられて、感想文を書けといわれても、「戦争は良くないと思います。」くらいしか書けないのに・・・って疑問を感じていた気がする。

同感です。108069
日本人は、現実の内容に関する歌詠みの教育を受けさせられているようですね。103794
理性がないので、感性を刺激するのか。93729

< 「問題意識」で止まってしまえば、何も答えなんて出てこない。

無哲学・能天気の状態は、伝統的な日本人の問題です。82476
戦争にも平和 (戦争のない状態) にも無為無策です。106379
「あるべき姿」があればこそ、現実に関する問題意識も出てきます。82251

< 「事実」を突き詰めて、なぜそうなってしまったのか?ならざるを得なかったのか?と、「原因」を追求していくことから、「考える」事が始まって、「社会不全」→「新しい認識」の追求へと繋がっていくんだと思う。 

事の次第を語るだけでは、未来に対する教訓 (内容) にはなりませんね。102019(正誤表:でるので→できるので)
温故知新は、過去と未来の関係です。105787
現実の雑事に憂身をやつしていては、温故知新は困難ですね。106805

< 「戦争」という形で社会不全が露呈した日から、「平和記念日」はただ「昔戦争があった」という事実を今に伝える日としてしか機能してこなかった。「戦争」は未だ、いたるところで続いているし、それを無くすにはどうしたらいいかわからないまま、「不全」の日々は続いている。

我が国が平和国家であるということは、専ら平和を享受する国家であるという意味ですかね。121903
戦死者の死を無駄にしないということは、紛争の地から逃げ帰ることのみを考えるということですかね。92556
兵士が敵弾に倒れるということは、単に運が悪かったという意味しかないものでしょうか。76427

< その不全を解消するような可能性を感じる新しい構造認識が手に入れられるとしたら、そんな日がはじめて「平和記念日」となるんでしょうね。

歴史哲学が必要ですね。そうしたら、立派な歴史教科書も書けるようになるでしょう。95542
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学者や政治家やマスコミが答えを出せないのは、何で?
128156 > 現実とは何か
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/14 PM08 【印刷用へ】

> 学者や政治家やマスコミが答えを出せないのは、何で?
> 32831 現実とは何か
> 中野剛  ( 38 埼玉 企画 ) 02/06/05 PM11 【印刷用へ】
>>しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。3256

我が国の有識者・知識人は、異様な存在ですね。105507

> とは云うものの彼らもまた現代社会を生きる人間ではある。けれどもやはり、現実社会を生きる当事者というには程遠い感じを抱かずに入られない。

現実対応が上手に出来ないからですね。84116

> ・・・・どこからこの違和感が生じるのか?それは、彼らの対象との関わり方から来るのだろう。一般の人が、その生存をかけて対象としているのは、観念ではなく、また観念では決して封鎖できない具体的な事象・事実そのものであり、またもし、観念を使うとすればそれは、その事実を乗り越えるだけの力をもったものでなければ意味がない。

観念は「あるべき姿」の内容であり、現実は「今ある姿」の内容です。85322

> それに、比べていわゆる知的階級と言うものが対象としているのは、その多くが観念そのものなのだが、もはや生々しい事実から遊離した無菌状態のようなもので、いかようにも解釈可能なものに摩り替えられたものだ。

観念の話しを始めたら、現実の話はできません。現実の話しを始めたら、観念の話はできません。95791
それで、当事者が現実の話しを始めると、傍観者は観念の話しを始める。82476
無為無策で、諦観あるのみ。85728
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マスコミが第一権力化したのは、何で?
128131 > マス・コミの問題は人々を傍観者にする構造にある
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/14 AM10 【印刷用へ】

> マスコミが第一権力化したのは、何で?
> 37910 マス・コミの問題は人々を傍観者にする構造にある
> 斎藤裕一  ( 37 東京 建築家 ) 02/08/14 PM08 【印刷用へ】
>>マスコミはどうして本当の不正を正し、社会統合の透明性を実現してくれないのか、かえって社会統合を「難問化」させているだけではないか。という不満を抱えています。(山澤さん37868)

不正を正すのには、自分自身の基準が必要ですね。93149
日本人の頭の中には、基準がない。これも言語の構造か。93381
自分の統合ができないと、社会の統合は難しい。109237

> もっとも端的に言ってマス・コミというものは、ネタから分析・論評までのほぼ全てが「借り物」でしかない究極の傍観者であり、不正を正すことや透明性の実現などはもともと出来ることではないと言うことでしょう。

「借り物」はあっても「自分のもの」がないというのは、全体主義の世界ですかね。106000

> そもそもマス・コミが登場する必然性は、個的な存在と化した人々が無数に暮らす社会における共認不全を背景とした情報伝播にありますが、情報を扱うだけでいいというような仕事は、どこまで行っても「ひとごと」でしかない極めて特殊な仕事です。

日本人は、「ひとごと」しかないのですかね。127233
個的な存在と化した人々にも個人主義がない。99069

> 問題はマス・コミが大衆に迎合的あるいは共認的(さらには民主的)かどうかではなく(そうした意味の迎合やごまかしは構造的に当たり前であって)、マス・コミの登場により人々が急激に傍観者化したことではないでしょうか。

そうかもしれませんね。急激に野次馬化した。105507

> 当事者でないマス・コミが扱えるものは比較的当たり前の規範的な価値観でしかありません。

当たり前なら大威張りですね。98795(正誤表:関せられる→冠せられる)

> こうした「ひとごと」のような旧観念に触れることが、傍観者の論理を学ぶことなのであり、それだけで人々を傍観者へと変えてしまうことの恐ろしさを、我々は強く認識しなければなりません。

「門前の小僧習わぬ経を読む」の喩えの如しか。127538
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その他(マスコミ)
128127 > 借り物はいらない
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/14 AM06 【印刷用へ】

> その他(社会統合)
> 38194 借り物はいらない
> 三澤超洋  ( 30歳代 京都 技術者 ) 02/08/19 AM04 【印刷用へ】
> マスコミの傍観者的なスタンスや他人行儀な態度が心に響かなくなってきていることや、結局もやもやと不全感が残った状態のままであることが多いのが、その直接的な理由のように感じられる。

実況放送や現状報告の内容のようなものは、どのように話しても傍観者的なスタンスや他人行儀な態度になりますね。84687

> 傍観者的なスタンスに立っているマスコミには、出来事の一面を切り取って情報として流すことはできても、そこから答えを導き、社会不全を解決し、社会を統合していくことは、当事者でないマスコミのよって立つ基盤からしても、原理的に無理なのではないだろうかということ。

報告者に自己の世界観がなければ、現実批判はできませんね。82251
葦の髄から天井を覗くようなものになりますね。128022

> もしあるとすれば、それは人々をマスコミ以上の傍観者に仕立て上げることであり、幻想や、代償充足を与えつづけること。

屋上屋を架すことになります。ああ空しい。82476

> でも、今や多くの人はそんなことのつまらなさ、無意味さや、現に状況は何も変わらないことを感じつつある。そしてマスコミが発する情報に接すれば接するほどに、傍観者度合いが増していき、不全度合いが増していく構造にさえなっていくことについても。

同感です。皆が無為無策の状態ですからね。82242

> 不全の一翼をマスコミが作り出しているとすれば、TVのスイッチを切り、マスコミから距離をとり、離れるだけでも、頭がすっきりしてくることも納得できる。

この現実を気分・雰囲気の問題にすり替えても解決しませんね。82144
つまり、日本語を使う人がマスコミを廃しても傍観者的性格はなくなりません。105507
かつて、カンボジアのポルポトは、「金の存在が貧富の差を作る」として国の通貨を全廃したが、今はどうなったことやら。
私は、金というものを持たないアニマルのように、完全な貧富のない状態を好みません。82123

> そう、もう傍観者の借り物としての情報や知識は不要なんだ。

アテナイの立法者ソロンは「汝自身を知れ」(Know thyself.) と言いました。98123
我々も、我々自身の事柄を更に深く学びましょう。82879
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その他(認識論・科学論)
128100 > 傍観者であることをよしとする研究者
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/13 PM09 【印刷用へ】

> その他(認識論・科学論)
> 38871 傍観者であることをよしとする研究者
> 神津好英  ( 27 東京 会社員 ) 02/08/28 PM11 【印刷用へ】
> 私は、以前わずかながら学者、またはそれを志望する人々によって形成された場というものに触れ、その世界の閉塞感を感じることが少なからずありました。

縦社会は、一般的に閉塞していますね。85256

> 戦前、戦後の一人のパイオニアが作り出した観念という場の中で、事実の修正や新たな調査の結果報告などを延々繰り返しているのが今の研究者のほとんどだと思います。また今の研究者は、調査して得た事実やデータを統合し、纏め上げて社会にとって有用性のあるものにするということをあまりしたがりません。

科学者は真理を探究し、技術者は有用性ばかりを追及していますね。83415

> たまにシンポジウムみたいなものがあったりしますが、だれも一つの土俵にあがろうとはせず、大体が互いにすれ違ったことを言い合って終わります。そのような散逸した状態をよしとする雰囲気まであります。

同感です。108672
フランク・ギブニー (Frank Gibney) は、<人は城、人は石垣>の中の<日本文化のエコロジー>で、しみついた傍観者の姿勢について下の段落の如く述べています。

日本が国連大学を支持したことはきわめて心暖まる兆候である。それにしても大体においては学界大官たちの孤絶は、世界をますます日本製フィルターで見る一種の受動的で短気なナショナリズムと防禦体勢をもたらした。外界との意味ある接触がほとんどない。丁重なシンポジュウムや国際会議のほとんどは、大きな食堂で互いにラッパ型補聴器で叫び合うビクトリア朝淑女を思わせる。

> 彼らは、社会との距離はその領域の崇高性を表し、また一つのイデオロギーに染まることへの反省を表していると考えているのでしょうが、結局は逃げているに過ぎず、自分の権威を守ることが第一になっているのだと思います。

彼らも、所詮つかみ所のない人間ですね。82478
彼らには、守るものは他にないのかもしれませんね。92653

> そこが閉じた世界であっても、その世界で評価されれば無批判に社会的評価をも得ることができる構造が、学問の世界を傍観者的なものにしていると感じます。

日本人には、理性判断がない。84641
それゆえ、縦社会の幣害が猛威を振るう。93930
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その他(マスコミ)
128090 > 新しい人間関係を求めて
寺嶋眞一  ( 69 静岡 無職 ) 06/08/13 PM06 【印刷用へ】

> その他(社会統合)
> 40012 新しい人間関係を求めて
> 木村友昭  ( 26 大阪 営業 ) 02/09/13 PM10 【印刷用へ】
>>「顔見知り」に始まり「親友」にいたるまで、旧観念における全ての人間関係に必要か否かの判断が下され、何の枠組みにもとらわれない繋がりを急速に発展させつつある。<<(39845 )

「顔見知り」「親友」の枠組みにもとらわれない人間関係も必要ですね。95237
旧観念は日本語で、日本語の枠組みにとらわれない人間関係を作るのは難しいですね。82879

> 昔の友達がお互いの都合の良い価値観念を軸にして形成されてきたという認識は、考えてみるとまったくその通りで、同窓会という場に集まるときなど「あのころは良かった」などとお互い美化された幻想に酔いしれるくらいしかない、そこまで関係が薄くなるのも仕方がない。現実逃避する場を共有しなくなると、お互い幻想まで共感できなくなる。そんな程度の関係しか作れないのも事実だった。

日本人は、過去の内容を過去のものとして保持することができない。83662
過去の内容は、水に流すか、忘却のかなたに置き去りにするかしかない。86240
同窓会は、現実の中に引き戻された過去の有様である。歴史小説のようなものか。91933
これは懐かしい。英語で何と表現するのかな。気分・雰囲気に酔いしれて現実逃避を繰り返していたのですね。82144

>現実逃避するための人間関係を構築したが故に簡単にその関係が薄れていくくらいなら、可能性のある認識をぶつけ合っていけるような人間関係を構築していく方が有意義であるし活力も上昇すると思う。

同感です。95237
現実逃避は、惰眠のようなものですね。それに比べて、未来社会の相談は、建設的ですね。希望が持てる。82057

> だれもが人の繋がりを求めているし、そうであればその繋がりが本源的で認識がどんどん形成されていく創造的な仲間空間がほしいと感じているんじゃないだろうか。

過去の繋がりを乗り越えて、なお人の繋がりを求めるのであれば、まず、議論のできる個人であることが大切ですね。125296
世界観を持ち議論のできる個人には、個人的な魅力がある。94865
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